「我」の呪い

木ノ葉夢華

本編




 「真っ白な鳥籠の中に閉じ込められ、外の世界に憧れている小鳥」

 自らの置かれた状況を言い表すとするならばこうなのだろうか、と軽く想像した。





 * * *


 小さい頃から体調を崩さない日がないほど身体が弱かった私は窓に映る、一年の中で数々の景色を見せる森を眺めていた。けれどじっと座っていられるタイプではない私は、物心ついた頃には絵を描き始めていた。勿論、最初は他人に見せられないほど下手だった。でも毎日描くにつれその技術はみるみる上達し、幼稚園卒業間際の年には大人顔負けの絵が描けるようになっていた。


 それを見た両親は私のことを天才だと褒め称えた。


 これまでは身体を強くすることや頭が良くなることに力を入れていた。だが急に方向転換し、彼らは私に絵画の道に進むように私に強制してきた。その時十歳だった私は「自分はみんなと同じように過ごしたいから今はまだ決めたくない」というような旨を泣きながら伝えたと思う。それでも彼らは諦めきれなかったようで、幾度もその道を薦めてきた。


 私はそれにうざったく思い、日々その視線から逃げてきた。

 それにかまけている間に月日は経ち、気づけば小学校を卒業していた。


 まだ親は私に芸術系の道に行かせることを諦めていなかったし、私も自分の意志を通してきた。でももう義務教育が少ししか残っていないことを知り、今後のことで頭を悩ませた。


 これから先、進路のことも多く出てくるだろう。その時、彼らの一存で決められたらたまったものじゃない。それだけは絶対防がなければならない。―――そう思った私は早速対策を考えることにした。


 親は親戚にもこのことを自慢している故、私が想定外の進路に進もうとするならば全力で止めるだろう。どれだけ私が主張しても結局はただの子供だ。全ての権限は親が握っている。どれだけ国が子供の権利を主張しようとも、保護者から経済的支援を受けなければ生きていけない未成年者の権利はほぼ親が握っている。


 なら、抑止力を与えてたほうが良いのかもしれないなと私は思った。頑張らなくてはならないことは何だろうかと必死に頭を回す。まずは勉強を頑張るし信頼できる友達を一人でも作る。それは確定事項だ。では他に中学生がやるべきこととは何だ?―――と考えてふと思い出した。


 部活動だ。

 小学生のときはクラブ活動があった。だがおまけのようなもので月に一度あるかないかの頻度だし、数も七つしかない。それもイラストクラブ以外は全て運動系だった。私はその唯一の文化系クラブにしぶしぶ所属していたと思う。私は基本色鉛筆やクレヨンより水彩画のほうが好きだからだ。


 なら、中学校で部活動に入るとしたら?

 私は部活動の説明を思い返してみる。確か休部中の部活含めて二十五はあったと思う。そしてその中には―――人数は少ないながらも美術部が存在していたはずだ。


 私は心のなかでガッツポーズをする。これなら親は納得するし私も時間稼ぎが出来る。これからのことについて真面目に考える時間が少しでも増えるというのならばやってやろうじゃないか。


 本当は帰宅部でもよかった。自分が楽しいと思えるような部活動でなくては意味がないからだ。でも目的ができたならしょうがない。そちらに力を注いだほうが家庭が円満になるならば私の望むところだ。


 そうして中学校に入学するなりすぐ美術部に体験入部をしに行った。その行動の速さに旧友から呆れられたが知らないふりをした。美術部の先輩方も驚いていたが新入生が入るかもという興奮からかすぐに受け入れてくれた。


 その結果、私は美術部に入ることにした。勿論他の部活も―――科学部だったり合唱部だったりも行ってみたけれど、どうにも私には合わなかった。それに美術部の先輩方も優しく、人数が少ないから自分のやりたいことも出来る。―――これ以上もないほど私の希望にマッチしていた。


 即入部届を出した私に親は笑顔を見せた。思ったとおりでほっとする。体験入部二日目開始前に渡されたそれに顧問の女の先生は笑顔を浮かべたまま固まった。その先生に気づいた先輩方も集まるなり同じポーズを見せ、私は笑いを堪えるのに必死だった。


