第63話『トラブル起きてまたトラブル』
「おい、忙しそうだから手伝ってやるよ」
そう言って現れたのは内川だった。
その笑みは歪んでいてロクでもないことを考えていそうである。
芽美たちと会話中であったが、一旦『失礼します』と伝え内川の元へ。
「こっち側は嫌だったんじゃないの?」
「あまりにも忙しそうだからさ、手を貸してやろうと思ってね」
「ふーん……」
とはいえ申し出自体はありがたい。
余裕をもって動いているつもりだけど、内心結構ギリギリな所もあるし。
そもそも及川に関しては接客自体が初の取り組みだろう。
予行練習では先行き不安だったというのに、今ではそれを感じさせない程に自然でいて、丁寧な動きを見せている。
そして彰の方も同じように接客業の経験がない。
だというのに速やかにテーブルの片付け、リンの元へカップや皿の補充、レジ打ち、待機客への声掛けなど隙のない動きを見せている。
というか俺や及川よりも動き回っている気がするな……。彰の能力の高さには恐れ入る。
そういうわけで表に出てくれるなら彰同様にサポートに回ってほしい所ではあるが……。
「なぁ、内川。申し出はありがたいんだけど、さ。……裏の仕事が、そもそも滞ってる気がするんだけど」
冷静に指摘をする。ジュースや紅茶葉の補充が遅れ提供に時間がかかってしまったり。
本来リンの元にカップや紙皿を補充するのは内川たちの役割なんだよね……。
結局調理系も全部リンがやってるし……。
村田と吉村の二人が一生懸命動き回っているのが視界に入る。
内川が抜けてさらに忙しそうだ。
「あんなのぼくのするようなことじゃないんでね」
おいおい……、じゃあお前は何をやるんだよ。
はぁ、と一度溜息を吐いて、冷静に話を進める。
「……そもそも裏方がいいって言ってたのは内川じゃないの?」
「う、うるさいな! そんなのは後でやればいいんだ! 今は店内をどうにかするんだよ!」
バツが悪そうに怒鳴る内川、さてどうしたものかと考えていると。
「恵斗、オレが裏に回るからよ。内川を表に出してやれよ」
「……彰、いいの?」
何かを察した表情を見せた後、サムズアップして彰は裏に回る、本当に気が利く良い奴だよ彰は。
……でも大丈夫かなぁ、不安は残る。
「じゃあ内川はさっきまでの彰の役回りやってもらっていい?」
「あぁ、Aクラスのぼくが出るんだ、任せておけ」
別にAクラスは関係ないけど……まぁ本人がやる気になってるからいっか。
「すみませーん! 白の執事様オーダーいいですか?」
「はい、お嬢様。ただいまお伺いします」
お客さんに呼ばれテーブルへと向かう。その際に彰から内川へと必要なことを申し送りしてもらった。
「リン、ガトーショコラをふたつ、アップルパイ、苺のショートケーキ、おすすめケーキををひとつずつだ」
「一気に来たね、まかせて!」
注文を迅速にリンへと伝える。
こっちはすぐさま受けたドリンクの準備をしなければならない。
「内川、ドリンクの用意だ。紅茶とアールグレイティー、それからオレンジジュースとアイスカフェオレをひとつずつ」
「わかったよ」
この辺りは先程まで裏で最初の方はやっていた為か問題なく行える。
用意が出来たところで、彼女たちの所へ持っていこうとした矢先。
「ぼくがやる、君はそこで見ておけ」
内川は強引に俺の手から奪い取るような勢いでトレーを手にした。
俺が何か言う間もなく、彼はドリンクを持って客席に向かっていってしまう。
『おいおい、大丈夫か……?』
表に出ることを嫌がっていた内川が、急に前に出たことで少し不安がよぎった。
そして彼の足取りがややぎこちない。目で追っていたその瞬間——。
「……っ!?」
内川がバランスを崩し、トレーが大きく傾いた。
ドリンクが危険な角度で揺れ、カップから液体がこぼれ始める。俺の体が反射的に動いた。
『間に合え――っ!』
一気に内川との距離を詰め、すばやく彼の横に滑り込む。
ちょうどドリンクが倒れかける瞬間、内川の手元にそっと手を添え、トレーのバランスを取り戻す。
流れるような動作で、こぼれそうになったグラスの傾きを直し、トレーを安定させた。
大惨事、とはならなかったものの。
被害自体は発生しており、トレーの中にはもちろん、お客さんのテーブルに一部、液体が掛かってしまった。
「内川、大丈夫だ。焦らなくていい」
彼を落ち着かせるように声をかけながら、こぼれたドリンクがテーブルの端まで広がる前に素早くタオルで拭き取る。
お客さんが驚いて声を上げる前に、すべての動きを終え静かに微笑んで一礼する。
「申し訳ございません、お嬢様方。すぐに新しいドリンクをお持ち致します」
お客さんたちはその一瞬の出来事に驚きつつも、俺の素早い対応に目を見張っていた。視界の端には及川さえも驚いた表情をしている。
一人の女性が、呆然としながら小さな声で言った。
「……すごい、何もかも一瞬で……」
