エフィーコ・ゼーロ 〜彼女はただ、幸せを求めていた〜

赤座かえ

序章

第1話 【アンナ・復讐の少女】

かつて、自由を信じた少女がいた。

かつて、民を守ろうと命を投げ捨てた男がいた。

かつて、慈愛の心を持って獣すらをも救おうとした少女がいた。

かつて、己の運命を否定した少年がいた。


かつて、世界を手に入れようとした者がいた。

かつて、愛する者のために修羅の道を選んだ者がいた。


かつて、世界を慮った種族がいた。

かつて、それでも平和を信じた者がいた。


これは、彼らの物語。


【エフィーコ・ゼーロ】


明け方特有の、杏色の柔らかい光が広大な草原を照らす。やっと長い夜の闇から解き放たれた大自然は鳥の囀りを持って朝の訪れを爽やかに知らせる。朝の訪れと共に巣穴から出てきた動物たちは気持ちよさそうに伸びなんかしている。

そんな草原を突っ切る一本の細い砂利道。小さめの馬車がギリギリ通れるくらいのその道を、彼女はただ坦々と歩いていた。

質素な格好の少女だった。ボロボロの肌着に、色気の無い紺のロングスカート。薄汚れている茶色の革コート。底のしっかりしている頑丈そうなブーツ。そして背中に背負った小さな皮袋。全く着飾らないその格好を見れば、誰だって彼女が旅人だとわかった。

ペンダント。唯一彼女が首にかけているその雫型の蒼い宝石だけが高価に見える。

彼女の顔立ちは整っており、間違いなく美人の部類だ。鼻筋はしっかり通っているし、女性らしい愛らしい形の唇。キリッとした目に深蒼の瞳。左目の泣きぼくろ。

腰まである長い髪は炎よりも真っ赤だった。長い前髪は右目にかかっていて、右目を隠すかのように毛先が撫でつけられている。

その長い後ろ髪をそよ風がさらさらと揺らす。強くも激しくもない優しい風。誰だってその心地よさに思わず目を閉じて春の訪れを堪能するだろう。

しかし、彼女の表情は動かない。美しい風景、大自然に見向きもせず、ただ冷たい眼差しで前方を睨みつけながらひたすらに足を動かす。

ガタガタガタガタ……

後方から車輪と蹄の音が聞こえてきた。馬車を通してやろうと少女はそっと脇道に逸れた。しかし馬車は通り過ぎず、彼女の前で停止した。

「ヤァヤァ驚いた、アンナじゃないか! 帰ってきてたんだな」

御者の男はびっくりしながらも、嬉しそうな顔で少女に声をかける。

「大きくなったな。お前さんが街を出て行ったのがもう三年前だから…今年で十七か」

還暦間近の男だ。髭の生えた顔はシワだらけ。全身を灰色のマントで包み、頭には頭巾をかぶっている。

「久しぶり、ダニーさん」

旧友に挨拶をするが、彼女の表情はそれでも動かない。クールと言うには冷たすぎる、まるで生きてないかのような瞳でじっと見つめるだけだ。

「…。まだ…、吹っ切れてないようだな。アンナ」

彼女のその様子に、ダニーは悲しそうに呟く。

「安心しろ。もう以前の泣くだけの弱い私じゃない。これでやっと立ち向かえるんだ」

「哀れな子だ。こんな若いのに、なぜこんな過酷な運命を背負わなくてはいけないのか」

「やめてくれ。悲劇の主人公になったつもりなんて微塵もない。全部自分の考え、自分の都合で動いている。今日戻ってきたのもそうだ」

「ふー、変わっちまったな。かつてお前さんは普通の女の子だった。明るくて誰にでも優しく、愛されてた」

「…。昔の話だ」

それを聞いたダニーは悲しそうに肩をすくめた。

「悔しいが、ただの商人である俺には何もしてやれない。が、せめて街まで乗せて行ってやるよ。後ろに乗りな」

「助かる」

少女が馬車に乗り込んだのを確認すると、ダニーは馬に鞭を打って再び馬車を走らせる。ガタガタと砂利道を鳴らしながら、馬車はゆっくりと街に向かって進んでいく。もう辺りはすっかり明るくなって、草原のあちこちから色々な動物たちの活発な鳴き声が聞こえてくる。

ダニーは荷台の方を見る。少女は外を眺めるわけでも寝るわけでもなく、死んだように荷台の壁をボーっと見つめていた。

「本当に哀れな子だ。神よ、どうか彼女に救いを。夜のように真っ暗な彼女の心にも、いいかげん夜明けを与えてやってください」

少女を乗せた馬車は静かに街に向かうのだった。


一時間も走って、いよいよ街が見えてきた。

街全体を取り囲むように左右に伸びる巨大な石造りの防壁。高さ二十メートルはあるだろう。白色のレンガが無数に組み上げられている。

縦と横だけではなく、厚みもかなりありそうだ。壁の上にはちょっとした通路と、立派な砲台がズラリと並んでいる。ここから侵略者と対峙するのだろう。

そして砂利道の先に聳え立つ、これまた巨大な鉄城門。どんな外敵の侵入をも防ぐ鉄壁の守りは、安心感と共に威圧感さえ感じさせてくる。

こんな立派な防御壁に守らせているこの街が普通の街である筈がない。それも当然、この「ロキロキ街」は「ブラックスミス王国」の首都にして王都。

王族の権力を持ってすればこそ、総面積九十八平方キロメートルの大きな街をも壁で囲んでしまえるのだ。

その壁の前には小さな石造りの建物があり、人々が長い列をなしている。彼らは一人づつ小屋に入り、暫くしたらそこから出て門の方へ向かう。そして門に付いている人間用の小さな扉から街へ入っていく。

