ノワール あるいは血筋にまつわる一夜の鉄風雷火

和泉茉樹

第1話

     ◆


 また明日、と友人と別れて、住宅地の中に入っていく。

 高校に入学して一ヶ月が過ぎて、気候ももう春とは言えなくなってきた。今はもう日が落ちているから涼しいけど、昼間はうだるほどの暑さだ。早く制服を夏服に変えたいと頻繁に思う。ブレザーを脱ぐだけでも気が楽になる。

 同級生の男子二人とカラオケに寄り道したのはもう何度目か。父さんは何も言わないけど、僕を見る目には少しだけ厳しいものがあって、遊びに夢中になるなよ、少しは運動でもすればいいんじゃないか、と言っているように感じる。

 でも実際の父さんは穏やかで、のほほんとしているから、僕が感じるのはあるいは錯覚かもしれない。

 父さんは外国人で、元はイギリスにいたという。今は自宅にこもって何かの仕事をしている。昔から仕事について教えて欲しいと頼んでも、少しも教えてくれない。答えてくれることといえば、事務仕事だよ、とか、帳簿を作っているよ、とか、そんなあやふやなことしか言わないのだ。

 母さんはいない。僕が生まれた時に亡くなったという。写真が何枚か残されていて、そこには父さんと母さんが笑顔で写っているけど、僕がそこに加わることはもうない。

 父子家庭というのは苦労が多そうなものだけど、僕はあまり苦労した記憶がない。まぁ、小学校の行事でお弁当が必要な時、父さんが四苦八苦して作ったらしいお弁当が見た目通りに酷い味だった、という程度の軽い苦労はあったけど。

 僕はそんなでも、父さんは実は陰で、苦労しただろうか。そんなことを高校生になって、昼休みにパンを食べている時に感じたりする僕がいる。

 どこか遠くでカラスが鳴いた。

 それが変に気にかかり、僕はそちらを見ていた。

 でももう空はほとんど真っ暗で、点々と並ぶ街灯が周囲を照らし、家々では窓から明かりが漏れているだけだ。

 カラスなんて見分けがつかない。

 しかし、なんだろう、何か、おかしいような……。

 足を止めていた僕は、背筋に冷たいものが伝うような感覚を無視して、家へ向かって再び歩き出した。何となく早く帰りたい一心で、足が自然、早くなる。

 自宅の生垣を回り込み、形だけの門を開く。屋根の下にある自動車は父さんが使う軽自動車で、だいぶ古い型だけど父さんはあまり車には興味がないようだ。僕もあまり興味はない。

 ステップを上がって玄関へ。

 鍵を差し込んで錠を開け、中に入る。馴染み深い、我が家の空気に包まれるのを感じる。

「ただいまー」

 声をかけると奥から「おかえり」と声がする。父さんの声だ。

 靴を脱いで、ちゃんと揃えてから廊下を進む。リビングに明かりが灯っているのは、今は閉まっているドアにはめ込まれたすりガラス越しにわかる。

 少しだけドアを開けて首をつっこむと、リビングのソファに深く腰掛けて、父さんがタブレットに何かを入力していた。その顔がこちらを向き、彫りの深いその顔に笑顔が浮かぶ。

「おかえり、篤郎。今日はコロッケだぞ」

「コンビニで買ってきたんでしょ?」

「買おうが作ろうが、コロッケはコロッケに違いない」

 かもね、と僕はドアを閉め、廊下を少し戻って階段からに二階の自室に入る。

 特にこれといって特徴のない子ども部屋だ。勉強机と書棚、シングルベッド。壁にはアニメやアイドルのポスターどころか、カレンダーさえない。スマートフォンがあればカレンダーはいらないという主義なのだ。でも時計だけは目覚まし時計がベッドの枕元にある。

 制服から着替えて、部屋着で一階へ降りる。

 その途中だった。

 ものすごい大きな音とともに家が揺れた。音は爆発音というべきか、破砕音というべきか、すぐには表現が見つからない、複雑で、とにかく強烈な音だった。

 明かりが不規則に明滅して、消えてしまうかと思ったけど、なんとか安定した。

 しかし一体、何が? 車でも突っ込んできたのか?

 階段を恐る恐る降りて、リビングに向けて廊下を進むときには、自然、駆け足になっていた。

「父さん!」

 リビングに通じる扉を開け。

 熱風が吹き寄せて悲鳴をあげていた。

 反射的に体を逃がそうとして、よろめき、尻もちをついた僕は、やっとリビングが炎に包まれているのを理解した。

 な、なんだ……? 火事? ガス爆発?

 這うようにしてリビングから流れてくる煙の下を進み、なんとかリビングに入った。

「父さん! 大丈夫っ?」

 来るな、と声がした。

 ひどくか細い、喘鳴のような声で。

 僕はもう一度、声をあげようとした。

 その瞬間に起こったことは実に奇妙で、異常だった。

 室内なのに突風が吹き、リビングに充満していた煙が駆逐された。破砕した庭に面するガラス戸や窓から煙は外へ逃げていき、途端、リビングの全貌がはっきり見えた。

 父さんが立っている。こちらに背中を向けていた。

 父さんは誰かと向かい合っている。

 何かおかしい。なんだ? 父さんはこんなに背が高かったか? それにあの背中から突き出しているのは、人の、手……?

 密着するように父さんと正対している人物が、やっと認識できた。

 金髪で、外国人の風貌。肌が白い。長身、細身。着ているのは奇妙なほど艶やかな真っ黒い装束。

 何より印象的なのは、真っ赤な瞳だ。

 その双眸は、爛々と輝いて見えた。

「裏切り者の倅か」

 男が声を発する。変な節の、形だけの日本語。それよりも声自体が軋るようで、しわがれ、まるで古木が喋っているようだった。そうだ、樹齢数百年の古木をなぜか連想させるのだ。全てが。肌ツヤが良くても、一片のシワもなくても、まるで老人を前にしているようだった。

「逃げ、ろ……」

 父さんがぎこちない動きでこちらを振り返る。

 その顔はすでに土気色で、口元は血に染まり。

「消えろ、背信者め」

 金髪の男の目がより強く輝き。

 その背後に、黒衣の男が唐突に出現するのを、僕は見た。



(続く)

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