生贄少女とモフモフ狼
永島 ひろあき
第1話 生贄少女
大陸と海で隔てられた島国のちっぽけな村が、死に瀕していた。あるいは滅びに、と言い換えてもいい。
領主に理不尽な税を課せられたわけではない。跋扈する妖魔や魑魅魍魎に襲われて、何の抵抗もできぬまま死人で溢れたわけではない。戦禍に見舞われ田畑が荒れ、働き手を奪われたわけでもない。兵隊崩れの悪党どもに子供や年寄、男達が残らず殺され、女達が蹂躙されたわけでもない。
ただ、渇いていた。
天空の高みから俯瞰した時、灰色と茶褐色ばかりが広がる大地に、目に見えぬ巨人がなにがしかの意図を持って、あるいは気まぐれに任せて指でなぞったように見える溝は、一切の水気を失ってどんなにおぞましい皮膚病に見舞われた者の肌よりも、ひどく荒れ果てた川の跡だ。
時折見受けられる乾いた地面以外のものと言えば、皮も肉も内臓も、骨の中の髄さえも啜られて無残に砕けた獣の骨や、砂と埃に塗れた岩石ばかり。
木と藁と土壁で出来た家屋が何棟か、そんな無惨な大地にぽつんと、黄色い砂をたっぷりと含んだ風に打たれ、いまにも傾いで倒壊してしまいそうな様子で建っていた。
集落の中央に設けられた井戸や近くの小川に沼は干上がり、米は勿論、穀物もほとんど取る事が出来ず、村人の全員が飢えに襲われていた。
月に愛された国と謳われた神夜の国、苗場村(なえばむら)である。
田を耕す牛馬さえも村人の口に乗り、飢餓は人間ばかりでなく空を飛ぶ鳥の類にも及んで、時折青空にぽつんと浮かぶ黒い点の様な彼らも、獲物を見つける事が叶わずやせ細って体全体から肉が落ち、かろうじて力強さを保って羽ばたいている羽の艶も、すっかり色褪せている。
なけなしの金をはたいて、近隣の神社や流れの修験者、祈祷師の類に雨乞いを乞うても、天から降りそそぐ筈の慈愛は、いっかな乾いた大地を潤す事はなく、からりと晴れ渡った空が、残酷なまでに美しく続いていた。
今日も村のあらゆる場所を、乾ききった砂を孕んだ風が吹き抜けては口の中や、目、髪に塗す様に茶色の化粧を無理やりに施してくる。
じりじりと村人たちを焼き殺さんとばかりに照りつける太陽へ、悪罵を浴びせる体力や気力は人々から失われて久しく、今では家の中に引き篭もるか蜘蛛の糸の様に頼りない希望を込めて井戸の底を掘っている。
砂交じりの風と遮るもののない陽光に焼かれ、焦がされているような村の百姓家の中でひときわ大きな村長の家で、いずれも痩せこけた大人達が顔を突き合わせ、何事か囁き合っていた。麻や藤の小袖は粗末で、裾や襟はほつれ、振り乱した鬼女の髪を思わせる有様である。
ぜいぜいと、肺の中の空気を全て吐き出してしまうような容赦ない日差しが、大地を舐めるほどに貧しい暮らしを長い事を強要すれば、鉛の様な疲れが体の内側や外側のみならず、心にまでこびり付くのも仕方のない事だろう。
ここ数年の日照りは激しさを増す一方で、口に入れられる物は木の根や皮まで食べ尽くし、村中からかき集めた金銭で、他所から食べ物を買って、餓死するのをかろうじて免れるのも、限界が見えはじめている。
車座に座った村人たちの中で、鶴の様にやせ細り皮と骨ばかりと見える老人が、ぼそぼそと隙間だらけの歯の間から、そよ風よりも弱々しい声を出した。耳を凝らしても到底聞きとれぬような声だが、聞き逃す者は一人もいない。
「お山の大狼(たいろう)様のお怒り、じゃろうのぅ」
地図からも人々の記憶からも消え去ってしまう寸前の、この苗場村から北に三里ほど行った所に、緑豊かな山脈が広がっている。苗場村をはじめ近隣の村々を襲う干ばつの中にあって、神の気まぐれのように例外の存在として青々と木々が生い茂っている場所だ。
お山とは、土地の者達から妖哭山(ようこくざん)と呼ばれている山の事だ。地上から青い天空まで一直線に貫く針のような山の周りを、険しい斜面をもつ岸壁の様な山が囲む奇妙な形をしている。熊、狼、虎、大蛇をはじめとした獣のみならず無数の妖魔がひしめいており、人間が滅多に足を踏み込む事はない。
生息する生き物の凶悪さもさることながら、土地自体が一種の悪意を持った生命体であるかのように、足を踏み入れた者の方向感覚を狂わせて終わらぬ堂々巡りに陥る事も多い。
妖哭山にのみ自生する特殊な植物や鉱物も多く、それらは高値で取引されるのだが、妖哭山のあまりの危険性ゆえに、歯噛みし、指を咥える者がほとんどだ。