 その後私は彼らと一緒に活動をし始めた。まっさらな画用紙に家から持参していたいつもの用具たちを机の上に出してみる。普段と同じ場所でなくては本気が出せないかもしれない、とか上手くかけなければ親に見放されてしまう、とか思っていたがとても身体に馴染んでいる風に感じられた。そして、その机が一枚の絵に見えてくる。

 なら今回はそれを描こう、と私の直感が言う。私はそれに従い、絵の具をパレットに出し、筆に水をつけてさっそく色を加えた。

 私のその様子に先輩方がそわそわしていたことを私は知らない。ただ、描くのが楽しくて、意識が持っていかれていたのだ。

 途中、いいアイディアが浮かびそれも付け加えることにした。一層筆の動きが早く丁寧になる。

 

 そうして出来上がったのは机の上に置かれた絵画セットと美術室の絵だ。ちょうど画用紙の端には窓の外の木々が覗き、真ん中の画用紙を中心に筆やら絵の具やらを散りばめるように配置した。特に注目してほしいのは画用紙に描かれている絵が完成していないということだ。絵の中の絵―――つまり画用紙に描いた世界の絵―――に描かれているパズルは途中で考えたものだ。水色を基本として少しグラデーションを入れたことによって透明なはずなのにそう見えないという不思議さを表現できたはずだ。それもそのパズルの一部分が欠けていることとその段差で生まれる影が不完全さを生み出してくれることだろう。


 私の絵を見て先生たちがざわつき始めた。振り向くと「なんでそんな上手く・・・」とか「天才が・・・」とか言っている。本当は言われて嬉しい言葉のはずなのに何故か身震いした。先程まであんなにも楽しかったのに今は絵を描くことが恐怖にしか感じられなかった。すごいねと褒めてくれる先輩方の失礼にならないように礼を言い、しばらく収まるまで引きつった笑みを浮かべていた。彼らが持ち場に戻ると共に私は逃げるように片付けると教室から飛び出した。


 部活動に所属している人はまだ帰宅時間ではない。けれど帰宅部の、それも図書館で勉強していた人たちは丁度閉館時間になったためぞろぞろと出てきた。楽しそうに話しながら昇降口に向かってくる姿に思わず舌打ちをしたくなり手で口をふさいだ。今、自分の気分で相手のことを侮辱するような真似をしようとした―――そんな事実に自己嫌悪に陥る。速歩きで校門を出て、走り出した。


 いきなり自分が嫌になった。自分の才能は全国・世界単位で見ると平凡なのだ。この田舎町の学校では、この小さな世界では私が素晴らしいと讃えられても歴史に名を残す画家にはほど遠い。それなのに威張っていたら意味がないだろう?―――そう思っては親の誘いを断ってきたのだ。その時は大丈夫だった。でもいつの間にか大丈夫じゃなくなっていたのかもしれない。習慣化された言葉の応酬は流すことが出来ても素で言われた言葉には弱かったのかもしれない。なんでこれまで気が付かなかったのだろう?これまでは制御できていたことができなくなっているかもしれない恐怖が私を襲う。


 いつの間にか私は家の前にいた。

 確か今日は二人共仕事で遅くなると言っていたなと思いながらポケットから鍵を取り出し鍵穴に当てた。手が震えて金属音が耳に刺さる。やっとのことで開けると靴を脱ぎ捨てて洗面所に向かった。


 酷い顔だった。

 鏡に写った私は感情を制御できなくて表情さえも保てていなかった。私の目には般若のようにしか見えない。怒り狂いすべてを壊しそうな、そんな悪人の顔。そんな自分から目を逸したくて急いで手を洗う。早くしないと早くしないと・・・と口が動き一つ一つの動作も雑になる。荷物を乱暴に持ち上げると、騒音をたてながら階段を駆け上って自室に飛び込んだ。


 そこにはいつもの空間が広がっていた。絵に関することが散りばめられているその場所で私は膝から崩れ落ちた。


 「もう…やめて」


 ガラガラな声が部屋に響く。いつもは元気づけてくれるそれを、今はどうしても見たくなかった。視界が真っ暗になる。呼吸の方法を忘れてしまったように喉から出る空気は僅かで、ヒューヒューと器官が悲鳴を上げる。これが発作だと気づくまでに数分かかった。肺の空気が薄くなり意識も遠のいていく。そんな中でも私は繰り返し口を動かしていた。