隣の女性が、恍惚とした表情で俺を見つめていた。
「まるで、映画みたい……完璧……」
彼女の頬はうっすらと赤く染まり、その目は俺の姿に釘付けとなっている。
『トラブルを防ぐために必死だったけど……結果的には良い方向に転がったな』
ひとまず結果オーライとして、お客さんたちへ冷静に『お任せください』と一礼し、次の動作に移った。
新しいドリンクを用意し、今度は内川ではなく俺が慎重にお嬢様たちのテーブルに運んだ。
ひとつずつ丁寧にグラスを置きながら、目の前の女性客が息を飲んだように俺を見つめているのを感じる。
「すごいよ天使様。あんなに速く対応してくれて……」
「さすが天使様!」
彼女たちは、心底感謝したように微笑んでくれた。
俺もそれに応じて、柔らかく微笑み返しながら一礼する。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。間も無くケーキをお持ち致しますのでごゆっくりとお楽しみくださいね」
その瞬間、先程恍惚とした表情を浮かべていたお客さんが恥ずかしそうに笑いながら、俺をじっと見つめて言った。
「あの動きすごかった……天使様ってこういうことも完璧にできるんだね……好き」
彼女の最後の告白に返事をするわけにもいかず、俺は控えめに微笑みを浮かべ再び一礼してからその場を後にした。
去った後も黄色い歓声は止まらず。
なんだか逆にこっちが気恥ずかしくなってしまった。
しかし今日の俺は執事、お嬢様というお客さんを相手に恥ずかしがることは許されず、冷静に表情を変えず戻っていく。
その先に内川が悔しそうに表情を歪ませている。
結果的にはこうなってしまったが、別に内川を負かしてやろうとかそういった気持ちは一切なかったので、冷静にフォローする言葉を伝える。
「内川、さっきのは初めてお客さんに運ぼうとしたから緊張しただけだって、大丈夫、落ち着いてやれば今度は失敗しないからさ、頑張ろう?」
「……クソっ、ぼくはあそこのテーブルを片付けてくる」
……行ってしまった。
とはいえ、こっちも肩を落としている暇はない。
残りのオーダーを処理する為俺も動き回る――。
「……あ、そろそろ芽美たちの紅茶がなくなるな」
芽美たちがテーブルへと歩み寄る。
「お嬢様方、紅茶のお変わりは如何ですか?」
「兄さん、お願いします!」
「私も頂いていいですか?」
「もちろんですよ、今ご用意いたしますね」
二人から承諾を受けたのでティーポットを取りに向かう。
この執事喫茶のルールで飲み物のお代わり1杯は無料になっている。
なんでも海外のイギリスあたりの文化を意識しているらしいリンが言っていた。ちなみに喫茶HeaLingでも同じシステムである。
「ぼくが注いでくる!」
俺がティーポットを手にしようとしたその時、内川が勢いよく前に出てきた。
「え、おい内川?」
声を掛ける間も無くティーポットを持って行ってしまった。
そしてティーポットを持ってきたのが俺ではなく内川なのを見て、芽美は不満そうな表情になる。
俺は芽美へ向けて両手を合わせ『ごめんね』といったポーズをとると『しょうがないですね兄さん!』といった表情へ変わった。
「お前たちは言葉も交わさず意思疎通できるのか」
「え、兄妹ならこれくらい普通でしょ?」
「そうか……普通か」
何故だか及川が一度表情に影を落としたが、それも一瞬でリンからオーダーしたケーキを受け取り別のお客さんの元へと向かっていった。
及川は気になるがそれよりも内川だ。
さっきのこともあるし……大丈夫だろうかとその後姿を見守る。
その姿は、先程同様明らかに緊張しているのが隠せていなかった。
そもそもこの世界の男性として、多数の女性を相手にすること自体をやったことがないであろう、彼の手元はわずかに震えている。
――文化祭前に練習を積んだ及川でさえ最初は動きが硬かったのだ。
予行練習もなく始めた内川が上手くいくとは思えない。
『内川、焦らなくていいからな……』
心の中でエールを送る。
しかし、やはりそう都合よくいかない。
芽美のカップに紅茶を注いだ時は、ぎこちない動作ながらもなんとかこなしていたのだが――。
次に栞ちゃんのカップに注ごうとした瞬間、内川の手が不安定になる。
ティーポットが急に傾き、紅茶が勢いよく溢れ出した。
「……きゃっ」
そのまま紅茶が栞ちゃんの服にかかってしまった。彼女が驚いて声を上げたその瞬間、内川は完全に動揺し顔が真っ青に。
「や、やば……!」
彼は焦り、何をすべきかわからずその場で固まってしまった。
それを見て俺は一瞬も躊躇せず、すぐに行動に移る。
「失礼いたします、お嬢様」
すばやくハンカチを取り出し、栞ちゃんの洋服にかかった紅茶をさっと拭き取った。
決してセクハラにならないように手元を確認しながら、冷静に、かつ素早く動作を進めた。
「大丈夫ですか? ご迷惑をおかけしました」