大狼とは、その妖哭山の主とされる狼の事だ。
大狼が何時からその山に巣食っていたのかはよく分かっていない。近隣の村々の年寄り連中が、よちよち歩きの頃には既に居たと言われ、少なくとも齢百歳を越し、その凄惨無比の所業からもおよそ尋常な生物ではなく妖魔であると言われていた。
これまでの百年近い間に、近隣の村や町で大狼の噂を聞きつけた何人もの旅の武芸者や祈祷師が妖哭山に挑み、その数だけ山の緑の連なりの中に消えてゆき、夜の静寂を打ち破る大狼の遠吠えを聞いては、村人たちは大狼への恐怖を増してきた。
武芸者達や祈祷師、呪術師達が山へと挑む度に聞こえてくる遠吠えは災いの前触れを告げる大狼の嘲笑でもあった。
耳を塞いでも頭の中まで響く遠吠えが聞こえた夜からほんの数日の間に天候は荒れはじめ、ひどい冷害や干ばつ、地震が周辺の村々を襲って人々に災いをもたらし、人々はこれを大狼の祟りと囁き、震え上がってきたのだ。
それが、妖哭山の近隣に存在する村々の歴史であった。
「ここ十年は、お山に向かう者はいなかったのになあ。樵や修行者だって、あの山には近づかなくなっているじゃねえか。なにが大狼様を怒らせたんだろうか」
元は逞しい体つきをしていた事が分かる大柄な男が、苦々しげに呟く。
村一番の力の持ち主で、近くの山から下りて来た猪を素手で捕えて、絞め殺したこともある。腕力だけでなく胆力も村一番と評判だが、そんな男でも大狼は恐怖以外の何物でもなかった。
父母や祖父母、村の年寄り連中から物心の着く頃から聞かされてきた大狼の恐怖は骨の髄まで刻みこまれているのだろう。しょぼくれる姿は、その巨躯を一回りも二回りも小さく見えた。
胸元まで垂れた白い髭をしごいていた村長の手が止まる。がたがたと音を立てる、建てつけの悪い戸を開いて、呼びつけておいた者が来た事に気づいたからだ。
糸の様に細められていた村長の目がかすかに見開き、開いた戸の前で立ち尽くす小さな影に声をかける。
「おはいり」
小さな影は黙ったまま戸を潜り、家の中へと入り足を止める。ほとんど直角に腰の曲がった村長と変わらぬ背丈の少女であった。
この場に居る村人の誰もが粗末で貧相な身なりであったが、この少女はそれに輪をかけてひどい。襤褸とさして変わらぬ衣服を申し訳程度に身に纏い、臍のあたりで荒縄を使って結んでいるだけだ。
襤褸から覗く手足はやせ細りきって土や埃に塗れている。素足もすっかり埃に塗れ、日に焼けて褐色の筈の肌は白く汚れていた。
風が強く吹けばそのまま飛ばされてしまいそうな、枯れ木の様に脆く頼りない印象を見る者に与える。
やや頬がこけた顔立ちは、土埃に汚れても元の愛らしさを残しており、それなりの器量を生まれ持っている事が分かる。
「あの、ご用は何でしょうか?」
村長ほどではないにしろ小さく、そして怯えているのかかすかに震えた声だ。五年ほど前に両親を流行病で失い、村長に養われている少女である。
普段は村長の家の雑事を一手に引き受けているのだが、今日はいつもの雑用ではないと雰囲気から察し、なにか叱責を受ける様な事をしてしまったのかと、怯えているらしい。
今朝、水を汲むのが遅いと、村長の細腕が振り上げた棒きれで打たれ、赤く腫れた背中や肩はまだひりひりと痛み、焼けるような熱を持っている。
「ひなや、お前も大狼様の話は知っておるな?」
唐突な村長の言葉に、ひなは同い年の子供の手でも簡単に折れそうな首を縦に動かした。
「……はい。あの、妖哭山の主だっていう、とても大きくて凶暴な狼の妖魔だと」
「そうじゃ。ここ数年の不作は、その大狼様の祟りによるものじゃ。ではな、ひな。大狼様のお怒りを鎮める為に、このあたりの村の衆が今までどうして来たかも知っておるな?」
ひな、と呼ばれた少女は、村長が言わんとしている事に思い至り、両手を握りしめて、震え始めた体を必死にとめようとした。だが、それは虚しい努力だった。
ひなの肩が小さく震えるのを見て、大人達の数人がごくささやかな同情の色を浮かべている。
村長は、感情の色が見えぬ硝子玉の様な瞳で、ひなを真正面から睨んでいる。この小さな女の子に、運命からは逃げられないと無言で告げるような冷酷さと厳しさばかりが見て取れた。
「ひなや」
びくっとひなの肩が一際大きく震える。これから村長がひなに告げる事が、死刑宣告以外の何物ではない事を、ひな自身が理解していたからだ。村長は、言葉も碌に話せぬ幼子に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を噛み締める様に告げる。
