青春くんといちかさん

@HottaShion

第1話

 季節は6月。梅雨に入り、降り続ける雨の匂いが鼻腔をくすぐる。


「お母さん!行ってきます!」


「気をつけてね!あ、カッパ着た!?」


「着た!行ってくるね!」


「はーい、行ってらっしゃーい!」


 一般的な家庭のごく普通の朝の会話。息子くんは平日の朝に緑のカッパを着て、家を出る。


 息子くんの名前は、青春あおはる。苗字は、立花たちばな


少し痩せ気味で、前髪が目を隠しがち。

身長は小柄で、全校集会の時は1番前になることが殆ど。

今年の4月に中学2年になったばかりだ。


 青春くんは、水溜りの上を青い長靴で颯爽と駆けていく。目的地は決まっている。いつもの公園だ。


 交差点では手を挙げ、歩行者専用道路を左側に詰めて歩く。その横をスーツを着た社会人や高校生が通り過ぎていく。青春くんは、背負ったリュックの肩ひもを、カッパの上からギュッと握る。



 小さな公園に着いた。遊具はなく、大きな銀杏いちょうの木の下に、ポツンと長椅子だけが置かれている。


 昔は、ジャングルジムや滑り台、ブランコがあったのだろう。その痕跡がいたるところにある。恐らくは、老朽化や蜂が巣を作るなどの理由から取り壊されたのだろう。長椅子だけが取り残された公園は、どこか寂しそう。


「まだ来てないのかな…?」


 青春くんは、長椅子に座る。公園の周りは人っこ一人いない。この公園は、大通りから奥に入った場所にあり、なかなか人が訪れない。


 誰かを待っていると、突如、青春くんの視界が真っ暗に。


「だ〜れだ?」


「いちかさん!」


「せいかい!正解!だ〜いせいか〜い!」


 長椅子の後ろから、青春くんの目を両手で塞ぐ少女。名前は、いちか。


少し茶色の入った髪を短く切り揃え、活発なイメージを裏切らない無邪気な笑い顔。

青春くんより身長は高く、高校生くらい。

黒のブレザーに赤と白のストライプのネクタイがよく似合う。


「正解した貴方には、なんと!この!フルートによる生演奏をプレゼントー!」


「わーい!」


「ふふ、そんなに喜んでくれるのは少年だけだよ。ありがとっ」


「そのためにここに来てるんだよ!楽しみにして当然っ!」


 キラキラとした目で見つめる青春くん。頬を赤くし、少しはにかむいちかさん。


「ほんっと、馬鹿がつくぐらい素直よね〜よっし!じゃー今日もめいいっぱい聴いていってね!」


 いちかさんは、腰のベルトにさしてあったフルートを手に取り、すーっと息を吸い込む。噴き口に唇を当て、息を吐く。


〜♫♫〜♫


 綺麗なフルートの音色。青春くんは、目を閉じる。雨が、ポタポタと地面に落ちる音とカッパに当たる音。三つの音が重なって、生まれるハーモニーに耳を傾ける。


自然と調和する美しい旋律。まるで、フルートの音に合わせ、雨が踊っているかのよう。


〜♬…


演奏が終わる。


“ぱちぱちぱち”


 青春くんは、思いっきり腕を動かし、何度も何度も拍手する。会場は満員御礼のスタンディングオベーション。照れ笑いで答えるいちかさん。


 2人が初めて出会ったのは、今日と同じ雨の日だった。


☆☆☆


 病院からの帰り道。どこからか聞こえてくる管楽器の音に釣られ、青春くんはその公園にたどり着いた。


 銀杏の木の下でフルートを吹く女性。その音色は、とても美しい。


 公園の入り口で聞き惚れる青春くん。制服を着た彼女と目が合うーーー突如、彼女は泣き始めた。


 見ず知らずの人に声をかける、そんな勇気は青春くんにはない…はずが、なぜかその時だけは、声をかけないといけない!と強く思った。後押しするように、心が脈打つ。


「あ、あの…!」


 これが、青春くんといちかさんのはじめての出逢いだった。


 それからというもの、青春くんは毎朝、公園に行き、フルートの演奏を聴いて、少し話しをしてから家に帰る。そんな日々を過ごすようになっていた。



 今日もフルートの演奏を聴き終わり、少し話しをした後のこと。


「今日は!こ、これ…持ってきたんだ」


少し恥ずかしそうにリュックからそれを取り出す。


「おぉ?リコーダーだね!懐かしいぃ〜!青くんはそれ吹けるの?」


「う、うん!ちょっとだけだけど。練習、してきたから…聞いてくれますか?」


 いつの間にか青くんと呼ぶほどに仲良くなった二人。青春くんは、心配そうな顔でいちかさんを見つめる。


「うん!もちろん!聞かせて聞かせて!」


 満面の笑顔が返ってくる。青春くんの暗い表情がぱぁっ!と明るくなる。自信満々にリコーダーを構える。


〜♪♪〜♪…♪、♪


 ピアノの伴奏でよく行う猫ふんじゃった。それをリコーダでやってみせた。所々指が動かなかったり、息継ぎで音が切れたりはしたが、最後まで演奏しきった。


「ヒューヒュー!ブラボォー!!青くん。君、もしかすると、音楽の才能があるかもよ?」


「えっへへ…ありがと。ちょっとミスしちゃったけど」


「あれはミスじゃないよ?成長するための布石さ」


「え?ふ、せき?ってなに?」


「え?あーなんて言えばいいんだろ…上手くなるためのミス、みたいな?感じかな」


「よく分かんないや!」


「うん!そっか!じゃ〜…あ!次は私と一緒に演奏しよっか!」


「え!?いいの!?」


「うん!いいよいいよ!じゃ〜青くんは今のもっかい吹いてもらって、私がそれに合わせる、ってのでどうかな?」


「分かった!よろしくお願いします!」


「うむ、良い礼儀正しさじゃ!こちらこそよろしくお願いします。じゃ〜始めよっか♪」


〜♪♪…♪〜♪

 〜♫〜♫♫〜♬


 拙いリコーダーの音に寄り添うようにフルートの音色が響く。一つでは決して出せない二つの音の重なり。降り続く雨の音も、まるで協奏する2人を支えているかのよう。


〜♪♪♪〜♪〜♪♪…

 〜♬♫〜〜♫♫♬〜…


 演奏が終わる。自信のなかった青春くんも途中から自信を取り戻したようで、見る見る上手くなっていった。隣で吹くいちかさんの楽しそうな姿が、演奏を楽しむ余裕を彼に与えたのかもしれない。


