第56話 抜けない
クオスは心底焦っていた。
「ちん〇んが……抜けなくなっちゃった……」
人生最大の危機である。彼女(彼? )は一人、ダンジョンの身体の前面を壁に張り付けて身動きが取れないでいた。
――――――――――――――――
話は4時間ほど前に遡る。
クオスは焦っていた。
それはもちろんフービエが恥知らずにも殺そうとした相手に仲間の救助を頼んだからでも、三日連続でムカフ島ダンジョンに潜ることになったからでもない。どちらも冒険者を長くやっていれば日常茶飯事の事である。
「大丈夫か? 滑るから気をつけろ」
「あ……ありがとうございます、ドラーガ」
「ど、ドラーガ、あ、あなたも足元気を付けて」
「メスの
「クオスさん、顔怖いです」
マッピが何とかなだめようとするが彼女の怒気は身体から滲み出る。それはもちろん崩落の部屋の瓦礫を協力して降りている二人、ドラーガとイリスウーフを見ての事である。
新メンバー、マッピ、イリスウーフ、そして人形ではあるがクラリス。
一部彼女の思い込みと誤解に基づくものの、ここ数日でドラーガを狙うメスが突然増え始めた。油断しきっていた……それが正直なところだ。パーティー内で扱いの悪い彼を好きになるのは自分だけだろうと思っていたのに、こんな状態になるとは思いもよらなかったのだ。
彼女達とクオスの間には「性別」という越えるに越えられない高い壁がある。このアドバンテージを何とかしてひっくり返さなければならないと、彼女は焦っているのだ。
「大丈夫よ、クオス。落ち着いて対策を練るのよ」
急斜面をゆっくり通りながら、アンセがそう話しかけた。
「私はあなたの味方よ。あんなぽっと出の新人なんかよりあなたとドラーガの仲を応援するわ。だからぜひ二人の恋が実った暁には、クローゼットにでも隠れて二人の行為を覗き見する権利を……」
マッピが「巻き込まれるのは嫌だ」と言わんばかりに二人と距離を取る。崩落の部屋の先はシュートの斜面になっており、前回はここでドラーガが滑落して荷物を失ってしまった。そのため今回は滑落者を受け止めるためにアルグスが先頭、そして一番滑落しそうなドラーガとイリスウーフ、それから残りのメンバーが下りている。
「ああくそ、イライラする」
「よく見て、クオス」
愚痴をこぼすクオスにアンセが優しく語り掛ける。
「イリスウーフ、上手いわね。わざとああやってたどたどしい足つきで降りることでドラーガにサポートさせて、自然にボディタッチしているのよ。クオスや私は隙がなさすぎる。そのせいで男が寄り付かないのよ。男なんて、女がちょっと弱いところを見せりゃいちころなんだから」
「嫌な予感しかしない」
マッピはそうボソッと呟いて二人と一層距離を取る。
「あっ、滑っちゃったぁ♡」
わざとらしくそう叫んでクオスはドラーガ達のいる地点目掛けてダイブしていった。
「思いついたら即実行、体張ってるわね」
「ぶぐぇ!!」
「きゃあっ!!」
しかしドラーガの運動神経では当然クオスの身体を支えることなどできず、逆に彼女の体当たりの直撃を受けて失神、イリスウーフを巻き込んで滑落していく。
「トルトゥーガ!!」
すんでのところでアルグスがトルトゥーガを投擲、壁に突き刺し、チェーンを通路いっぱいに張って全員の身体を受け止めた。
「何やってんだよクオス……」
何とか鎖に引っかかったクオスにアルグスの言葉は届かず、彼女はドラーガの身体に抱きついて胸に顔をうずめていた。
「ああ、ドラーガさん、ドラーガさん、受け止めてくれてありがとう、ドラーガさん……」
「助けたの僕なんだけど」
「はああぁぁ、ドラーガさん、ふんすふんす」
「ダメそうだな」
「ダメそうですね」
「ダメそうね」
ドラーガの胸に顔をうずめてくんかくんか匂いを嗅いでいるクオスにアルグス、マッピ、アンセはほぼ同じ感想をいだいた。