 絵なんてもう描きたくないと。

 才能なんて枷はいらないと。

 自分なんていらない、と。


 いっそ夢だったなんてことが起こればいいのにという馬鹿馬鹿しい思考にわらいながら、冷たい床に頬を擦りつけ、甘い眠りに誘われるようにそっと、目を閉じた。

 








 * * *



 次に目を開けた時、私は真っ白い部屋にいた。両腕のいたるところにたくさんの管が繋がれ、その先は見るからに精密な機械につながっている。大きな心拍計が定期的に鳴り響く中、私はこれまでのことを思い出し頭を抱えた。


 結局現実に戻ってきてしまったのだという虚しさが私の内側で渦巻く。今脳裏に浮かぶのは昔描いたたくさんの絵の前に座る私に、天才だとか大げさに褒めたてる周囲の人達の顔だ。自分はそんな素晴らしい人間ではないのだと、褒められるのは嬉しいけれども後から自分という存在が小さく見えて消えてしまうことに恐怖を抱く愚かな人間なのだと、そう叫びたかった。でもその嬉しいという僅かな感情が私を締め付けて内側に押し込める。そしてどんどん溜まって挙句の果てに―――――こうなってしまうのだ。


 私が意識を取り戻したことに気がついたのか看護師さんが病室のドアを開け、中に入ってきた。

 ちなみにあの日からは一週間も経っていたらしい。真夜中、ほぼ同時刻に帰ってきた両親が、普段夜まで起きているはずの私から返事がないことを不思議に思い部屋を覗いたところ勉強机の前で倒れていたのだという。それも倒れてから数時間が経過していたため呼吸困難に陥っておりすぐさま救急搬送されたのだか。

―――――明らかに迷惑な人だ。


 ご迷惑をおかけしました、と頭を下げると看護師さんは大丈夫よと微笑んだ。元々この人は私のかかりつけの先生の助手の方で私とは十年弱の付き合いだ。だからこそ、ここまで気軽に話すことが出来る。

 彼女によると一時生死の狭間でギリギリ保っていた状態だったらしい。処置をするまでの時間が経過していたせいで症状がより悪化したのだとか・・・どちらにしてもその張本人である私には全く実感が沸かなかった。



 彼女が仕事に戻っておよそ二時間、また寝ていたようだ。身体がふわふわと浮くような感覚がしたと思ったら足元が真っ暗になって、いきなり強力な引力に引っ張られて落ちていく夢を見た。それも落ちて止まっての繰り返しだ。十回以上恐怖に晒されてようやく目を覚ませたときにはもう、嫌な汗が衣服と私との間にびっしりついていた。心拍数も跳ね上がったために他の看護師さんが見に来る始末だ。私は申し訳無さとあの夢の浮遊感がまだ残っているせいでその後一人沈んでいた。

 夢は自分の心や願望を示すだとか噂されているが、今回のことに関しては完全に精神状態に影響されたのだと思う。真っ暗なあの空間も、も、私が苦しんでいたからだ。・・・多分。


 悪夢を見てからもう寝るものかとパズルをしていた。小さい頃から絵を描きたくない時にやっていた、合計五千ピースもある風景画のパズル。朝日の光を受けてキラキラ光る森林の幻想的な写真が少しずつ出来上がっていく感じからは未だ離れられない。


 カチッ、カチッとピース同士が触れ合う音としっかり嵌る感覚に意識を傾けて少し経った頃だろうか。廊下の方で騒がしい声が聞こえたかと思うと突然大きな音を立てて病室の扉が開いた。


 苦手な、キィキィとした高い声が私の耳に届く。

 それが誰のものなのか知っているからわざと顔を上げない。


 「羽優うゆ大丈夫なのっっ?!!」


 思わず耳を塞ぎたくなる。でもこの人は――――正真正銘の母親だから、必死に我慢した。顔を背けないことだけでも、褒めてほしい気持ちになる。


 「お母様、申し訳ございませんが病院の敷地内では出来る限りお静かにお願いします・・・!」


 そんな母を止めたのはあの看護師さんだった。傍から見れば平坦とした声に私の喉はひゅうっ、と鳴る。静かな怒りと威圧が感じ取られて、身の毛がよだつ。先程の――――発作の兆しが見えたようで、私は胸を押さえた。看護師さんを睨みつける母の姿が端に映る。外見は私と母はよく似ているらしい。だからだろうか―――一瞬、私に見えた。醜い顔をして、罪のない人に八つ当たりする私に。


