第59話 聖女様は、ふたたび笑う
数時間経つと、明澄の表情はいつもの柔らかいものに戻っていた。安心したのか、今は庵が淹れた紅茶でほっとひと息をついている。
あれからも彼女はまだ話していないことを伝えてくれた。明澄の両親が訪ねてきていたのは、賃貸の契約更新にその名義変更と、事務的なものだったこと。
明澄が突然不安になってしまったのは、三日間のうち澪璃と過ごした二日間と両親との一日、また庵との時間を比べてしまったから。
悩みや不安など問題を全て出し切った訳では無いだろうが、そうやって一つ一つ明澄は庵に話していた。
「もう日付が変わってしまいましたね」
「それだけ溜め込んでたものがあるってことなんじゃねぇの」
「そうでしょうか……」
「だから時間なんて気にしなくていいよ」
「そう言われるとずっと居ついてしまいそうです」
隣に座る明澄は眉を下げて困ったように笑っている。
庵からしたらいくらでも居ていいというか居て欲しいのだが、一方通行な想いだったら悲しいし欲望が過ぎるだろう。
自分の気持ちに気付いてしまったら、今までになかった欲求や妄想が庵の内側から湧き出していた。
でもそれは彼女を傷付けかねないし、裏切りになる。ここで庵が裏切るような行為をしてしまったら、明澄はもう誰に対しても永遠に心を閉ざしてしまうに違いない。
距離が近づいたとはいえ、踏み込み方や接し方を間違えたら終わってしまう。
そんな怖さや危うさを感じはするけれど、やっぱり愛おしいと思うのが明澄に対する庵の気持ちの大部分を占めていた。
「あ、今度は庵くんのお話を聞きたいです」
「俺の話?」
「そうです。庵くんだって抱えていることがあるでしょう?」
「まぁ、うん……そうだな」
顔を上げた明澄は遠慮をしながらも、庵の様子を伺うように尋ねてくる。自分が助けてもらったから次は私が、という意味なのかもしれない。
数時間前までは泣いていた彼女がこうして心配したり支えようとしてくれるのだから、本当に心の優しい女の子なのだろう。
また抱きしめたくなったけれど庵は自重しておく。
想いを伝えるには明澄の気持ちもあるし自分の問題もある。
そして今それを解消できる一歩を踏み出せそうだから、彼はありがたく彼女の思いやりを受け取ことにした。
「でしたら、良ければ話してください。無理にとは言いませんけど」
「いや、話すよ。明澄も話してくれたんだから、俺も話す。でも、今日は遅いしな、必ず春休み中には機会を設けるよ。でも、折角そう言ってくれたし、明澄に一つだけ聞いてもらおうかな」
「なんでしょう?」
「俺さ、零七に会おうと思ってる。先日のこともあるけど、前に進もうかなって」
「ええ、凄くいいと思います」
これまで明澄を支えてきたであろう零七には会っておきたかった。
でも、まだ会うのにどこか躊躇いがあるのも事実だ。
だったら彼女と会うよりも先に自分があまり人と会いたくない理由を明澄に話しておいたほうが、退路も断てるはずだろう、と庵は考えた。
とはいえ、時間は気にしなくてもいいとは言ったけれど、今から話し出すと朝までかかりそうな気がする。
庵は零七に会う、と一言だけその決意を明澄に伝えるに留めておいた。
「明澄には零七に会う前に色々と話すからその時にまた聞いてほしい」
「はい。お待ちしてます」
向き直って微笑みかけてくる明澄に、庵は目線を逸らしそうになった。
こんなことで昂っていては先が思いやられるな、と庵は自分に呆れる。
「零七も驚くでしょうね」
「だなぁ。かんきつがこんな普通の人間とは思わんだろ」
「違います」
「どういうことだ?」
「い、庵くんがかっこいいひとだということに、です……」
「……そうか。ありがとう」
「い、いえ、ほんとのことなので……」
明澄は視線を泳がせながらも、そうやって堂々と庵を褒める。
今までならきっと謙遜というか否定しただろうけれど、顔を赤らめながらも庵は受け入れた。
想い人に言われた言葉だから否定はしたくない。