「どう?楽しかった?」


「……う、うん!!すごい!すごいよ!!なんかもぉ〜!全部の音がぐるぐるぐる〜ってなって!キラキラ〜ってして!すっっっごい楽しかった!!」


 青春くんは目を輝かせ、感想を述べる。その表現は少し独特だ。


「ぷふっ!なにそれ〜!青くん、ほんっと可愛いね!」


 いちかさんは、思わず吹き出してしまった。青春くんの頭を撫でながら、愉快に笑う。


「だってだって!すごかったんだもん!音がぶわぁ〜!ってなってキラキラ〜って!」


「あっははは!分かった分かった!分かったから、ちょっと落ち着こ!」


笑いながら、興奮する青春くんをなだめる。


「もっと色んな曲覚えてきたら、また一緒に吹いてくれる?」


「うん!いいよ!どーんと来い!いちか様がどんな曲にもお答えしましょう!」


「わーい!やったー!」


 とても素直に喜ぶ、そんな青春くんの姿を、儚げな笑顔で見つめるいちかさんなのでした。


☆☆☆


 2人が出会ったのが6月初頭。それから月日は流れ、7月になった。


その日も青春くんは朝から公園に来てきた。曲のレパートリーが増えたリコーダーの音にフルートのセッションが響く。


 長椅子に座り、いつものように話しをする。今日は、会話が弾み、話し込んでしまった。


“キーンコーンカーンコーン”