 「―――う―――、羽優さんっ?!大丈夫ですかっ?!!」


 私の名前を呼ぶ声がしてかすかに目を開けた。耳に電子音が響く。

 丸い背中を激しく揺すっているだろう振動に、悲鳴に近い女の声。

 大丈夫です、と伝えようとして声がでないことに気がつく。せめて手を上げて意識があることだけでも知らせなくてはと思ったが、それさえ出来ず上半身を折り曲げて倒れ込んだ。


 意識が消える瞬間、この症状が二回目であることに思い当たる。そして今回も私は周りを不安にさせているだけだと考えながら、あの時と同じように瞳を閉じた。



 * * *










 * * *


 あれから完全に復活できるまで二週間かかった。

 その間に月は変わり、季節も春から夏への移行期間に差し掛かっていた。


 久しぶりの学校はそこまで変わらなかった。クラスの友だちも前と同じように私の絵を褒め称えるだけだし、私は楽しそうに話す彼らの趣味の話に相槌を打つだけだ。それ以上もそれ以下もない、一線を越えることのない関係。休んでいた私のこともあまり心配している様子はなかったし(勿論内心は測れないが)誰もその理由は聞いてこようとしなかった。勿論私からしては言わなくていいということが気楽だったし、これまでもそんなに気に留めなかった。だが、今はどうだろうか。そのことを寂しく思ってしまっている。


 私の口からおかしい、とこぼれる。どうしてここまで疎外感を感じてしまうようになったのか理由さえも分からず、静かにそのグループから離れる。正直、彼らの趣味の話にそこまで興味がないし、興味を持たない以前に合わなかった。一応自分の身の置き場を固めるために入っていたグループだけでなくこのクラスさえも馴染めていないような気さえしも始める。


 なんとか今日の授業を終え、くたくたになりながらも美術室に向かう。あそこなら―――――あの先輩方なら、私を笑顔で受け入れてくれるのではないかと淡い期待をいだきながら扉に手をかけた。


 だが、そこにあったのは空っぽの、真っ暗な部屋。


 毎日掃除当番の人が清掃してくれているおかげか埃っぽくはない。でもそれがより閑散とした風を醸し出し、私の心を冷たくしていった。もしかしたら誰かいるのかもしれない、と思いながらも足はすくみ動こうとしなかった。


「ここで何をやっているの?」


 背後から落ち着いた、固い女性の声がした。私の不審な行動を咎められるのではないかとビクビクしながら顔を上げる。だが、そこにいたのは制服を着た、同学年のバッジをつけた女生徒だった。先生では真っ黒で艷やかな長髪が私の目の前で揺れる。


 「ここの美術室になにか用でも?―――――ああ、そういえばここで活動している美術部の先輩方はコンクール目前に引退したらしいよ。一応後輩はいたらしいけど最近は来てないとか・・・まあ、どれも噂にしかすぎないから信憑性はないけれども。」


 気にしなくていい、と言う彼女の瞳はどうも馬鹿にしているように見えなかった。寧ろ日頃からなににも頓着しないタイプにも思える。振り返ってみれば先程の声の掛け方も話し上手のそれには思えなかった。


 仰ぎ見たまま固まる私に彼女はさも当然だというように口を開いた。


 「そこで私に何も言わないということはあなたもこの美術室の関係者なのね。」


 私は一瞬その言葉がわからなかった。


 「あなたが美術部に押しかけた最初の入部者で、私がその後遅れて入ったってことでしょう?」


 彼女はポケットの中に手を突っ込むと――――「美術室」という緑の札がついた鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。







 * * *


 数日一緒に過ごしてわかった。

 彼女は一切笑わないひとだった。


 綺麗な外見をしているのにも関わらず笑顔を見せないために傍からは冷たく見えてしまう勿体ないタイプだったのだ。ただ感情を抑え込むのが習慣となっているだけの普通の中学生にしか見えなかった。言動がそれでなくても態度の端々から優しさが滲み出ていて、触れる度に心が暖かくなるような気がした。


