昭和の時代の保育園児

沢田和早

避難訓練は大惨事

 わしは三人兄弟だ。

 二才上の姉と二才下の妹がいる。

 姉は幼稚園に通っていたのでわしも幼稚園に行けると思っていたのだが、通わされたのは保育園であった。


「母ちゃん、なんでボクは幼稚園じゃないの」

「働きに行くんだからしょうがないだろ」

「なんで働きに行くの」

「父さんがいないんだからしょうがないだろ」


 というわけである。いないからと言って死んだわけではない。生きているが家にいないのである。父親のくせに無責任なことはなはだしい。


「誰かに父ちゃんのことを訊かれたら何て答えればいいの」

「蒸発したと言っときなさい」


 それからは人に訊かれるたびに、

「ボクの父ちゃんは蒸発した」

 と言って暮らした。


 ちなみに行方不明の父が見つかったのはわしが小学二年の時である。

 見つかってすぐ死んだので、わしの記憶の中では田んぼに立つカカシ程度の存在感しかない。なんとも哀れな父親である。


 保育園と言えば保育士である。わしらの頃は保母と呼んでいた。その名称が示す通り女性である。


「うわー、キレイ!」


 わしを受け持ってくれる保母さんの第一印象である。

 その頃、親しくしてくれる大人の女性と言えば、母、叔母、祖母、友達の母、近所の人、ぐらいしかいなかった。要するにおばさん(一部おばあさん)と呼ぶに相応しい方々である。

 しかしわしを受け持ってくれる保母さんは「お姉さん」という名称がぴったりな女性であった。

 そんな年頃の女性と仲良くなれる機会など長い人生の中でもそうそう巡ってくるものではないので、もっと大事にしておくべきだったと今になって臍を噛んでいる。


「初恋の相手は保育園の先生」


 というお決まりの設定がある。わしの場合もそれに当てはまっている。しかし容姿だけでお姉さん先生に惚れたわけではない。


 あれはある日のおやつの時間だった。

 その日のメニューは昆布あられだ。塩あられ、醤油あられ、昆布の三種類が楽しめるちょっと贅沢なあられである。

 わしは昆布が嫌いだった。舌に残る苦味が苦手なのだ。

 各自の皿にはランダムに袋の中身が投入されていく。昆布は一袋に五個くらいしか入っていないので、わしの皿に投入されることはないだろうと思っていたら投入されてしまった。


「うわ、昆布ぅ~」


 図らずも不満が言葉に出てしまった。するとそれを聞いたお姉さん先生は無言でわしの皿から昆布をつまみ上げ隣の園児の皿に投入した。もちろん代わりに隣の皿から塩あられをつまみ上げ、わしの皿に投入してくれたことは言うまでもない。


(交換してくれたんだ)


 心の中で感謝した。別に昆布が嫌いだとも食いたくないとも言っていないのに、わしの気持ちを察して取り換えてくれたのだ。


(どうしよう、惚れちゃった!)


 情けないほどちょろい園児である。

 だが人に惚れる切っ掛けというものは、このように単純な出来事によるものが多いのではなかろうか。コンビニの店員さんがいつも笑顔で話しかけてくれるので惚れてしまうのと似たようなものである。

 ちなみに隣の園児は昆布が好きだったようで「うおー!」と言いながら食っていた。円満に解決して何よりである。


 保育園にはお姉さん先生のような保母さんばかりがいたわけではない。怖い保母さんもいた。園長先生である。叱られた思い出しかない。


 たとえば自由時間終了のチャイムを無視して砂場で遊び続けていると、

「さっさと部屋に戻りなさい!」

 と叱られる。


 お遊戯をする運動場にスコップで穴を掘っていると、

「穴堀り遊びは砂場でしなさい!」

 と叱られる。


 ブランコで遊んでいたら尿意を催してしまったけどトイレへ行くのが面倒。そこで隅っこの草むらで立ち小便をしていると、

「オシッコはトイレでしなさい!」

 と叱られる。


 まあ叱られて当然のことをしているので叱られて当然なのだが、怒った顔と声が鬼のようにおっかないのだ。それだけにいっそうお姉さん先生の優しさが身に染みるわけである。


 さてそんな飴と鞭の日々を送っていたある日、避難訓練をすることになった。


「揺れたらすぐ机の下に身を隠しましょう。揺れが収まってきたら机の下から出て、右手で左腕をつかみ、慌てず順番に外へ出ましょう」


 この程度の行動ならば保育園児でも容易に実行可能である。

 右手で左腕をつかむのは前の子を押さないようにであるが、最近は右手で鼻を押さえるのが主流のようだ。時代が変われば避難の方法も変わるようである。


「訓練には園長先生も参加します。外から窓を揺らしますからそれを合図にして避難を始めましょうね」


 今は建て替えられて立派になっているが、わしが通っていた頃はかなり老朽化が進んだ木造の園舎だった。窓はサッシではなく木枠で、強風が吹くとガタガタと音を立てた。そのボロさを訓練に生かそうというわけである。臨場感あふれる演出と言えよう。


「まだかな、まだかな」


 そわそわしながら窓がガタガタするのを待っていると、いきなり室内に大音響が轟いた。


 ――グワッシャ、グワッシャ、グシャグシャグシャ!