 どこからともなく、学校のチャイムが聞こえてくる。近くに学校があるようだ。昼休みを告げるチャイムの音に、青春くんは驚いた。


「もうこんな時間!?あ、ああ!は、早く帰らなきゃ…!」


 手に持っていたリコーダーを焦った様子でリュックにしまい、


「ま、またね!いちかさん!」


「う、うん。またね」


そそくさと公園の出口へと向かう。しかし、すぐに戻ってきた。顔色はとても悪い。真っ青だ。


「あれ?どうしたの?」


「あ、えっと、その、あっと、あの」


 いちかさんの質問に、要領を得ない言葉の羅列。よく見ると、額には脂汗がびっしり。


 普段とあまりにかけ離れた青春くんの状態。どうすれば良いのか?いちかさんも焦り始めるーーその時、公園の外から話し声が聞こえてきた。


 声の感じから子どもたちがきゃっきゃっとはしゃぎながら歩いてくるのが分かった。


 6人組の小学生が、公園の入り口付近でふと足を止める。


「あれ?こんなことに公園なんてあったっけ?」


「ほんとだー!ぜっんぜん気付かなかったー!」


「な?僕についてきて正解だったろ?上の人らもいねぇし遊び放題だ!」


「流石、りんちん!」


 一番前を歩くのは、どの子よりも体格が大きく、ザ・ガキ大将って感じの子だ。りんちんと呼ばれたその子は、少しぽっちゃり気味で、ふさふさの黒髪だ。


 青春くんは、怯えるようにそそくさと長椅子の後ろに隠れた。


「(ふーん…なるほどね。これが原因かな?)」


 様子を見るいちかさん。隠れた青春くんの後ろにしゃがみ込み、一緒に隠れる。


「どうしたの?」


ひそひそ声で質問。


「な、なんにも、ないよ…?たただ、ここに座りたいなーって思って」


 青春くんの目が泳いでいる。誰がどう見ても嘘をついているのは一目瞭然。


「そっかそっか。じゃーお隣失礼するよ」


「う、うん」


 長椅子の隙間から様子を伺う。少年たちは、元気にはしゃいでいる。


「あっはは!ひろーい!これならサッカーもできるね!」


「今度ボール持ってこようぜ!3対3でフットサルだ!」


「さっすがりんちん!あったまいいー!」


「でもさー、一個も遊べるのないよ?あるのも長椅子だけ…ってあれ?誰かいない?あそこ?」


 1人が気が付いた。隙間から見えるのはあちらも同じ。


「誰か隠れてる…?りんちん、どうしよ」


「大丈夫、僕が見てくるから。やばいやつだったらぶっ飛ばしてくるぜ!」


 ガキ大将は、皆んなの期待を背負って、長椅子の方へ向かう。


「あ、ああ…来ないで、来ないでぇ…」


 青春くんは、両手を合わせ強く握り、両目をぎゅっと閉じる。目元に溜まっていた涙が、すーっと落ちていく。


「(確定ね。少しぐらい助けても、怒られないよね…?)」


 突然、いちかさんは長椅子の後ろに隠れた青春くんの両脇に手を入れ、持ち上げ、椅子の上に立たせた。


「ーーーぇ?」


 青春くんから驚きの声が漏れる。青春くんとガキ大将の目が合う。どうやら、向こうも完全に気付いたようで、


「青春?」


 名前を声に出し、驚いた顔を見せたかと思うと、にこにことした笑顔で、駆け寄ってくる。


「あ、あああ…!!」


 一方、青春くんは、顔がこわばり、冷や汗がとめどなく額から流れ落ちていく。なんて対照的な2人なんだ。


 いちかさんは、青春くんの耳元で呟く。


「大丈夫。お姉さんに任せて」


 ガキ大将の足が止まる。後ろでそれを見ている子どもたちの内、1人から、


「…?ひ、ひぃぃ!!!?」


悲鳴が漏れる。


 1人、また1人と悲鳴は連鎖し、逃げるように公園から出て行った。足がもつれて転び、泥濘んだ地面でどろんこになりながら。


 全員が公園から出ていった。しかし、ガキ大将だけは、青春くんの方をじっと見ている。


「…」


 だが、少しして、踵を返し、公園から出ていった。逃げていった子どもたちを追いかけるように走りながら。


「はぁはぁはぁ…え、何が、あったの?」


青春くんが後ろを振り向く。


「秘密、だよ」


 そこには、満面の笑みのいちかさんがいた。いつもの優しい笑顔だ。


「落ち着くまで座ってな。そばに居てあげるから」


「…うん、ありがとう」


 青春くんといちかさんはともに長椅子に腰掛ける。ポケットから出したハンカチで汗を拭き、深呼吸を促し、落ち着かせる。


「…あのね。僕、学校で虐められてるんだ」


 一息ついた青春くんは、とても言いづらいそうに、秘密を告白する。


「さっきは助けてくれたんだよね、ありがとう。最後に帰っていった子。あの子がよく虐めてくるんだ…」


 青春くんはポツポツと話し出した。


「あの子、りんちんって言うんだけど、小学生の時はよく遊んでたんだ。でも、中学生になってからかな…僕のはっきりしない態度が気に食わないって突然言われて、それから、靴を隠されたり、体操服を隠されたり、一番酷かったのは、女の子の前で僕のことボコボコに殴ってきたんだ。弱虫で泣き虫で男として欠陥品って言いながら…その度、僕は悲しくなって泣いちゃうんだ。そしたら、男のくせにってまた殴ってくるの。何度も何度も。お風呂入る時、赤くなっててヒリヒリして痛くて、また泣いちゃうんだ…」


 そう言いながら、青春くんの目尻には、また涙が浮かんでいた。


☆☆☆


 梅雨が終わり、季節は夏本番。登校する子どもたちも半袖半ズボンの子が増え、指定の黄色い帽子を被っている。


 小学生の頃は集団登校だったが、中学に上がるとそれぞれが自分で登校するようになる。制服の夏服に袖を通し、スポーツ帽を被る。


 青春くんは、学校から家が近く、歩いて登校していた。一人歩く後ろ姿、背負われたリュックがどこか寂しそう。


「おはよう!青春!」


 後ろから走ってきた子が、青春くんの背中をリュックごと叩く。


「い、いたいよ、りんちん」


「軽く叩いただけだろ?それでも男かよ、みっともねぇ〜」


「ご、ごめん…」


「…あー!もぉ!青春といてもつまんねぇ!先行くから、ばいばい」


「う、うん。ばいばい」


 ガキ大将と青春くんはご近所さんで、俗に言う幼馴染というやつだ。小学生の頃は、お互いの家でよく遊び、仲良しだった。


 青春くんは元々、引っ込み思案な性格で人と仲良くなるまで時間がかかる子だ。一度仲良くなるといいのだが、ガキ大将の場合は、最初から仲が良かったのに、中学生になってから突然関係が悪化したため、尚更、混乱していた。


 もちろん最初は、


「痛いってば!りんちん!やめてよ!!」


と強く反論していたが、


「(僕が何かしたんだ。きっとそうだ。りんちんが怒るようなことしたから、殴ってくるんだ…僕が悪いんだ、僕が気に触るようなこと言ったんだ、そうだ。絶対そうなんだ…もう言い返すのはやめよう。りんちんが怒らないように静かにしてなきゃ…)」


引っ込み思案な性格がネガティブに悪化。強く言い返すこともなくなり、今では、何の理由もなく、謝るようになっていた。


 1人歩きながら、学校に着く。下駄箱を見ると、上履きの片方だけがない。


「…」


 周りをキョロキョロと見渡す。どこにもない。青春くんは涙をグッと堪え、片方だけの上履きを履き、教室に向かう。


 途中、先生とすれ違う。


「おはよう」


「お、はようございます…」


ハキハキとした先生の声とゴニョゴニョとした青春くんの声。


「ん?あ、ちょっと待って。上履き、どうしたの?」


「あ、あの、えっと、朝来たら片方だけ無くて」


「…そっかそっか。ちょっとついてきてくれる?」


「?はい…」


 先生の後をついて行くと、職員室についた。


「ちょっとここで待ってて」


そう言い残すと、先生は足早に職員室の中へと消えていった。ほんの少しして、帰ってくる。


「とりあえず、これ。使いなさい」


先生が持ってきたのは、新品の上履きだった。


「後で一緒に探そ。それまではそれ、使っといて」


「いいん、ですか?」


「いいのいいの。遠慮する必要ないから。これで、教室いける?」


「う、うん!ありがとうございます!」


 青春くんは頭を下げ、笑顔で走っていった。


 結局、上履きはガキ大将のりんちんが犯人だった。自分の靴と青春くんの靴を一足ずつ履き、我が物顔でその日1日を過ごしていた。



 また次の日。今度は、体操袋がない。


「(昼から体育の授業があるのに…昼休みに探さなきゃ)」


 給食を食べ終わり、昼休み。学校のあちこちを探すも見つからず、トボトボとした足取りで教室に戻ってくる。


自分のロッカーを見ると、体操袋がそこにあった。


 またしても犯人はガキ大将。青春くんが体操袋を探し回っているのを遠くから見て、ニヤニヤと笑っていた。


 その後、何度も何度も青春くんにだけ、嫌がらせをするりんちん。青春くんは、虐められていることを両親に相談できなかった。徐々に蝕まれていく心は、ついに、折れてしまう。


 中学2年生になった4月。始業式の日を最後に、青春くんは学校に来なくなった。


☆☆☆


 長椅子に座っている二人。青春くんが話した事に、いちかさんは言葉を詰まらせる。


「…青春くん」


「あ、えっと!でももう今は平気!いちかさんとこうして、毎日会ってるとぽかぽかした気持ちになるんだ!この時だけは嫌なことも忘れられるし…あ、そろそろ帰らないと。今日は遅くまでありがとう!また明日!」


 気まずい空気を察してか、青春くんはそそくさと公園から出て行った。



 その日の夜、公園にてーーー


「あーやっぱりか。見えてると思ったよーーーりんちん」


 その日は、満月だった。長椅子に座るいちかさんの視線の先に、ガキ大将がいた。公園の出入り口に佇むりんちんを月が照らす。


 りんちんは深呼吸をして、話しかける


「お姉さんって、何者?青春には見えてたみたいだけど、他の子に聞いても青春しかいなかったって言うし…まさか幽霊?亡霊?それとも……たんとうちょくにゅうに聞きます。お姉さんは青春の何ですか?」