ここは入街に対する関所の役割を持っているのだ。そこの役所の印判なしでは門を潜ることはできない。

列は徐々に短くなり、ついにアンナ達の番がやってきた。ダニーは馬車を石小屋の前に停める。彼が馬車に乗っていることに気づくと、小屋の中から役人達が出てきた。そのうち何人かは馬車の荷台を調べ始め、一人は操者であるダニーの元へやってきた。

「商人か。入国許可証を」

男は淡々と命令する。彼は織部色の甲冑を着ており、甲冑にはこの国の紋章である剣と槌のデザインをしたエンブレムが描かれている。

ダニーは彼に書類を渡した。旅商人なら必須の貿易書類というものだ。ダニーの本国とブラックスミス王国、その両国の分の商いを許可する印判が押してある。

甲冑の男は書類に目を通し終わると、羽ペンでサインを書いて印判を押した。

「オーケーだ。今門を開けるから待ってろ」

ダニーに書類を返して甲冑の男は小屋に戻っていった。

彼は鍵を持って再び出てくると、門の鍵穴にそれを突っ込む。

そうすると歯車が回る音がして、三十秒も経たないうちに門全体が開いた。

「すぐに閉まるから早く行け」

ダニーは男に軽く手を振り、馬車を走らせる。

閉まりかける門を通って中に入ると、ロキロキの大都会が出迎えてくれた。

色とりどりのレンガで造られた家々からは煙突が伸び、白い煙をもくもく吐き出している。丸石を敷き詰めた道路はありとあらゆる方向へ伸びていて、街の規模感を悟らせる。

まだ早朝だと言うのに、街の中は賑やかだった。人々や荷馬車でいっぱいだ。至る所に商店や屋台があり、買い物をしようと財布を握りしめる客が大勢いる。活気という言葉以外、この光景には全くもって相応しくないだろう。

馬車は石畳の道を人々を避けながらゆっくりと進む。門から離れるほど街はどんどん賑やかになっていき、いよいよ屋台でいっぱいの大きな広場に出た。街の巨大市場の一つだ。

「着いたぞアンナ。俺は今からここで仕事だ。仕入れた商品を全部売らなきゃいけない」

「馬車ありがと」

短く礼を言うと、彼女は皮袋の荷物を肩に背負って馬車を飛び降りる。

ゆったりとした馬旅だったが、結局、彼女は一睡もしなかった。

「お前さん、昨晩は全然寝てないんだろ? ちゃんと休まないとダメだ」

さっさと向こうへ歩いて行ってしまうアンナに向かってダニーは慌てて呼びかける。

「頼むから…もっと自分を大切にしてくれ」

アンナは立ち止まったが、振り返りはしなかった。

「大丈夫だ。これから宿でも探す。朝ごはんを食べたら一休みするつもりだ」

それだけ言って、彼女は人混みに消えていった。

「アンナ…」


少し時計が進むと、外に出ている住人の数はさらに増した。商人やそのお客は勿論、犬の散歩をする者や仕事に向かう者。先と同じ紋章付きの甲冑を着た人たちも一定数いる。

賑やかで楽しそうなそんな人々を、アンナは不機嫌そうに突っ切っていく。

(人混みは嫌いだ…)