 それに彼女は絵が上手い。

 私の得意分野が壮大やインパクトという「動」が多いとするならば、彼女のは風景画などの「静」に特化していた。繊細さというべきだろうか?一つ一つの作業が丁寧なため写真のような絵画が生まれてくる。生まれてこの方名作以外で感嘆したことがなかった私だったがこればかりは驚いた。


 ちなみに彼女にはちゃんとした友人がいるらしい。私も何度か見かけたことがあったが、見るからに大人しそうな子だった。だがその子の前で笑っている彼女は―――普通の少女だった。


 そんなこんなで私の日常は「普通」に過ぎていった。

 クラスメイトと何気ない会話をし、彼女と無言で絵を描いていく日々はあまり辛くなかった。絵を描くことの苦しみからも開放されたような気分が私の心を高揚させ、日常を彩っていった。


 だが、そんな毎日が続くわけがなかった。


 「ねえ羽優。そろそろ専門学校について考えてみない?」


 中二の終わりに差しかかったある日、家に帰った私を待ち構えていたのは絵画の専門学校のパンフレットを数個手にした両親の姿だった。それを見た途端背筋が凍りついた。


 「なんで?」


 震える口から言葉を絞り出す。すると母は言った。


 「あなたの才能を殺すような真似をする訳がないでしょ?正直、今の部活動だって意味がないじゃない。二人、しかも同級生同士だなんて教室でやっていればいいでしょう?あなたの力を最大限に伸ばすためにもこの学校だけだと足りないと思ってるの。転校とかは今気分が乗らないとしても中学卒業後の話をしたほうが現実的だと思ったの。」


 ああ、と私の口から絶望の声が漏れる。一方的に「才能」を活かそうとして「精神」を殺すのはいいんだね、と小さく呟く。ただその声は二人には届かなかった。視界がうっすらぼやけ始める。


 「もし・・・もしも、私が公立高校に行きたいって言ったらどうなるの?」

 「どちらにしてもあなたの才能が一番なの。そのことをわかって頂戴。」


 私はこれまで両親と「これから」について話すのを避けてきた。だって当たり前だ。自分の希望を言っても耳を傾けてさえくれないしその度に私を否定して自分の意見を押し付けるのだから。ただそうであっても、私はこうなるまで放っておくべきではなかったのだ。


 「ごめんなさい」


 お母さんは聞こえていたみたいだ。手を伸ばしてきたが私はそれを振り払い―――玄関に向かって走り出した。


 両親の言うこともわかる。ただ相手が悪かった。初めてで凡人の域の作品を描ける天才ならともかく、どこまでも凡人の範疇にしかいられない私には通じなかった。専門学校についてもそうだ。この街で通用する技量だとしても大きな専門学校とかには本当の天才がいて、その中で私は天才だと思い込んでいる馬鹿に成り下がってしまうに違いない。


 ローファーに足を突っ込む。足は止まらない。扉を勢いよく開ける。目指すのは―――学校だ。


 外は雨が降っていた。そこまで大降りではなかったが少しずつ私の服が湿っていき徐々に体温を奪っていく。たとえ住宅街の中だとしても人は通る。その人たちは皆、傘をささずして走る私を不思議そうに見た。


 まだ学校の門は閉じていなかった。ただ中は閑散として先生の数もまばらだった。私はその目を忍び校舎に入ると急いで屋上に向かった。


 入口の扉が壊れていることは既知の事実だ。ガチャガチャとドアノブを適当に回すと―――予想通り簡単に開いた。


 目の前に広がるのは雨に濡れた、所々床が捲れ上がった地面と歪んだフェンスだ。ギリギリ落ちない所にある給水タンクの横のハシゴが視界に写った途端私は登りだしていた。

 奥に見える木々が音を立てて揺れる。その風景に私は嘲笑った。


 あの中で死ねるのなら本望だ、と。


 正直自分に飽きていた。

 親の勘違いによって定められてしまった人生を歩まなければならないだなんて可怪しいと本気で思っていた。だが今思うのだ。そうなった挙句、私は絶望し愚かに死んでいく運命だったのだ。そう考えることで私の心は少しばかり明るくなれた。