 昼間、りんちんは青春くんではなく、その後ろにいたいちかさんをじっと見ていた。


 友だちを追いかけた後、そのことを聞いても全員が青春くん以外誰もいなかったと明言。不思議に思ったりんちんは、勇気を振り絞り、一人で夜の公園に訪れたのだった。


 震える手を後ろに組み、怖がっているのをいちかさんに気付かれないように。


「ふふっ。さあ何だろうね?何だったら駄目かな?ーー付き合ってる人、とかかな?」


 だが、いちかさんはすべてお見通しだった。怖がっているのも、勇気を出してきたことも、その質問の意味も。だからこそ、微笑ましい気持ちで笑う。


「そ、そんなわけないじゃん!あんなののどこが良いのか!わかんないでしょ!?」


「ムキになって〜可愛いな〜ふふっ。安心しなよ。私は青春くんの彼女でも、初恋の人でも、ましてや、初めての人でもないよ。だって、家族だから。実はーーー」


☆☆☆


 小さなアパートの一室。大きなベビーベットが、一際目立っている。すぐそばにある椅子に腰掛ける一人の女性。腕の中ですやすやと赤ちゃんが眠っている。


 初めての子どもを流産してから2年。ショックを乗り越え、新しい命を授かった。始めの子は、14週の壁を乗り越えることができなかった。


 次の子は、14週を超え、みるみる大きくなっていった。出生体重は3000g超え。とても元気な男の子が生まれた。


 母親にとって、初めての出産、初めての育児。退院後、昼夜関係なく、1、2時間ごとに母乳かミルクを飲ませ、身体はボロボロ。心は体の状態に左右されるように、その逆も然り。気付けば、心もボロボロになっていた。