心の中でボヤく。ダニーがそれを聞いていたらこう言っていただろう、「昔はそんなこと無かったのにな」と。しかし彼女自身はその心の変化に気づいていない。

彼女は既に、過去の自分を失いかけていた。

ドスッ。

何かが強くぶつかり、アンナは尻餅を付いてしまう。

「痛…」

ぶつかってきたのは一人の幼い少年だった。アンナはぶつかった拍子に一緒に転んだその少年を持ち上げ、立たせてやる。

「こーちゃん‼︎」

叫ぶ女が慌てた様子でこちらへ走ってきた。十中八九この子の母親だろう。

「あぁ! お怪我はありませんか⁉︎ だからママ、走ると危ないって言ったわよね? ほらお姉さんに謝りなさい」

「ご、ごめんなさい…」

親子はアンナに向かって深く頭を下げた。

「…親ならちゃんと子供を見ておけよ」

「はい、すみませんでした」

アンナは小さなため息をつく。

「じゃあな」

二人に頭を上げさせ、彼女はさっさと人混みに消えていった。

「…まだ若いのに、随分怖い子ね…」

「でもあのお姉さんこれくれたよ!」

少年が手のひらを広げて見せると、そこには兎の形に彫られた可愛い木彫りが置かれていた。


路地へ入っていくと、街の雰囲気が一気に変わる。

活気に溢れた市場とは違い、どこか暗くて静かな雰囲気だ。ここはいわゆる宿泊街で、宿屋や飲食店なんかが沢山あるエリアだ。

アンナはそんな宿屋の内の一つへと入っていく。三階建ての大きな木造の建物だ。

ドアを開けると取り付けられている鐘がカランコロンと音を立てた。

「いらっしゃいませ」

カウンター越しに受付嬢の明るい声が彼女を出迎える。ニコニコと笑う、金髪で可愛らしい娘だ。愛想もいいし、この店自慢の看板娘といったところだろう。

「今晩一泊予約したい。それと、今朝の朝食はもう終わってしまったか?」

「まだまだた〜くさんありますよ。熱々なのを用意しますので、食堂でお待ちください」

チェックインの手続きを済ませ、受付嬢に言われた通りに食堂に向かう。

この宿は地元ではかなり有名らしく、食堂は沢山の客で賑わっていた。彼女は適当に空いている席を見つけて腰掛ける。

料理が出来るまではもう暫くかかるだろうか。厨房から漂ういい匂いに、自然とお腹が空いてくるのを感じる。

(それにしてもあんなに必死に謝ること無いだろ。私ってそんなに怖いか…)

一人静かに佇んでいると、向こうで騒いでる男達の会話が聞こえてくる。

「おいジョシュア、一人で猪のを仕留めたってマジかよ⁉︎」

「あったりまえだろう? 俺様の手にかかればこんなもんよ」

「やっぱりジョシュアさんは凄いや。さすがギルドの冒険者だ!」

どうやら獲物自慢で盛り上がっているようだ。彼らのテーブルの上には骨がむき出しになった猪の死体が置かれ、周りの男たちに面白半分に剣や矢でつつかれている。

きっと昨晩狩って、自慢したいがために宿屋まで持ち帰ったのだろう。死体を室内に、それも食堂に持って来るなんてとんだマナー違反だ。

しかし誰も注意も文句も言わない。取り巻きが褒め称えるだけだ。

(くだらない…)

暫くするとアンナの前に料理が運ばれてきた。香ばしい湯気の立つ、非常に美味しそうなクリームシチューだ。添えられた麦パンもこんがり焼き立てで、食欲がどんどん湧き上がる。

「命に感謝を。大地に恵みを」

アンナは手を合わせると、木のスプーンを使ってシチューを口に運び入れた。

口中に広がる濃厚な香りに思わず吐息が漏れる。一口、また一口。シチューは次々と口に運ばれていく。

「どうですか? 美味しいですか?」

「ああ。最高だ」

思わず答えたが、彼女に連れなんていない。怪訝に思って横を見る。

いつの間にか隣には真っ白いローブを着た人物がゆったりと座っていた。

ローブは人物の全身をテントのように覆っていて体格すらよく分からない。さらに顔面までもが真っ白い頭巾で覆われているので、人物の体は一切見えないようになっていた。かろうじて人の形を成している純白の布の塊だ。

唯一白く無いものと言えば、背中に背負った黒い筒状の袋だけだった。長さと太さからして剣のような物が入っていると想像がつく。

「…お前は?」

その人影は身長が百六十九センチあるアンナよりもひと回りほど大きい。身長からして男のようだが、発する声は不思議と女性の声に聞こえなくもない。

「あの男たちが言っている、「冒険者」っていうのは何ですか?」

男にも女にも聞こえる不思議な声で人物は尋ねる。アンナの質問は完全に無視された。

彼女は少しイラッとしたが、不必要に揉めたくないので会話を続けてみることにした。

「冒険者ってのは、まぁ言ってしまえば「変異歹ハンター」ってところだ」

「へんいたい…?」

「動植物が突然変異した存在だ。肉が腐ったように溶けていて体の大半は骨格が剥き出しになってしまっているのが特徴的な化け物だよ。あのテーブルの猪もそうだ。

森や畑を荒らしたり、人や動物を襲うことも珍しくない。沢山の人が命を失っている。

そんな変異歹を討伐するため、五十年ぐらい前に組織されたのが「冒険者ギルド」で、そこで働いているのが「冒険者」だ」

アンナは食後のハーブティーを一口飲む。これがまた美味い。爽やかであり、同時に酸っぱさも感じる心地よい香りが全身に染み渡る。

「なるほど。お詳しいんですね」

「こんなの誰でも知ってるよ」

少なくともこの国では子供すら知っているような常識だった。

「ふむ。もしかしたらあなたも冒険者なのですか?」

ドンッ‼︎

テーブルを両手で叩きつけ、アンナはガッと立ち上がる。

「あんな奴らと一緒にするなっ‼︎」

思わず感情的に叫んでしまって食堂中の注目を浴びてしまった。彼女は気まずそうに顔を隠し、走って外に逃げていく。

その様子をマントの人物はただじっと見つめていた。

「あれがアンナ・ミロスフィード…。なるほど、確かに利用できそうだ。ふふふ…」

人物は怪しく笑い、瞬間、その姿が空間から消えた。

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