 それに―――私はもう嫌なのだ。もし私が必死に我が道を歩もうと足掻いても、私には彼らの、両親の血が流れている。つまり同じような性格を持っており、同様の過去を繰り返していくということだ。今、私が感じている彼らの異常さもいつの日か忘れ、似たような恐怖を周りの人に与えくのかもしれないと考えると――――一言で言い表すことができない虚無感だけが残った。その時初めてDNAという名の呪いを心の底から憎んだし、年が重なっていくことに恐怖した。


 だからいいでしょ?と私の口は動く。

 もうそんな呪いから解き放たれたほうが楽よね、と悪魔は囁く。


 落ちないギリギリの所で、背筋を伸ばして立つ。雨と共に風が私の髪を巻き上げる。


 家でも学校でも私の中でも、私は浮いていた。

 いつの間にか否定されることが怖くて耳を塞いで自分の殻の中で閉じこもっていた、その代償だ。

 でも、


 「それでも、彼女は優しかったな」


 初めて不器用な優しさに触れたような気がした。あの感覚だけは―――唯一の宝物だったのかもしれない。


 「でも、それでは、救えなかった。」


 私はゆっくり目を閉じた。もう身体の感覚は寒さで消えていた。

 平衡感覚が失われ、やがて―――――――――



 私は、勢いよく、真っ逆さまに、ちていった。



 * * * 








 * * *



 運命は残酷だった。

 目を開けた先にあったのは地獄でも天国でもなく、現実世界だった。


 この行動に私を知る人たちは驚いたようだ。いい子ぶっていた私のみを見てきたのだから当たり前だけれど。

 私の身体はより貧弱なものになってしまったようだ。現に今も口元には酸素吸入器が取り付けられているし、いくつも管に繋がれている。両足は捻挫や骨折をして上手く動くことができない。正直植物人間になる可能性が高かったらしい。

 私の世話をしてくださる方々は皆当たり障りのない会話をしてくれるが、それがより、私の願いが叶わなかった現実を突きつけてくるようで胸が痛んだ。前に比べてより感情を表すことが出来なくなった私は、病室のベッドの上で一人、生きていかなければならない現実を受け入れようとただ虚空を見つめていた。


 あのいつもの看護師さんに言われた。「生命が生きていてもあなたが生きていなくては意味がない」と。その言葉に頷きはしたが、もう私にはその意味で生きることが出来ないだろうと勘付いていた。

 あまり関わりのなかった担任の先生も訪ねてきた。大丈夫ですか?などと言うが私からしてみては体裁を整えるために出た嘘だということが表情で伺えた。

 クラスメイトも来た。彼らも先生と同じだ。

 両親は私の命より私の頭や才能、手などのことを心配した。子供の気持ちを考えないところは前と一切変わらなかった。


 彼らの言葉は一切私の心に響かなかった。誰も信じられなかった。自分すら、もう。


 そして―――彼女は来なかった。ただ代わりに、届け物を持った彼女の友人が来た。

 正直これまで話したことがなかったため無表情のまま身構えてしまったがその子は申し訳無さそうな表情をして言った。


 「――――これはお届け物。できれば今読んでほしいな。それで私の話を聞いてほしい」


 宛先の書かれていない封筒を手渡される。そんなことを言われたって、と思いはしたが言い留まり無言で封を開けた。目に飛び込んできたのは彼女の筆跡。次に目に入ったその内容に私は目を見開く。「ありえない」という言葉が口から滑り出す。そこに書かれていたのは彼女の訃報と真実についてだった。読み終わる頃にはもう、私の目から涙が溢れ出していた。

 発作が起きた時と同じように。

 久しぶりに感情がこみ上げてきた。


 「こんなことが、あったんだ」


 私の呟きに、読み終わるまで待っていた彼女は俯いて同意した。


 「私は、彼女のことを親友だと思っていたんだ。なんでも話してくれるって勝手に思い込んでいた。でもね、彼女は最後の最後まで溜め込む、タイプだったんだよ。その前に助けられなかったのは私のせい。だけどもう、過去は変えられないんだ。」