 地獄のような日々が続き、2ヶ月が経った。夜泣きは収まることを知らず、母親の体力と精神を削る。


 昼間、気晴らしに外に出る。まだ抱っこ紐は使えない。赤ちゃんを腕に抱きながら、近所を歩く。行き先を考えず、ぶらぶらと。


 どこからともなく聞こえてくる管楽器の音に釣られ、初めて見る公園にたどり着いた。


 大きな銀杏の木とその下にある長椅子。母親は、閑散とした公園の中に入り、長椅子に腰掛け、空を眺める。


 夏が終わり、秋が見え隠れする季節。時折吹く風が、肌寒さと管楽器の音を連れてくる。


 ふと視線を前に戻す。黒いスーツの男と白いワンピースを着た女の子が立っている。


 母親は、女の子と目が合う。少し照れた顔で、男の後ろに隠れ、ズボンをきゅっと手で掴む。


 男は女の子を前に出し、背中を優しく押す。


女の子は男の方を見る。

男が頷く。

女の子は、長椅子に座る親子の元へ駆け寄っていく。


「(なんでだろ…あの子、見覚えるがある)」


 ぼんやりとした思考の中、女の子は母親の目の前に。赤ちゃんは腕の中ですやすやと眠っている。


「あ、あのね…えっと…」


 頬を赤く染めながら、何か言いたそうにモジモジとしている。何故かは分からないが、母親の口からその名前が出た。


「ーーーなの…?」


 母親の言葉を聞き、不安そうだった女の子の顔は、満面の笑みに変わる。


クリッと大きな目と二重瞼は父親似。

少し潰れた鼻の形は母親にそっくり。


「うん!そうだよ!」


 母親は、その言葉に嘘偽りはない、と何故か確信を持てた。


「ママ、ぎゅってしていい?」


「うん、いいよ。おいで」


 女の子は母親の左腕にぎゅっと抱きついた。腕を広げ、思いっきり抱きしめてあげたい、母親はそう思った。だけど、腕の中には赤ちゃんがいる。


「ごめ」


 謝ろうとした時、黒いスーツの男が歩いてくるのが見えた。母親の横で止まり、腰を屈め、腕を伸ばす。


「あ…お願いしてもいいですか?」


 無言で頷く男。本来なら見知らぬ人に自らの腹を痛めて産んだ子を預けたりはしないだろう。だけど、この時だけはなぜか、大丈夫だと安心することが出来た。


 母親はすやすやと眠る赤ちゃんを渡す。そして、腕を広げ、


「おいで」


 最大の慈愛を込めた笑顔で、女の子を呼ぶ。女の子は泣き笑顔で、母親の腕に飛び込み、抱きつく。母親も優しく、強く、ぎゅーっと抱きしめる。


 二人の間にもはや言葉はいらない。触れ合う身体から感情が伝わる。二人とも泣き笑顔で、抱きしめあっていた。


 しかし、始まってしまえば終わりが来るように、別れの時間が近付いていた。


「ママ。あおくんのこと、ちゃんと見ててあげてね」


「うん、大丈夫。ママがあおくんのことずっと見てるから」


「えへへ、じゃー安心」


 抱き合いながら、言葉を交わす。


「あたしね、生まれてこられなかったけど、ママのところにこれて幸せだったよ」


 母親も薄々、気付いていた。この時間が長くないことに。


「もう会えないけど、ママ、だいじょーぶだよね?」


「…うん、大丈夫だよ」


「よかったよかった。ママは泣き虫さんで、頑張り屋さんだから、無理してないかなって心配してたんだー」


「…うん、うん」


 母親の目から涙がとめどなく溢れる。言葉をうまく返せない。


「パパも泣き虫さんだから困ったもんだよ、まったくぅ〜全然頼りにならない!」


「…ふふっ、本当にそうだね」


「うん、やっぱりママは笑った顔が1番かわいい!これからも笑顔でいてね、ママ」


「…うん!ありがとう、ありがとう!」


「ママ、そろそろ」


「待って!まだ行かないで!もう少し、もう少しだけ、」


「もぉ〜ママは甘えん坊さんだな〜よしよーし」


 腕を離そうとする女の子を、母親は無理やり引き止める。女の子は母親の頭を撫でる。


 しかし、引き伸ばした時間さえも、終わりを迎える。黒いスーツの男が腰を屈め、腕を伸ばす。母親は抱きしめていた手を解き、赤ちゃんを受け取る。


「ママは大丈夫!絶対幸せになるんだから!」


「うん!頑張れる気がしてきた!よーし!青春を立派に育て上げて、私自身ももっともっと幸せになってみせるー!」


「うんうん、その調子その調子!それじゃ……バイバイ」


「うん…バイバイ」


 お互い手を振り合う。直後、強い風が吹く。目を開けていられないほどの強風だ。


 風がやみ、目を開けるとーーーそこは、見慣れた部屋の中だった。ベビーベットの横にある椅子に腰掛け、腕の中で赤ちゃんが眠っている。


 呆然とする母親。赤ちゃんの目がぴくっと動き、即座に泣き出す。


「おんぎゃぃぁぁあ!!!」


「はいはいはーい、大丈夫だよ〜大丈夫〜」


 すぐに椅子から立ち上がり、ぎゃん泣きする我が子をあやす。


ーーー窓から差し込む光が、どこかいつもより優しい気がした。


☆☆☆


『 「今日の天気はどうかなー?きよちゃーん!」


「はーい!おはようございます。きよでーす。今日は、全国的に梅雨らしい天気となるでしょう。傘を忘れずにお持ちください。しかし、朗報です!長かった梅雨も週末にかけて明けていきそうです。それでは詳しいお天気、見ていきましょう」 』


 青春くんの家では、朝からニュース番組が流れている。6月初旬から始まった梅雨が明けようとしていた。


「行ってきまーす!」


 青春くんは、今日も元気に家を出る。いつものように、リュックを背負い、カッパを着て、長靴を履いて。


「行ってらっしゃーい!」


 お母さんは元気にそれを見送る。


「最近、元気そうね。よかったよかった。無理に学校に行く必要はないけど、4月の時は本当に酷かったから…心配したわ」


 青春くんが休んだ4月。初めは部屋から出てくることさえできなかった。お母さんが部屋まで料理を運び、2人で食べる。そんな日々だった。


 5月に入り、付き添いで行っていた精神科の病院に一人で行けようになった。


 6月に入り、いちかさんと出会ったことで、青春くんから、昔と変わらない笑顔を見れるようになった。


 我が子の成長を喜ぶ反面、心配事はまだ残る。お母さんは机の上に飾ってあるぬいぐるみを抱きしめる。


「守ってあげてね、一夏」



”ピンポーン”


 玄関のチャイムが鳴る。モニター越しに誰か確認する。仲の良い近所のおばちゃんだ。


「はーい!」


”ガチャ”


 お母さんは、玄関用のスリッパに履き替え、玄関の扉を開ける。


「おはよう!あら、奥さん。今日も綺麗ね〜」


「おはよう!あっはは!嬉しいこと言ってくれちゃってもぉ〜!奥さんだって、綺麗よ?」


「がっははは!口が美味いんだから、全く!あ、そうそう!さっき、青ちゃん出てくとこ見えたけど、すっかり笑顔になって良かったわ〜青ちゃんの笑顔は天下一品だから、おばちゃんそれがないと干からびちゃうところだったわよ!」


「そうなの〜!あの子の笑顔ってほんっとに可愛いわよね〜!あ、そうだ!ちょっと待ってて」


「あら?何かしら?」


 お母さんは玄関スリッパを脱ぎ、素足でリビングに戻る。帰ってくると、手に何か包みを持っていた。


「その節はお世話になったじゃない?だからこれ!ジュンク堂のどら焼き!奥さん好きだったでしょ?」


「あらあらまあまあ!覚えててくれたの!?あらぁ〜!嬉しい〜!でも何のお世話もしてないけど、いいの?」


「もぉ〜!何言ってるの?いろいろ相談に乗ってくれたじゃない!そのお礼よ!お礼!」


「ほんと?じゃー素直に貰っちゃうわよ?」


「うん!貰って貰って!」


「ありがとう、奥さん。あ、そうそう!そんな話をしに来たんじゃなかったわ。昨日の話なんだけど、青くん、公園でリコーダー吹いてたわよ?ちょうど今ぐらいの時間ぐらいだったかしら」


「あ、本当?よかっ」


 お母さんの合いの手を強引に抑え、おばちゃんは話を続ける。


「それでね!大通り超えたところのスーパーで毎週水曜日に朝イチがあるんだけど、その帰りに、裏道をすーっと自転車で帰ってたら、楽器の音?かしら。まあそんな感じの音が聞こえてきてね?周りを見たら、公園があって、青春くんが一人で楽しそうにリコーダーを演奏してたのよ〜!ただ不思議なことってあるものね〜!リコーダーの音とフルートかしら?そんな音も聞こえてきて、誰かと一緒にセッションしてたんじゃないかしら!あーたしが通った時は青くんしか見えなかったんだけど」


「…あ!奥さん、ごめん!ちょっと用事思い出しちゃった!今日はもう帰ってくれる?」


 近所のおばちゃんの言葉を聞き、お母さんの顔色が変わる。


「え、ええ、いいわよ!それじゃ、また今度!」


「うん!ごめんね!また埋め合わせするから」


”ガチャン”