「これは本格的にヤバそうだ」という認識はパーティー内で一致していたが、シュートの横道にある隠し通路(前回マッピたちが帰りに通った場所)に入ってからもクオスの振る舞いは悪くなる一方であった。終始ぼーっとした表情でドラーガを見つめ、ずっと顔を紅潮させており、普段の鋭敏さは全く感じられず、隠し扉の事も全く覚えていないのでイリスウーフとマッピが協力して探し出したほどである。
「アンセ、君はいったい何を彼女に吹き込んだんだ」
「ごめんアルグス、まさかこんなことになるとは思わなくって」
ダンジョンに入って三時間ほど。ベテランの冒険者であるメッツァトルにはまだまだ体力に余裕のある時間ではあったが、いったん休憩を取って軽食を取ることにした。
石を積んでかまどを作り、クラッカーを齧り、さすがに茶は無いが、白湯を飲んで、まだ秋口であるのに冷たい空気によって冷えた体を暖める。
「クオス、いい加減にするんだ。ここはダンジョンだぞ」
アルグスはクオスにだけ聞こえるように近くで彼女に小さな声で、しかし温厚な彼には珍しく厳しい口調でそう言った。終始とろんとした目つきをしていたクオスはハッとしてまるで今目が覚めたかのように姿勢を正して答える。
「ご、ごめんなさい、アルグス。私、ちょっと気を抜いてしまっていた……」
ちょっとどころではない。正直使い物にならないレベルであった。
「君がドラーガの事を好きなのはいやというほどわかったけど、今は仕事中なんだからちょっと自重してくれないかな」
「えっ!? そんな、気づかれて……」
「あれで隠してるつもりだったのか、正直酔っぱらってるとしか思えない判断力だけど……」
ちらりとアルグスはドラーガの方を見る。彼はイリスウーフとクラリスと、何やら雑談をしているようだった。
「いきなり変なライバルがいろいろ現れて焦る気持ちは分かるけど、斥候がそんなんじゃ今回の探索は日を改めた方がいい。どうする?」
「ごっ、ごめんなさい、アルグスさん」
しゅんとして俯くクオス。何やら異様な空気に気付いてアンセも近くに来て話を聞き始めた。
「でもですね、私だけが悪いかっていうとそれも違うと思うんです。あんな胸元の露わになってる服装で隙だらけのドラーガさんに全く罪がないかと言えばそれは違うと思いますし、むしろ私は彼のフェロモンに惑わされた被害者、って見方もできると思うんですよね」
こいつぁ本格的にヤバいぞ。アルグスの表情がそう語った。
「どうしちゃったのクオス、あなたちょっと前まではパーティーで一番冷静な斥候だったのに、なんで急にそんなことになっちゃったのよ」
「すいません、アンセさん。前まではこうやって深呼吸すればすぐに落ち着いてたんですけど……」
そういってクオスはポーチの中に入っていたハンカチを口に当てて深呼吸をする。
「そう言えば前からたまにそのハンカチを口に当てて深呼吸していたね。ブランケット症候群って奴か。そのハンカチの効果がなくなっちゃったのか?」
「いえ、ハンカチじゃなくてドラーガさんの使い古しのパンツです」
「正気になれクオスぅ!!」
急に大きな声を出したアルグスにドラーガが驚いて声をかけてくる。
「どうしたアルグス? なんか悩んでんのか?」
お前のことで悩んでんだよ。とは言えず、適当に誤魔化してアルグスはクオスとの対話に戻る。
「でもこのパンツ、やっぱり段々匂いがしなくなってきちゃって……アルグスさん、すいませんけどドラーガさんに言って今履いてるパンツと交換してきてもらえませんか?」
「すまないけど勇者にもできることとできないことがあるんだ」
どうやらライバルが現れたことと、男性であることがバレてしまったことの焦り、そして先ほどドラーガと密着して匂いを嗅いだことの興奮から冷静さを保てなくなってしまったようである。
「まずいな、これは……」
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