散文でおさらいする教科書仏教

@kBnr

仏教



仏教は6世紀後半に中国や朝鮮から入ってきて以来、日本文化の基盤となってきた。古来より日本の朝廷はこの海外思想を政治的に−−いわば矛や盾としてその権威を守り固め、日本全国を支配するために−−利用してきた。だがしかし果たして、ただ権力のためだけに現代の小国の国家予算にも匹敵するほどの莫大な金額をつぎ込めるものであろうか。そう信じ込むには仏教は余りにも複雑で、宗教として、そして一つの思想体系として、完成され過ぎていることは、誰の目にも明らかであり、他のそれとは一線を画す。元々、古代の日本には宗教というものは無く、あったとしても土着の神を信仰するだけの原始的なものに過ぎなかった。つまりその時代を生きた彼らには物事を思索するに堪えるだけの知識が欠落していたことになる。当然のことだが科学知識などは望むべくもない。

そのように、文明的に不毛な地にも、当然ながらそれを受容するに足る頭脳の持ち主はいた。聖徳太子がそのいい例であろう。彼は天皇の息子という高貴な身分に生まれでありながら、若年の為、皇位を継げず、生涯推古天皇摂政として、優れた政策を打ち立て、後の世の法案の雛形となる位階制や憲法を作り上げる。当然ながら、これらは中国の模倣なのであるが。しかし、外国の法を自国に合うように調整したというのは並の功績とは言えまい。

彼らにとって仏教という当時最先端の科学は妙齢の美女の様に魅力的であったはずで、男が女を求めるような執心さでそれを求めた。このとき、初めて我が国に科学(今日の我々から見れば滑稽ではあるが)がもたらされた。この時代の人々の仏教に対するこのような執着は、同時期に行われた遣隋使し及び遣唐使の随行人に学問僧という区分が設置されていたことからも察せられる。

この遣唐使が八九四年菅原道真の建議によって停止され、日本独自の文化を交流しようとする風潮が高まると、唐土や天竺との交流を絶たれ、風通しの悪くなった日本仏教は途端に膿んでいった。末法思想が貴族の間で広まり、彼らが莫大な資金を投資して、寺院を建立し、大量の仏像を寄進するようになったためである。そこに十世紀以前までの純粋な思想性は無い。仏教は、その重厚な学問としての性格を彼方に置き去り、中身の無い俗悪なただの宗教だけが残ったのである。

しかしこれも当然のことではあるが、仏教が腐敗したのはこれが初めてのことではない。古くは奈良末・平安初期の奈良まで遡る。所謂南都六宗と言われたそれらは、奈良時代にあって朝廷に接近し、遂には皇位を簒奪しようかというと頃まで行く。これら奈良仏教を嫌った桓武天皇によって、都を京に遷されたのが平安時代の始まりである。

なにより、奈良の仏教は経よりも論を重んじる

性格が強く、それに反発をしたのがかの有名な最澄である。旧仏教に対し反感を抱いていた彼は、同じくそれらを敵視していた桓武の寵愛を受け、当時の中国・唐に渡った。

同じくこの時代に唐に渡った僧に後々に真言宗を興す空海がいる。この空海も、旧仏教に疑問を感じ、新しい教えを唐に求めた人であるが、旧仏教に対し多分に寛容であった彼と違い、最澄はこれに真っ向から対立した。そういった姿勢が災い

したのか、最澄の後の人生は苦難が多くついに

自らの教えを大成させるという志を遂げることなくこの世を去ることとなる。その一方で、真言宗を興した空海は、先も述べたように旧仏教と友好的な関係を保ち、自身の教えを悠々と広めることができた。彼の教えの中に鎮護国家というものがある。これはつまり、仏教の力を以て国を助けしめということらしい。この教えの為に彼は当時の嵯峨天皇に取り入り自分の教えを盤石なものにすることができた。

これまでも述べたように宗教は権力と結びつくと腐敗する。これは真言宗も例外ではなく、そのせいで真言宗は後の世におけるおける影響力を失う。平安以降に影響力を持つのは天台宗である。鎌倉時代に入ると比叡山延暦寺から別れた鎌倉仏教(浄土、真、時、曹洞、臨済、日蓮)が盛んになる。この中で最も強い影響力を持ったのが曹洞宗と臨済宗の、いわゆる禅宗二派である。(正確には鎌倉時代に日蓮宗が力を持った時期もあったが、極めて短い)禅宗は、幕府と結びつき、五山の制という鎌倉京都の寺院の格付けを行った。ここに乗っている寺院の殆どが、足利将軍家縁があることからも。その程伺える更には後の日本画の祖とも言える、大和絵や頂相、水墨画も興した。喫茶の習慣も禅宗が起源とされ、一般的に日本人のイメージとして語られる侘び寂びもこの頃に始まる。


戦国時代には、石山本願寺や延暦寺の僧兵が織田信長と激しく戦ったこの頃の延暦寺は、法も経も無く、僧とは名ばかりの荒くれ男が好き勝手に女を連れ込むという有様だったという。 

果たして僧兵は織田に敗れ織田も豊臣に政権を奪われ時代は下り、徳川家康が天下を平定した江戸時代にあっても仏教は相変わらず重用されたが、この時代は江戸や大坂を中心とした町人文化が主流となったため、仏教の影響力は著しく低下した。

更に明治時代になると、廃仏毀釈が横行し、政府が日本古来の神道を推し進めたため、仏教は一気に衰退の一途をたどることになる。ここに、古代から近代に至るまで、日本人の精神の根幹を成し、日本 文化の基盤であり続けた仏教は、終焉を迎えたのである。




◎当文章はカクヨムと併せて、ハーメルン及びYahoo知恵袋にも掲載しております。

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