 お母さんは玄関の扉を閉めた。リビングまで戻り、キーケースから自転車の鍵を取り出す。


「まさかね…まさか、そんなこと」


 お母さんの目元に涙が浮かぶ。高鳴る胸の鼓動。鍵だけを持って、室内用のスリッパの

まま、家を飛び出した。


☆☆☆


「今日もいい感じのセッションだったぜ?青くん。君の演奏はいつか世界を変えるかもよ?」


「あっはは!いちかさんはいっつも言い過ぎだよ〜」


 今日のセッションが終わり、2人は長椅子に腰掛け、話していた。虐められていることを話してから、憑き物が取れたかのようにスッキリとした顔つきの青春くん。


「青くん、ちょっと大事な話があるんだけど、聞いてくれる?」


 笑顔から真剣な表情に変わるいちかさん。その発言で場の雰囲気がガラッと変わる。


「う、うん。何?」


「ずっと前から言わなくちゃって思ってたんだけど…実はね?私は君の」


「青春ー!青春ー!!どこなのー!?」


 いちかさんの大事な話の最中、公園の外からお母さんの青春くんを呼ぶ声が聞こえてくる。


「あれ?この声、お母さん?あ、でもまだ」


「行ってきていいよ。お母さん見つけたら、ここまで連れてきてくれる?」


「う、うん!分かった!」


 話の途中で退席することに引け目を感じる青春くんに、優しく声をかけるいちかさん。


 青春くんは走って公園を出る。ものの数分でお母さんと手を繋ぎながら、公園に帰ってきた。お母さんは公園の隅に自転車を置きにいく。


「連れてきたよ!」


「うん、ありがとう。青くんはえらいね〜!」


「えっへへ〜」


 笑顔で駆け寄ってくる青春くんの頭を優しく撫でる。


「青春…貴方、誰と話してるの?」


 一連の動きを見て、呆然と立ち尽くすお母さん。青春くんはキョトンとした顔で。


「え?いちかさんだよ?あれ?二人って知り合いじゃないの?」


「(あぁ、よかったぁ…見えなくて)」


 お母さんは漕ぎ疲れた足で、青春くんの元へ近付く。膝を地面につけ、青春くんの肩に手を置きながら、質問を投げかける。


「…青春、なんでその名前を?どこで知ったの…?」


「え、どこって言われても、このお姉さんがいちかさんだよ?ママ」


「ーーーまさか…そこに、いるの?」


 お母さんの目から涙が溢れ出る。



「青春よく聞いて。いちかは…一夏は、生まれてこられなかったあなたのお姉さんの名前よ…っ」



「…え?どういう、こと?」


 青春くんは、お母さんといちかさんを交互に見る。状況が全く読み込めない。


「青春が産まれてくる前、一夏は、お腹の中にいたの。でも、産まれてこれなかった。染色体の異常が原因で、大きくなることが出来なかったの。夏に生まれる1番初めの子だったから、一夏。本当はもっとちゃんとした名前をつけてあげたかったんだけどね」


 お母さんの目から何粒も何粒も、涙がこぼれ落ちていく。


 中学に上がり、授業で性教育を学ぶ。青春くんは、どんなことにも真面目に取り組む子だった。その知識があったから、お母さんの少し難しい話も、どうにか理解することが出来た。


「ありがとう、お母さん。私が言おうとしたこと、全部話してくれて。今日話そうとしてたのは、そのことなんだ。私の本名は、立花一夏たちばないちか。君の姉だよ。どう?びっくりしたかい?青くん」


 衝撃の事実。お母さんと一夏さん、その2人が言うのだから、それが正しい事実なんだろう。


 青春くんはそれを飲み込む。だがしかし、疑問が湧いてくる。


「…でも、一夏さんはここにいるよ?死んでないよ?お話もできるし、フルートだって!」


 お母さんは青春くんを優しく抱きしめ、言葉を遮る。腕を解き、立ち上がり、青春くんが見ている一夏さんの方を見る。


「青春、一夏はどう?どんな格好をしてるの?」


「え?えーっと、高校生のお姉さんって感じだよ!黒い制服着てて、赤白のネクタイをしてて、髪はちょっと短くて、身長は僕より大きくて、頭を撫でてくれる手があったかくて、笑顔がすごい可愛いお姉さん!」


「ふふっ、そっかそっか。ねえ、青春」


「何?ママ」


「一夏はママの声、聞こえてるのかな?」


「聞こえてるよ」


「聞こえてるよ、だって!」


「そっかー。じゃー青春にお願いなんだけど、ママが一夏に質問するから、一夏が言ったこと教えてくれる?」


「うん!いいよ!」


「ありがとう…

一夏。お母さんは青春のこと、しーっかり育ててるよ。だから、安心して。それに、今すーっごく幸せ!一夏が、絶対に幸せになるって言ってくれたから、その通りになったよ。あの時はありがとう。それでね、質問なんだけど、一夏は今、幸せ?辛くない?」


 お母さんからの予期しない質問に、


「ーーーっ…う、うん。幸せだよ」


一夏さんは涙を流す。


「一夏さん、幸せだって!でも、泣いちゃった」


「そっか…そっかーよかったぁ〜!お母さんだけ幸せになって、一夏が幸せじゃなかったら、耐えられないところだったー!ふぅーよかったぁ〜!」


 そう言いながら、お母さんの目からも涙がこぼれ落ちる。わざとらしく、元気に言葉を返す。


 その後、親子3人で長椅子に座り、話をした。


 一夏さんの先輩がぶっきらぼうなくせに優しいとか、最近お父さんが筋トレにハマってダンベルや腹筋ローラーが家に置かれるようになって歩く時に邪魔でしょうがないとか、青春くんとリコーダーでセッションしていることとか、色々なことを話した。


