第28話 手紙
「一体、どういうことですの……?」
読み終えたばかりの手紙を見つめながら、イネスはつぶやいた。
眉は吊り上がり、唇の端は歪み、苛立っているように見える。
手紙を持ってきたキリルは、向かいのソファへ腰掛けて、その様子をじっと見ていた。
いや、見ていたなんてものじゃない。イネスの表情、態度、あらゆるものから何かを読み取ろうとするかのように、険しい顔で観察している。
いつものキリルなら、目をキラキラさせてイネスに熱視線を送っているはずだ。
好きだ、愛していると、言わずともわかるような好意を全身から立ち上らせて。
だけど今日の彼は、ピケが一度も見たことがない顔をしている。
まさに王族、次期国王にふさわしい貫禄とでも言おうか。
ピケが萎縮し、声も出せないほど、彼は厳かな雰囲気を身にまとっていた。
(なにがあったの……?)
ただ控えることしかできないピケには、どうなっているのかさっぱりわからない。
隣で同じように控えていたノージーにチラリと視線を送ったが、彼もまた、わからないと小さく首を振るだけだった。
「どういうことか、とはこちらが聞きたい」
足を組み、偉そうに座っている彼は、本当にあのキリルなのだろうか。
実は影武者なんじゃないかとピケが思うくらい、彼の雰囲気は刺々しかった。
「ガルニール卿とは誰だ?」
「ガルニール伯爵クーペ・コンカッセ……アルチュールの国教、テト神教の枢機卿の一人ですわ」
「では、王族が婚前に行わなくてはならない儀とはなんだ?」
「わかりません……そんなもの、聞いたことがありませんから」
テト神教は、女神テトを崇め奉る宗教である。
猫耳を持つ獣人の女神はその容姿から人々に恐れられていたが、諦めずに人々を救い続けてきた結果、アルチュールで崇め奉られるに至った。
困った時はお互いさま。これは、女神の口癖だったと言う。
(食事の前に祈ったり、困った時はお互いさまって手を差し伸べたり……他の宗教と変わらないように見えたけどなぁ)
信仰するものがないピケだから、わからないのだろうか。
威圧的なキリルに圧倒されてか、イネスの手が震えているのが見えた。
罰を受ける時の自分を思い出して、ピケの肩がギュッと強張る。
「でも事実、その手紙に書いてあるではないか。テト神教には、王族が婚前に行わなくてはならない儀がある、と。それも、神官と二人きりで、一晩寝室にこもって行う儀など……!否が応でも嫌な想像しかできぬ」
吐き捨てるような物言いに、とうとうイネスの目から涙がこぼれた。
しっかりと施された化粧が落ちて、黒い涙が頰を伝う。
「わたくしが、それに応じると仰りたいのですか?」
力強い視線で、イネスはキリルを睨んだ。
握った拳が震えているのは、初めて言い返したことによる恐怖か、それとも馬鹿にするなという怒りからか。
たぶん後者だろうな、とピケは思った。
ピケだったら前者だったかもしれないけれど、イネスは強い女性だ。心から愛している人に疑われて、おとなしくしているわけがない。
良くも悪くも、彼女は
「あなたは熱心に信じているではないか。テト神教とやらを」
イネスの怒気に怯んだのか、キリルの態度がやや揺らぐ。
「……わたくしが、あなた以外の者に処女を捧げるとお思いなのですか? この国の、悪しき風習を受け入れようと決意した、わたくしが?」
イネスの言う悪しき風習とは、結婚式の翌朝、花嫁の破瓜の血で汚れたシーツを窓から提げて、花嫁が処女であったことを主張する公開処刑である。
結婚相手、もしくは婚約者としか手も繋げない国から嫁ぐイネスには、信じられない伝統だ。
すべては愛するキリルのために。
その一心だったというのに、当の本人からあらぬ嫌疑をかけられた。
たった一通の、手紙がきただけで。
イネスからしてみたら、ふざけるなの一言に尽きるだろう。
しかしピケは、キリルのことも、仕方がないと思わなくもないのだ。
だってこの結婚は、キリルが望んだ政略結婚。心のどこかに、引け目があったのだろう。
ピケが知るキリルは、そういう人だ。もっとも今は、揺らいでいるが。
「思いたくないから、聞いているのだ。どうか、納得のいく返事をしてもらいたい」
「わたくしがどんなに知らないと言っても、それを証明する術はありません。わたくしが信仰を捨てると言っても、同じでしょう。そうですわ、いっそのことガルニール卿の入国を拒否すれば良いのです。アルチュールは、ロスティに逆らえませんもの」
「それはできない」
「なぜですか」
「すでに入国済みだからだ。あと数日もすれば、王都へ着く。外交の交渉やこちらの承諾も得ないまま、一通の手紙だけを寄越してくるなんて……いささか強引すぎる」
敗戦国の分際で。
口にしたわけではないが、キリルの言葉の端々から感じ取れた。
総司令官より人気がないし、普段の彼からは想像もできなかったけれど、彼は
場に、重苦しい空気が立ち込めていた。と、その時である。
「少々、よろしいでしょうか?」
軽く手を上げながら、ノージーは言った。
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