「大狼様のお怒りを鎮める時、村では子を一人生贄に捧げてきた。今度もそうじゃ。ひなよ、お前が大狼様への供物となり、村を救っておくれ」
にいぃっと吊り上がる村長の口元が、好々爺然としたものであるにもかかわらず、ひなは背筋が凍り付くような悪寒に襲われ、必死にそれを隠した。
こんなに優しい村長の声は聞いた事が無かった。
こんなに冷たい村長の声は聞いた事が無かった。
こんなに恐ろしい村長の声は聞いた事が無かった。
だから、ただでさえ小さなひなの体は、より一層小さく縮こまるかの様に見え、震えを抑える事が出来ずにいた。
死ぬと分かっていて、我が子を喜んで差し出す者など村に居る筈もない。村の為、腹を空かした皆の為、そう言い繕って村の誰が我が子を差し出しても遺恨は少なからず残るだろう。
だから、身寄りがなく、居なくなった所でさして困る事もないひなが選ばれたのだ。
「……はい」
やがて消え入りそうな声で、ひなは承諾の返事をした。それ以外に答えがある筈もなかった。
煌々と黄金の盆の様に夜天に輝く月が、刃のように鋭い峰の連なりを影絵のように照らす夜。星達が、一生をかけても数え切れぬ膨大な量の輝きを大地に降り注いでいる。
ひょう、と風にさらわれてきたように軽やかに、山の頂の一つに躍り出た影があった。月光の下に居る者が月の滴で濡れ光る様な中で、艶やかな毛並みはさざ波にも似て輝き、あるか無きかの風にそよそよと揺れている。
人ではない。山に住む獣か妖か。夜の闇に燃える火の球の如く横に並んで浮かぶ二つの光点が、ゆるりと動き、とある一点で縫い止められたように停止する。
ぐる、と低い唸り声が『それ』の喉元から零れた。この山に住む生命であるなら、耳にするや脱兎のごとく逃げ出す声だが、今、彼の瞳に映る者達の耳には届いていないようだった。実際大抵の生き物では聞きとれぬ位に『それ』と、見つめる先の者達とは距離が離れている。
『それ』の目に映る者達は塵芥に等しい大きさとしか見えない。
外に広がる乾いた大地とは全く別世界の、木々が黒ずんで見えるほど折り重なった森の中を、幼子を連れた人間の大人達が怯えながら歩いている。『それ』の目を引いたものの正体であった。
夜の山の恐ろしさを知らぬわけではあるまいが、そうせねばならぬ事情があると見える。彼は、山の外の人間達が足を踏み入れる事にかすかな不愉快さを覚えたが、しばらくその人間達がどこを目指すのか目で追った。
松明を持った村人を先頭に、鍬や鋤を震える両手で握りしめた者達に挟まれている幼子が特に目を引く。
普通なら、幼子を守る為に大人達が前後を固めていると考えるべきだが、受ける印象は全く逆だ。
まるで幼子が逃げることを警戒しているように前後を固めているとしか見えない。手や首、体を縄で縛られていないのが不思議に感じられるほどだ。
だがその衣服は、粗末以外の表現の言葉が無い村人達の衣服と比べて、染みもほつれもない純白の小袖に緋袴と目立つものだった。
月明かりにも鮮やかな紅の帯といい、白々と輝かんばかりの生地の美しさといい、自然と目を引く。なにより、今にも月光の中に透き通って消えてしまいそうな少女の横顔の儚さが、一際目立って『それ』の視線を吸い寄せた。
じぃっと、その人間達の集団を目で追っていたが、足もとから聞こえてきた、りぃん、りぃんと鳴く鈴虫の声に、『それ』ははっと我を取り戻し、人間達の行く先に自分の塒がある事に思い当たる。
何の意図があってあのような、ひ弱な人間達が自分の塒を目指すのか、『それ』には皆目見当もつかなかったが、見逃すわけにも行かぬかと、塒へ戻るべく山を下りて駆けだした。
頂に躍り出た時と同様に、風に愛されているかの様な身のこなしで、影はほとんど直角の斜面へと飛び出した。
間違えて足を踏み外せば研いだ刃の様に鋭く点在する山の岩肌に、体を切り刻まれて、血の跡を幾つも残す事になるだろう。
影はそんな恐怖など風に千切られて飛んでいる花びらほども抱いていないようで、軽々と岩肌や木々を蹴ってゆく。あっという間に小さくなるその姿を、変わらず輝く月と星ばかりが見守っていた。
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