 まだ話し足りない様子の二人。しかし、日は上り、昼食の時間が近付いていた。


「親子水入らず、初めてこんなに長く話してとーっても楽しかったわ!また来るから、いっぱい話そうね!」


「うん、分かった…」


「分かった、だって!」


「良かった良かった。それじゃ、一度帰るわね。行くわよ、青春」


 お母さんと青春くんは手を繋ぎ、公園の出口へと向かう。


「あ!青くん、また夕方にここに来てくれない?」


「うん!分かった!」


「じゃまたね!家まで、ママをしっかりお守りするんだぞ?」


「うん!まかせてよ!じゃね!バイバイ!」


「うん、バイバイ」


 一夏さんは分かっていた。もう、お母さんには会えないことを。


☆☆☆


 17時に鳴る町内放送。小学生は家に帰る時間だ。青春くんは、17時半ごろ、家を出た。


「一夏さんのとこ、行ってくるね!」


「はーい!気をつけてねー!」


 家に残り夕飯の準備を進めるお母さん。青春くんを見送り、ふとお昼のことを思い出す。


「あ、そうだ!埋め合わせするって言って忘れてたわ!最近できたカフェにでも誘ってみようかな……って、あれ?私、誰を誘おうと思ったんだっけ?」


 スマホ片手に立ち止まる。お母さんは不思議に思ったが、すぐにそれすらも忘れ、夕飯作りを再開する。



 17時半ごろ、家を出た青春くん。誰か残ってるかもしれない。そう思い、ビクビクしながら、公園にたどり着いた。幸い誰にも会わなかった。


 長椅子に座って待っていた一夏さん。公園の入り口で目が合う。青春くんに笑いかけ、手を振る。


 青春くんは手を振り返し、笑顔でトコトコと駆けていく。


「お待たせ!いちかさん!遅かったかな?」


「ううん、ちょうど良いぐらいだよ。隣おいで」


「うん!」


 一夏さんは長椅子の端に寄り、青春くんを座らせる。


「いきなり本題でごめんね。お母さんがいる前では話しづらかったことなんだけど……」


 いつも元気な一夏さんとはどこか違う、そんな雰囲気を青春くんは感じ取っていた。



「私が見えるってことはね?君の心と身体が死にたいって思ってるからなんだ」



「…え?」


「この前話してくれたよね?虐められてるって話。青くんの心はそれに耐えられなかったんだ。心と身体は一心同体。心が傷付けば、身体も傷つくの。あれからずっと、心のどこかでーーー死にたいって思ってるよね?」


 一夏さんからの質問に、青春くんは下を向き、


「………うん」


小さな声でそう答えた。


「やっぱり…よーし!そんな青くんに朗報です!」


「ろう、ほうってなに?」


「ああ、そっかそっか。良いことってことだよ!」


 はてな顔の青春くんに、優しく教える一夏さん。


「それではー出てきてもらいましょー!どうぞー!」


 テレビのMCのようにテンション高めに。一夏さんは、銀杏の木の方に腕を振る。


そこから出てきたのは、


「り、りりりりんちん!?」


ガキ大将のりんちんだった。


 混乱する青春くん。りんちんと一夏さんを何度も何度も交互に見る。


「青くんが死にたくなった原因を連れてきちゃいました〜てへっ」


「て、てへっ…じゃないよ!!」


「え〜じゃ〜てへぺろっ?」


「てへぺろでもないよ!!なんで」


 一夏さんに詰め寄る青春くん。二人はまるでコントのように言葉を交わす。だがそれを遮るように、


「青春!!」


りんちんの大きな声が公園に響き渡る。


「…え、あぅ」


 言葉を失う青春くん。鬼のような形相で、りんちんは青春くんに近付いていく。青春くんの額からは脂汗が溢れ出し、恐怖で足が震え始め、その場から一歩も動けない。


 1歩、2歩、3歩と近付いたところで、りんちんの足が止まる。


「ごめんなさい!!!」


 突然の謝罪。

会釈の角度は90度よりも深い。


「本当にごめんなさい!!青春が休むまで何も気付かなかった…まさか、そんなに苦しんでたなんて知らなくて。毎日毎日、青春をいじって…ううん、虐めて楽しんでた。最初は、他の女の子が青春にちょっかい出すのを止めたくて始めたのに、いつの間にか、青春の反応が楽しくて、エスカレートしちゃってた。本当にごめん…」


 りんちんは、深く会釈をしたまま。


「ずっと謝りたくて、ごめんって言いたくて、でも謝れなくて…気付いたら、もう梅雨になっちゃった」


 少し欠けた月が照らす公園。雨は降っていないのに、りんちんの足元にぽつぽつと雫が落ちていく。


「許してなんて、言えない。本当にごめん……じゃあ、僕はこれで。バイバイ」


 りんちんは最後まで顔を上げることなく、その場を走って立ち去るーーその細い腕を、一夏さんの手が掴む。


「ちょっと待ったー!」


「離して!」


「ダーメ!」


 一夏さんは手にぐっと力を込め、りんちんを胸元に引き寄せ、抱きしめる。


「私と約束したよね?気持ち、伝えるんじゃないの?」


「無理だよ!言えるわけない!どうせ言ってもぉ!」


 りんちんは暴れる。一夏さんの腕の中で泣きながら。


「ーーーまた、言えずに後悔してもいいの?」


 一夏さんのその言葉で、りんちんの動きが止まる。


「…あぁー!もぉ!」


 激情を言葉で吐き捨て、一夏さんの目を見る。


「ふふっ、それでこそ」


 笑う一夏さん。捕まえていた腕を解く。りんちんは、深呼吸を2度して、青春くんの方へ向き直す。


 今この状況で、何が起こっているのか?把握できていないのは、青春くんだけ。


 りんちんと一夏さんは、昨日の夜、公園で全てを話していた。青春くんの姉であること、産まれる前に死んでたこと、自分が見えるのがどういう状況なのか、その全てを。一夏さんは救いたかった。青春くんと凛花ちゃんを。


「あ、あのね。僕……青春のことが、好き。どの口が言ってんだって思うかもしれないけど。その…友だちとしてじゃなくて、男の子として、好き」


 りんちん。本名を、凛花りんか。凛と生き、花のように散る人生を。その思いを込めて、両親が名付けた。性別は、女の子だ。


 少し小太りで体格が良く、もふもふとした黒髪から、男の子だと間違われることが殆ど。周りの女の子が色づく中、いつもと変わらず、男の子と遊び、喧嘩の強さから、ここら一帯のガキ大将になった。凛花と呼ばれるのを嫌い、りんちんと呼ばせている。


 そんな凛花ちゃんが、下を向いている。度胸があり、漢気があり、ビビらないで有名な凛花ちゃんが、だ。なぜ下を向いているのか?それは、髪の毛のせいで少し隠れている耳が、真っ赤に染まっていることで分かるだろう。恥ずかしいのだ。