明澄のことを好きだと自覚しただけなのに、こんなに変わるなんて不思議な気分だった。
「私の個人的な感想なんですけどね、庵くんは怖がっているんだと思います。私も一緒でしたから」
「そうかもしれないな」
「庵くんには安心して欲しいんです。だから、庵くんが頑張れるように私がサポートします。さっきの恩返しをさせて下さい」
「ん、大丈夫。その言葉だけで安心出来るよ」
怖がっているという指摘はとても正確で、明澄が見抜けたのは彼女も同じ思いをしていたからかもしれない。
明澄は何かの決意を固めたように見つめてくる。
こうやって正面切って言葉にするには勇気がいるし恥ずかしさもある。もちろん受け取る方も気恥しい。
二人とも照れてしまって黙りこくるが、気まずさやぎこちなさはなかった。
寧ろ心地良いというか安心出来る、というのはこういうことを言うのだろう。
「本当にですか? 無理とかしてません?」
「してない。今更、無理なんてしないって」
「まあ、ここまできて無理をされていたら、ちょっとショックですし」
心配しすぎましたね、と明澄は苦笑して何故か庵の頭を撫ではじめる。
先日、画面越しにしてくれた時よりも頭も心もくすぐったくなった。
「なに、やってるんだよ……」
「前は撫でてあげられなかったじゃないですか」
「男を撫でるってのはなぁ」
「いいじゃないですか。そ、それに庵くんは胸を貸してくれるんですから、等価交換かは分かりませんけど少しくらいは、ね?」
「まぁ、いいけど」
庵の髪を整えるように明澄は優しくその手を伸ばして撫でつつ、彼の胸元に反対の手をやる。
彼女なりのお返しらしいが、好意を寄せる女の子にされるのは理性が保てるか怪しい。
自分が明澄にさらに惹かれていくのを感じる。
もっと、見ていたい。もっと撫でられていたい。
この時間がずっと続けばいいのに。
漫画やアニメでしか知らなかった感情を得るなんて、想像すらしたことがなかった。庵は恋愛感情というものをようやく理解できた気がする。
これは危険だ。どんどんと沼にハマって行くような感覚で、やっぱり自分の感情を優先しそうになる。
庵はかき消すように今度は明澄を撫で返した。
「わ、私がまだしている途中だったのに……」
「明澄さぁ、等価交換とか言いつつ、堪能してるだろ?」
「……」
庵が撫で返すと明澄は俯いて手をそっと下げると、名残惜しそうに呟く。
そんな明澄に庵はまさか、と思って尋ねてみたら図星だったらしい。
「おい、目を逸らすな」
「だ、だって庵くんがそんなにサラサラな髪をしてたり可愛いからいけないんです」
不自然に目線を逸らした彼女にじっと目を細めたら明澄は開き直って言い訳を口にする。
揶揄うチャンスだと思ったのに、明澄の言い訳があまりにも可愛らしかったことや堂々と可愛いなんて言われて逆に庵の方が恥ずかしくなってしまった。
俯いているのはどっちなんだろうか。もう視線は明澄の首より下にある。
「かっこいいとか可愛いとか俺はどっちなんだよ」
「どっちもです……も、もう帰りますね!」
「また、寝落ちするかもしれんしな」
「うるさいです」
言って明澄は照れくさくなったのか、庵の手から逃れて立ち上がる。
庵がここぞとばかりにつつくと、ぷいっとそっぽを向いた明澄がやっぱり可愛らしくて仕方なかった。
そうして離れてしまった明澄に対して、黙って撫でておけば良かったかなとも後悔する。
でもこのままだとずっと談笑を続けそうで良くないことは分かってもいたから、それは胸の内に閉まっておいた。
「庵くん、今日はありがとうございました」
「おう」
「じゃあ、明日からは春休み、楽しみましょうね」
今日まで楽しめなかった分も、と付け加えた彼女は、さっと髪を整えてから小さく手を振る。
最後に明澄は凛とした聖女様と例えられる笑顔ではなく、この部屋でだけ見せてくれるいつもの可愛らしい表情で、ふたたび笑っていた。
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