 ガタガタなどという生易しい音ではない。窓の外には園長先生の顔が見えているので揺らしているのは間違いないようだが、ひとりの力でこんな音が出るものかと室内の園児全員が疑問に感じるほどの迫力である。


「ゆ、揺れてるー!」


 誰かがそう叫んだ。本当だ。揺れている。本物の地震が来たんだ。ヤバい、ヤバすぎる。


「きゃああー!」


 たちまちのうちに園児たちはパニックに陥った。日頃は沈着冷静なわしでさえオシッコを漏らしそうになったほどである。それはそうだ。訓練だと思っていたのに本当の地震がやって来たのだから。


「皆さん、落ち着いて。まずは机の下に隠れて!」


 お姉さん先生は必死になってみんなを落ち着かせようとするが、誰ひとり聞く耳持たない。完全なる烏合の衆に成り果てている。


「壊れる、この建物壊れるぞ!」


 また誰かが叫んだ。園舎は相当ボロいので正しい判断だと言える。


「助けて、助けてー!」


 押し潰される恐怖に駆られた園児たちは全員が扉に殺到した。右手で左腕をつかんでいる園児などひとりもいない。押し合いし合い状態である。


「皆さん、落ち着いて。押さないで、席に戻って」


 扉は開かない。お姉さん先生が立ち塞がって園児を押し戻そうとしているからだ。しかしいかに大人と言っても集団で押し寄せる園児に勝てるはずがない。


 ――ガシャン!


 扉のガラスが割れる音がした。お姉さん先生が座り込んでいる。さっきまで聞こえていた窓ガラスの音は止み、室内の揺れも収まった。


「血……」


 誰かの声が聞こえた。外から園長先生が飛び込んで来た。


「避難訓練は終わりです。皆さん、席に戻りなさい。大丈夫? 早く保健室へ」


 お姉さん先生は外へ出て行った。わしらは塩をかけられた菜っ葉みたいにシュンとなって席に戻った。扉のガラスが割れてお姉さん先生がケガをしたんだ。わしらのせいだ。わしらが言う事を聞かず、無理やり外へ出ようとしたから先生がケガをしたんだ、誰もがそう思ったに違いない。


 この出来事は数ある避難訓練の思い出の中で最悪の黒歴史としてわしの脳裏に刻まれている。


「ケガをさせてしまったのは悪かったけど、本当に地震が来たんだからしょうがない」


 しばらくは自分にそう言い聞かせていた。しかし小学校高学年になった頃から「本当に地震が来たのだろうか」と思うようになった。

 そもそも避難訓練に合わせて地震が来るなどという偶然が起きるだろうか。それに本当に揺れていたのなら出口に殺到することなどできるはずがない。その場にうずくまるのが関の山だ。

 つまり、

「窓ガラスの音があまりにも大きかったので揺れていると錯覚した」

 と考えるのが一番理に適っている。

 誰かが「揺れてる」と言ったのも錯覚を助長した要因のひとつだろう。


「そう、それが本当なんだろうけど、でもなあ」


 頭では理解できる。しかしあの時は確かに揺れていたという記憶もやはり残っているのだ。

 わしのモヤモヤはなかなか消えなかった。心の整理がついたのは中学生になってからだ。さすがにその頃には冷静に当時を振り返れるようになっていた。

 今ではもちろん「アホな園児だったなあ」という見解で落ち着いている。


 幼児の認識力というものはこのように極めていい加減なものである。今のわしは幼児が語る言葉は全て話半分に聞いておいて鵜呑みにしないことにしている。

 ちなみに話の中ではお姉さん先生がケガをしたことになっているが、その記憶もちょっとあやふやである。

 わしは集団の後ろにいたので扉のガラスが割れた現場を見ていないのだ。あるいは強引に突っ込んだ園児がケガをして、お姉さん先生はその子を連れて保健室に行っただけなのかもしれない。

 まあそんなわけでこのエッセイも話半分に読んでもらえれば幸いである。



 本日の川柳

 震災忌揺れているのは我が心

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