第15話
「なにいっ」
半次郎が険しい顔になった。
「知らないといかんのか」
「せ、先生っ」
涼しい顔をした鉄太郎の背後から正雪が声をかける。
「どうした」
「半次郎といえば、西郷吉之助の文字通り
「たしかに斬れ味がよさそうだ」
「京の
「はて。そう言われると聞いたことがあるような」
「その男ですよ。先生、そいつは相手が悪いですよ」
正雪の声は鉄太郎に心に届いていなかった。
人斬り――。
目の前の中村半次郎という男は、暗殺の嵐が吹きすさぶ京洛を生き抜いて来たのだろう。
「……話は終わったか」
半次郎がしびれを切らせたようだ。
「すまぬ。おぬしはずいぶんと西郷吉之助どのに気に入られているようだな」
「軽々しゅう西郷先生の名前を呼ぶな」
「ならばここを通してくれ。西郷吉之助どのが八瀬鬼童衆なる者どもを斬って、駿府にまで来いと言ってきたのだ」
「鬼童衆――。すでに戦ったのか」
「ああ。一人、斬った。……おぬし八瀬童子を知っているのか」
半次郎はしばし何かを考えている様子だった。
「いいだろう。おいを倒すことができたら、ここを通してやる」
「やるわけねえだろ!」
「何を言ってやがる!」
正雪と五寸釘が声をあげる。
「そうでもなさそうだぞ」
半次郎が狂暴な笑みを浮かべる。
応えるように鉄太郎もにやりと笑った。
「……ふふ。この旅は飽きることがなさそうだ」
「先生ー」
「下がっていろ」
正雪たちが後ろに下がる。
半次郎は抜刀して右足を前に出し、刀を大上段に構えた。いわゆる示現流の
――これが野太刀自顕流。まさに
鉄太郎も抜刀し上段に構えた。
「先生。示現流は最初の太刀を受けてはいけません。受けたら自分の
正雪が言っていることは当然鉄太郎も心得ていた。
――なるほど。
半次郎の太刀を受けたら――すなわち音が鳴ったら半次郎の勝ち、音が鳴らなければ鉄太郎の勝ち。
――面白い。
朝の戸塚宿での単なる
それだけ半次郎から放たれる剣気は凄まじい。
「きええー!」
半次郎の
同時に半次郎が地を蹴って迫ってくる。
――速い。
半次郎の踏み込みの速さは鉄太郎の予想を超えて、すでに頭上に
鉄太郎は反射的に受けの構えをとった。
――受けたら刀が折れる。
鉄太郎は
括然! 音無し。
「ああ! 先生が消えた」
正雪が叫んだとおり、半次郎の目の前に鉄太郎の姿はなかった。
いや、鉄太郎は左足を残して右足を引き、両足を折ってしゃがんだ姿勢で半次郎の刀を受けていた。
鉄太郎は半次郎の太刀を受けつつ、勢いを飲み込むように己の体を沈ませた。とっさに体が動いたとしか言えない。
見上げると、驚きを隠せない半次郎の顔があった。
「ふん!」
力をこめて一気に立ち上がる。半次郎は押されるかたちで一歩足をひいた。
鉄太郎と半次郎は
体の大きい鉄太郎の
今度は鉄太郎が刀を押し込んでいた。半次郎の背が反る。
「ちぇ、ちぇすとお……」
しかし、半次郎はそこから先へは押されない。
――たいしたものだ。
半次郎の瞳が燃えている。
鉄太郎は志士たちを駆り立てる熱気を見聞きしていた。
半次郎の瞳も志士のそれだ。
たしかにまだ泰平気分が抜けきれない江戸にいた鉄太郎とは違う。
――おれも京に残って存分に剣を振るっていたならば。
鉄太郎には半次郎がもう一人の自分であるかのような錯覚に陥った。また、己とは違う道を邁進する半次郎にわずかな羨望の念を禁じ得ない。
しばらく岩のごとくかたまった二人であったが、鉄太郎は刀をひいた。
鉄太郎と半次郎はともに肩で息をしている。
「なぜ刀をひいた。勝負はついちょらん」
「拙者の負けだ。おぬしの一刀から逃げた」
「いや、おまえはおいの刀を受けきった」
「中村半次郎どの。鬼童衆をすべて討ったあと、まだおれの命があったらふたたび勝負をしよう。その時は西郷吉之助どのが立会人だ」
ぎりぎりの真剣勝負の余韻に鉄太郎の心は晴れやかであった。
お満をつれて、次郎長の子分たちのもとに戻った。
鉄太郎一行は戸塚宿を発っていく。
半次郎はその姿をじっと見ていた。
中村半次郎は薩摩藩の城下士の三男である。武士といっても最下層の身分で、その生活は貧しい農家と変わらなかった。
半次郎は一心不乱に刀を振る稽古をした。もちろん我流である。
すべては貧しい生活から脱するため。
餓狼のような半次郎に救いの手を差し伸べてくれたのが西郷吉之助であった。それ故に、半次郎は西郷に心酔している。
鉄太郎も今でこそボロ鉄と呼ばれるくらいに貧しい生活をしているが、半次郎の幼少期とは比べ物にはならない。しかも鉄太郎の場合、両親が生きていた少年期は飛騨高山郡代の子息として文武の師について学ぶほどには裕福であった。
そういう意味では対照的な二人と言って良い。
さらには、半次郎は此度の旧幕府と薩摩藩の闘争を陰ながら監視する密命を西郷から受けていた。
薩摩側の立会人ということになる。
つまり、先ほどの立ち会いは半次郎なりの挨拶と言ったところであった。
だが――。
「山岡鉄太郎。きっと決着をつけっど」
中村半次郎の立会人の立場を忘れた声はもう鉄太郎には届いていなかった。
二人の因縁は始まっていた。
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