 勇気を出した凛花ちゃん。突然の出来事に、肝心の青春くんは、


「ーーー前みたいに、遊んでくれるの…?」


涙目になりながら、どうにか言葉を返した。



 青春くんの初恋の相手は、今目の前にいる凛花ちゃんだ。小学生の頃、友だちにからかわれて、好きだと自覚した。



 幼稚園の頃、凛花ちゃんはとても可愛らしい女の子だった。活発に遊び、少し天然で、先生たちの癒しだった。だがしかし、ある日を境に変わってしまう。



 小学生の青春くんは、とても泣き虫だった。授業中、本読みを先生に当てられると、緊張のあまり、泣き出してしまい、嗚咽で本が読めないほどだった。


 それを見ていたクラスメイトが青春くんをいじり始める。徐々にエスカレートし始めるそれは、靴を隠すことから始まり、青春くんはいつも泣いていた。


 だから、凛花ちゃんが立ち上がる他なかった。自分の好きな人が虐められている。あたしが、いや、僕が救わないと!そうして、凛花ちゃんは青春くんを守る騎士になった。



 小学生の間は、毎日一緒に学校に行き、一緒に帰り、一緒に遊ぶ。姉弟のように同じ時間を過ごした。


 しかし、中学に上がった後、異変が起こり始める。青春くんがなぜかモテ始めたのだ。人生に2回は来ると言われているモテ期が…来てしまった。同級生や上級生の女の子たちが、こぞって青春くんに声をかけるようになった。


 凛花ちゃんは、それが気に入らなかった。過去の自分を殺してまで、守ってきた青春くんが、誰かに取られる。そう思い、焦ってしまった。



 青春くんは、他の女の子のことはどうでもよかった。声をかけられるのも正直、嬉しくなかった。青春くんはただ、凛花ちゃんとこれからもずっと変わらない毎日を、過ごしたかっただけなんだから。



 青春くんの問いに、凛花ちゃんは答える。


「…僕で、いいなら」


「り、りんちんじゃなきゃ、ダメなんだ…」


 青春くんが死にたいと思った理由。

それは、大好きな凛花ちゃんに嫌われたこと。


「ぼ、ぼくもりんちんのことが好き…だから」


「え…?ほん、と?ほんとに!?」


「う、うん。小学生の時から、ずっと好き、だよ」


「ーーぅぅぅ!!わぁーい!!」


 凛花ちゃんが死にたいと思った理由。

それは、大好きな青春くんを傷付けて、嫌われてしまったこと。


 二人とも顔を真っ赤に染めながら、


「りんちん、前みたいに一緒にいてくれる?」


「うん!ずっと一緒にいよ!」


想いが成就したことを、喜び合う。


 青春くん、凛花ちゃんの表情が晴れ渡っていく。心に巣食っていた闇が晴れていく。


「あ!ねえねえ!お姉さん!聞いてた!?告白、オッケーだったよ!」


 二人の死にたいと願った心が、生きる希望を得て、大きく躍動する。それをまだ、二人は知らない。


「うん!うん!聞いてたよ!いや〜ほっんとにめでたい!!なんかお姉さん、もらい泣きしちゃったよぉ〜」


 流れ落ちていく涙を手で拭う一夏さん。嬉しそうな表情なのに、どこか寂しさも感じる。


「あ、そうそう。お幸せな二人に、お姉さんから一つ約束。これから、二人でいっぱい生きて、沢山の困難を乗り越えて、色んなとこ行って、様々な経験をすること!そして、それを私に聞かせてくれる?」


 二人はまだ理解していなかった。


「うん!まっかせてよ!」

「うん!頑張ってみる!」


「約束だよ?忘れちゃダメだからね?また聞きに来るからね?よーし!じゃあ、二人が結ばれたことを祝して、フルートを吹きまーす!!」


 死にたいと思っていたからこそ見えていた、偶然が、


〜♫♫〜〜♫♫♫〜〜♫


消えていくことを。



 綺麗なフルートの音色は、どこまでも広がっていく。キラキラと輝く目でそれを見つめる青春くんと凛花ちゃん。


 突如、風が吹き荒れる。砂が巻き上げられ、目を開けていられないほどの強風が公園を通り過ぎる。


 過ぎ去った後、二人が目を開くと、そこに一夏さんの姿はなかった。聴こえていたフルートの音色も、まるで、風が盗んでいったかのように、静かになった。


☆☆☆


「もう見えてない、よね…っ」


 フルートを口から離す。笑顔がぐちゃっと潰れ、一夏さんは膝から崩れ落ちる。


「バイバイ、青くん…っ、ううぅ…」


 一夏さんは泣いていた。目の前にいる青春くんを見ながら。


 青春くんと凛花ちゃんの心は、生きることを望んだ。だから、一夏さんが見えなくなった。


 目の前にいるのに見えない、触れない、言葉を交わすことすらも出来ない。さっきまであんな簡単に出来ていたことが、もう出来ない。


「うっうぅ…」


 涙が頬を伝い、顎先からポタポタと落ちていく。

 

「はぁ…お前は情が移りすぎる。次の仕事は俺一人でいく。ちょっと休め」


 突然、黒いスーツの男が隣に現れた。一夏さんは驚き、声がする方に視線を向ける。


「ーーえ?はぁっ!?い、いつからいたんですか!?」


「この子たちが公園に来る前からだよ」


「なぁ!?盗み見してたんですか!?趣味悪ぅー!!ってあれ?先輩それ、何持ってるんですか?」


 手で涙を拭いながら、男を否定する一夏さん。視線は、男が持っている包みへと。


「ジュンク堂のどらやき」


「ええ!?私の好きなやつじゃないですか!?まさか、慰めるために…?」


「…」


「もぉ!なんで無視なんですか!」


「はぁ…帰るぞ」


「はい!かしこまりました!」


 先輩と呼ばれた黒いスーツの男。一夏さんは受け取ったどら焼きをさっそく食べながら、先輩の後ろをついていくのだった。


☆☆☆


〜〜〜♫♫〜♫♬


ピーーーーーー


 けたたましく鳴る機械音と子どもたちの啜り泣く声が、病室にこだまする。


「迎えにきたよ、青春」


 一夏さんはあの頃と変わらない姿で、その場に現れた。


「やぁ、一夏さん」


「私にするお土産話はいっぱいあるんだろうね?ま、先に凛ちゃんから色々と聞いてはいるけどさ」


「うん!勿論!僕だけが知ってるとっておきの話があるんだ!」


 和気藹々と話し合う。気付けば、青春くんもあの頃と同じ姿になっていた。


 青春くんと一夏さん、2人仲良く話しながら、光差す方へと歩いていくのでした。


おしまい

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青春くんといちかさん @HottaShion

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