 だから、と私と目を合わせて言葉を続けた。私にお願いしたいことがあるのだと言った。

 彼女の目は綺麗だった。まっすぐとした、未来を見据えている目。今彼女は前を向こうと、必死に私に訴えていた。

 その話を聞いて私の中では「自分に出来るのだろうか」という不安があった。それでも、彼女のためにやってみたいと思う気持ちが勝ち、頷いた。



 看護師さんに許可をもらってベッドの上に机を用意してもらった。生前の彼女が絵画コンクールに出すために制作していた絵を切り取ってみるなどして加工する。自らの手で作った透明な長方形の型に嵌め込んでみると確かに様には、なった。だが何かが足りない。必死に病室で考えること数時間、やっと納得する案が出来たことに喜びを感じながら教えてもらった連絡先を開いた。

 次の日彼女がやってきて私の手に載るものを見ると、満面の笑みを浮かべた。「凄い、きれいだね」と涙目でつぶやく彼女に頷く。だがこれはまだ完成していない。ここからが本番だ。


 「ねえ、教えてほしいんだ」


 私の声が震えている。これは私の恥なのだから。


 「この依頼されたフォトキーホルダーは、まだ片面が完成していないんだ。それで――――――」


 なんとか顔を上げる。彼女なら否定しないと信じて。


 「彼女の、名前を教えて」


 それを刻むのだ、と言うと彼女は微笑んだ。

 私も名字はわからないのだと目を伏せてつつ答えた。

 「麗華」と。


 なんて綺麗な名前なのだろうと、私は思った。であったとしても彼女にピッタリだった。


 私は礼を言うと早速その名前をアルファベットで刻み込んだ。ほんの数分でその作業は終わり、そのモノを彼女に手渡した。


 「ありがとう」


 その笑顔に、私はかつての彼女の気持ちが少しわかった気がした。

 彼女を数少ないだろう友人の一人にした理由わけが。


 時は私のために止まってくれるわけがなく。

 季節は巡っていく。

 その時と共に私の身体は少しずつ崩壊していった。反比例するように私の心は平常を取り戻していった。

 なぜなら、彼女が毎日お見舞いに来てくれたから。

 来る日も来る日も重要な行事がない限り私の元にきては学校のことを教えてくれた。彼女自身友人が亡くなってしまったことで精神的にに負担がかかっているはずなのに、私に笑いかけてくれた。それも辛そうにではなく、楽しそうに。


 それから一年が経った。その頃の私はもう立ち上がることすら出来なくなっていた。ベッドの上で一人絵を描くのは苦ではなかったが彼女と遊びに行けないことが残念で仕方がなかった。


 いつも通り病室に来た彼女に、「夢でも遊びに行けたらどれだけ楽しいだろうね」と言った。

 そんな私に彼女は言った。

 

 「私も行けたらいいなって思うよ。でもね、夢の中で行けたとしてもそれは現実じゃない。私は、今を大切にしたい。夢の世界で叶ったところで夢から覚めたらほとんど忘れちゃうの、私は嫌だな。」


 そうだったね、と私は思う。

 夢は現実じゃなかった。あの理不尽な両親も「彼女」の死も私の自殺未遂も夢なら起こらなかったかもしれない。でも私たちは現実に生きているから止められなかったのだ。


 同じような一日を繰り返しているとどうしても思い出してしまう。

 あの屋上での出来事を。

 才能という枷の存在を。

 私が、私を殺す能力を。


 頂上に登った日の下で私はまた筆を持つ。夕日を描こうと絵の具に筆先をつけたところで―――突然胸に違和感を覚えた。

 呼吸を落ち着かせようと胸を押さえる。額から滴る汗がベッドの上に零れる。

 手に持っていた筆が赤色の絵の具をつけたまま地面と衝突しベチャッと音を立てて数枚の床のタイルを濡らした。

 床に飛び散った色彩が綺麗だな、と手を伸ばしたところで私の平衡感覚がなくなりうつ伏せに倒れた。

 すぐ近くあるパレットが、お気に入りのパズルが、友人の名を映して私を呼ぶ携帯電話が、やけに遠くにあるように見えた。


 一瞬、私の中の時が止まる。

 オンボロテレビの砂嵐がの前で舞った。

 


 触れた隣同士の指に熱は感じられず、

 消える直前まで、心拍計の危険音だけが耳の中で鳴り響いていた。








     

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「我」の呪い 木ノ葉夢華 @Yumeka_Konoha

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