第4話
西郷は庭で起きた出来事を呆然と眺めているうちに、白昼夢の中にいる心地になっていた。
「どないだ西郷。この者らを使ってみんか」
岩倉の顔がかなり近づいていることに気づいて、現実に引き戻された。
「わたしが。何故に」
「朝敵征伐のために、官軍は
「はい」
言われるまでもない。西郷自身が東征軍の参謀を拝命しているのだ。
「官軍が江戸に到着いたす前に、ある者を連れ戻してほしいのや」
「誰を――」
「薩摩藩隠密、益満休之助」
「益満ですか」
意外な名前に西郷は驚いた。益満休之助は江戸にいる薩摩藩士の活動を手助けするために暗躍している隠密であることは知っていた。
「江戸で旧幕府に捕らえられておるらしいやないか」
それは初耳であった。岩倉の情報網には感服するしかない。
「されど、たかが隠密をどうして」
「もそっとちこう……」
岩倉が口元を扇子で隠した。そこに西郷は耳を近づける。
「益満休之助がな、地の龍という秘宝を手に入れたというらしいのや」
「秘宝――。地の龍、とは」
「細かいことは麻呂にもわからぬ。だが、それは錦旗よりも天子さまの威光を
「
神器とは、歴代天皇が古代より神から授け伝えた、
「あるいはな。つまりは、地の龍を手に入れた方がまことの官軍となるかもしれないということや」
西郷はしばらく考えを巡らせた。そのような力を持つ秘宝が本当に存在するのか。
「もし旧幕府が地の龍なるものを手に入れたら、我らがたちまち賊軍になっちゅうことですか」
「そないにいきなり天地がひっくり返ることになるかは分からんけどな……」
岩倉は畳の上の目に見えない
「少しでも危ないもんは取り除いておきたいやないか」
息を吹きかけて掌の塵を飛ばした。
「つまり、あの八瀬鬼童衆を使って益満休之助を取り戻せばよいのですな」
「そういうことや」
「首尾よう行けば、八瀬童子たちには士分に取り上げると言うてある。彼奴ら死に物狂いで働くぞ」
岩倉の顔が笑みを浮かべたまま西郷の耳から離れて行く。
西郷はいまだに庭で平伏している五人に目を向けた。
西郷は京の町を歩いていた。春の香りが色濃く漂っていたが、そんなことは気にも留めていない。
岩倉具視の屋敷でにわかに信じがたいことがいくつか起きた。それを頭のなかで整理しておく必要があった。
すぐ後ろには中村半次郎が従っている。
「西郷先生」
半次郎の声で、西郷は目の前で佇んでいる女に気づいた。
ちらちらと桜が散る中、けぶるような姿でこちらに頭を下げる。
西郷は女に近づいて行った。
「蓮月どの――」
「西郷さま――」
さきほどの岩倉邸で紹介された八瀬鬼童衆の首魁、太田垣蓮月であった。透き通るような青白い肌が氷の彫像のように美麗な女人である。
西郷は蓮月を知っていた。いや、西賀茂村の神光院を訪れた際に見かけて以来、どちらからともなく話すようになり、いつしか二人で過ごす時間は西郷にとって唯一気の休まるひと時であった。
すでに男女の深い仲にもなっている。
そのため、八瀬鬼童衆の中に蓮月を見つけた時は少なからず動揺したのであった。
「あなたが八瀬童子であったとは……。わたしに近づいたのは岩倉卿の指示だったのですね」
「はじめはそうでした」
切れ長の澄んだ目が西郷を見つめる。
「ですが、今は……」
西郷は腕を組んで目を瞑っている。
「西郷さま。江戸で戦争が起きるのですか」
「旧幕府軍が抗えばそうなりもんそ」
「血を流さずに済む策はないのでしょうか。西郷さまはいつもおっしゃっていたではないですか」
二人で
日頃の激務から離れて心を落ちつけて会話をする中で、新しい方策に思いいたる場合も少なくなかった。
西郷はできれば武力を用いずに倒幕を成し遂げたいと、日頃から考えていた。
「そのためには、わたしたち八瀬鬼童衆は命を差し出します」
「無茶を申してはいけもはん。そなたたちには別の下知が……」
西郷の大きな目が開く。脳裏に稲妻のごとき閃きが走った。
――益満休之助。
――八瀬鬼童衆。
――武力を用いない倒幕。
「そうか!」
蓮月は大声に驚いて西郷を見上げている。
「蓮月どの。やはりあなたと話しちょっと妙案が浮かぶようです」
蓮月は美しい笑顔を浮かべる。
西郷とのこれまでのような蜜月は終わりを告げた。だが、この方は変わらない。日本のために成すべきことに邁進し続けるだろう。
「策を成すためには、八瀬鬼童衆に働いてもらうことになります」
「覚悟の上でございます」
「ここで失礼いたす。半次郎、藩邸に戻っど」
その晩、西郷吉之助は旧幕府軍に送る書状をしたためて、翌朝ふたたび岩倉邸を訪れた。
書状に目を通した岩倉具視はにやりと笑った。
「面白いやないかい。よう知恵を絞ったな、西郷」
「あいがともさげもす」
「それで、この書状は旧幕府の誰に送るんや」
西郷の大きな黒目の輝きが増した。
「陸軍総裁、
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