あくまで執事らしい落ち着いた態度を保ちながら、丁寧に紅茶を拭き取る。最後に膝元にも液体が残っていたのでさっと拭き取る。
全ての動作を終えると、彼女は恥ずかしそうに俯き少し頬を赤らめていた。
『そりゃ男にいきなり服越しとはいえ、身体を拭かれたら照れるよなぁ……』
とはいえ今のは即行動すべきであったと、自身の判断に悔いはない。
前の世界ならセクハラで即逮捕になると思うので、ここは世界が違っていて良かったとホッとはしたけども。
「お洋服など、染みになっていないでしょうか?」
「だ、大丈夫です……、今日は暗めの洋服にしたから……」
たしかに彼女の洋服は紺と黒をベースにした組み合わせであり、色があまり目立っていない。
ひとまず、弁償事にならずホッと一息を吐くと――芽美がジト目でカップを持っていた。
なにをしようとしているかは想像が付く。
彼女がカップを傾けようとするのを――瞬時に止めた。
「お嬢様、悪戯が過ぎますよ」
にっこり、と窘めるような形で芽美に伝える。
「むぅ、芽美も兄さんに身体拭いてほしいです」
何言ってんだこの妹。
お兄ちゃん芽美が変なことを言って悲しいよ……。
「お嬢様、このような場でお願いするようなことではありませんよ」
「え、じゃあ今日のお風呂上りなら、いつもみたいに身体拭いてもらえるように頼んでもいいんですか!?」
『ブーっ!?』
店内中のお客さん、近くで場を見守っていた内川が噴き出す。
やってくれたねぇ……芽美?
「お嬢様、少し言葉が違っていますよ。幼い頃!――昔はやっていたと言ってくださいね」
まだあれは小さかった頃、この世界の常識とかそういうのが全くわかっていない頃。
風呂上がりでも構わず芽美が『にいさーん!』と裸で抱き着いてくるもんだから『はいはい』といった感じでタオルで拭いてあげたのだ。
それが嬉しかったのか大きくなるまで『んっ!』と風呂上りは手をバンザイさせて待機するようになった。
今でもたまに要求する時があるのは勘弁してほしい。
もう今の芽美相手にはお兄ちゃん色々と制御が厳しいんだよ。
なお、このやりとりを見て姉と母が同じことを要求するのは当然っちゃ当然だった。
『あっ……前はやってたんだ……』
『王子様とお風呂……羨ましいっ』
お客さんたちがこそこそと何かを言っているが今は聞こえないふりをしておこう。
「えへへ、間違えちゃいましたっ」
この妹確信犯である。
こういう所が姉さんそっくりなんだよ。
お兄ちゃん、芽美が悪い子に育って悲しいよ。
「じゃあ今夜は昔みたいに芽美の身体拭いてくださいね!」
「なりません、もう貴方は立派なレディですから」
「え、立派なレディ!? じゃあ兄さんと結婚できますか!?」
「もうやだこの妹」
うっとりと手を組んで目を輝かす芽美に泣いた。
何を言っても都合が良いように返ってくる、姉さん味が増してるよ……。
「と、とにかくお嬢様。ここでは少し戯れをお控え頂きますようにお願い致します」
「むぅ……芽美は諦めませんから」
「人間、時には諦めも大事ですよ」
はい、このお話終わりとするように。一度手を叩く。
芽美も諦めて『はーい』と返事を返してくれた。
お兄ちゃん、妹が諦めてくれてとても嬉しいよ。
はぁ……。
――
芽美は恵斗が新しく用意した紅茶を堪能していると、ふと前に座る栞の様子がおかしいことに気付いた。
「栞ちゃん? 顔赤いですけど大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……」
栞は恥ずかしがりながらも小さな声で返事を返す。
そしてその視線の先には――。
「ふふっ、なるほど」
視線を追った先には、芽美の大好きな兄の姿があった。彼は忙しなく今も動き続けている。
栞の様子を見る限りそういうことなんだろう。
普通であれば大好きな兄に対して、そういう感情を向けられると嫌な気分になるのかもしれないが、これまで幾多の女性が恵斗に恋したか、何度その場面を見てきたか数えきれないのである。
そのため芽美の脳内では『またか……』となることが多い。
「一緒に来年、城神高校に通いましょうね」
「芽美ちゃん……うん」
二人で頷き、想いをひとつにする。
そこでふと、芽美は気になっていたことを思い出した。
「栞ちゃん、なんでさっき兄さんに自己紹介するの嫌がったんですか?」
「あ、それは……」
ちらっ、と今度は恵斗とは違う男性――及川の姿を視界に入れる。
今度は先程のように恋する表情ではなく、不安そうな眼差しで。
「……お兄さんには内緒にしてね」
「……? 栞ちゃんが言うなら……」
顔を寄せ、声を潜めながら唇をかすかに動かす。
その内容に芽美がとてつもなく驚き恵斗に心配されるのはまた別の話――。
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