第003話 『人型』
マルティナがこれから行う行為の対象に向き直った瞬間、未だかつてない悪寒が全身を駆け巡る。そして、まるで電撃でも受けたように、全身が石の様に強張る。
「なっ… なによ… これ… 本当になに…」
声が震えるのは、ガタガタと身体が震えているので物理的に震えているのか、それとも何か対しての恐怖心で震えているのか、又、その両方か…
この教室で闇に紛れて、レイチェルの教科書を切り裂く時にふいに声を掛けられた時の恐怖、レイチェルのあの人形の様な無機質な顔にある紅色の瞳に見据えられた恐怖… それらもかなりの恐怖を感じたが、今、マルティナが感じている恐怖はそんなモノとは比べ物にならない程、今まで感じたことがない程の恐怖だ。
これは今から行おうとする行為… 初めて人を殺める事に関して、その罪深さに心の憶測で良心が恐怖に姿を変えて訴えかけているのか…
いや、違う。その証拠に、前を向いているだけで、全身の毛穴という毛穴が、頭皮の毛髪の毛穴までぞわぞわと開き、鳥肌がたち。背中全体が氷結されたように悪寒が駆け巡り、口を開けば心臓が飛び出しそうなぐらい動機が高鳴っている。
手元のナイフを握りしめて前に進む事も、又、そのナイフを放り投げて逃げ出すことも出来ない。マルティナは未だかつてないほどの恐怖で足がすくんで動けずにいた。
目の前には、マルティナの魔法で昏睡したレイチェルが床に伏せている。暗闇の教室とはいえ、それ以外の物は何も見えない。しかし、『何か』がいる。見る事は出来ないが、マルティナを恐怖で硬直させるほどの存在を感じるのである。
マルティナのその状況を、別の視点で見ている者がいた。レイチェルに付き添っていた小さな人型、リーフである。レイチェルの髪の中に隠れていた彼女はマルティナからの魔法を受けた時、その魔力の波動で、近くの席に吹き飛ばされていたのである。
そもそも彼女の存在はレイチェルに付き従う精霊の様なものであり、しかも高位の精霊で、リンクしているレイチェル以外の者では、その存在に気が付く事も稀な存在である。いわば精神体に近い存在なのだ。なので、リーフの目にはマルティナとは異なった状況が見えていた。
レイチェルが意識を失い、完全に床に倒れこんだ瞬間、彼女たちが立てる物音以外、ただの静寂だけに包まれていた教室内の空気が、まるで一気に気圧を倍に上げたような張り詰めたものに替わる。
そして、倒れたレイチェルから、暗闇を煮詰めたような濃い闇が吹き出し、彼女に覆いかぶさっていく。その吹き出す闇の輪郭は、最初の内は霧散することに対して抵抗する意思があるような塵や煙の様なものであったが、やがて、何か蠢く生き物のように輪郭を維持し始める。
ジャラ… ジャラ… ジャラジャラ…
金属を引きずる様な、擦れる様な… そう大きな鎖の様な音が響き始める。それと同時にレイチェルを覆う闇が盛り上がり、何かが浮かび上がろうとしている。それは、まるで、黒い蛆虫が一面に蔓延る黒い沼から、その漆黒の泥と蛆虫を全身に纏ったまま、人型が這いあがろうとしている様である。
そう『人型』なのだ。レイチェルから溢れる闇から這い上がり産まれ出でようとしているのは『人型』なのである。しかも、ただの『人型』ではない。レイチェルから吹き出す闇の量は増大し、その『人型』の多きは見る見るうちに増大する。その膨れ上がる『人型』の体躯は見えている上半身部分だけで、手首や腕、そして首に鎖が繋がれていた。
『なっ… なに… なにが起きているの!? レイチェルはどうなっちゃの!?』
物陰に隠れていたリーフは、その異形の闇の『人型』が現れたことに、身体全身が恐怖で震え、完全に縮みあがって竦み動けずにいた。
人の数倍の大きさまで成長した『人型』は、まるで誕生の喜びを咆哮するように、高さのある階段教室の天井すれすれまで、仰け反って身体を広げ、レイチェルのいた場所から伸びる『人型』を拘束する鎖がギチッと音を立て張り詰める。
張り詰めた鎖により、これ以上誕生の咆哮を上げる事が出来ないと理解したような『人型』はゆっくりと前に身体を屈め始め、まるで大男が子猫と目線を合わせるようにマルティナに息が届きそうな距離に顔を近づける。しかし、その『人型』の顔には人が持つような髪や目、鼻、口などは見えず、ただ、闇の蛆虫が蠢くようなのっぺらぼうなだけだ。
「なに… 一体、何が起きているのよっ!!」
尋常ではない恐怖の為、身体が小刻みに震えながら強張り、足がすくんで動けないマルティナ。冷や汗と涙、鼻水しか流す事の出来ない彼女は、ただ一つ動かす事が出来る瞳を、まるで昆虫の羽ばたきの様に小刻みに震わせ、大きく見開いた目の開口部内を、まるで鳥かご内で逃げまどう小鳥の様に、視線をキョロキョロと走らせるが、何も視界に捕らえる事が出来ずにいる。凶悪で恐ろしい捕食者が息のかかる距離にいるような恐怖を感じるのに、その対象を直視する事が出来ずにいた。
「こ、怖い… いや、に、逃げ出したい… で、でも、なんで身体が動かないのっ…」
恐怖のあまりマルティナは泣きじゃくりながら、子供の様な鳴き声を上げる。しかし、子供の様な鳴き声をあげても事態は好転しない。ここには泣きじゃくる子供に救いの手を差し伸べるような大人はいない。いや、大人が居た所で、この『人型』に対して手段を持つものはいないであろう。
そのマルティナの状況に反応したのか、リーフの見える『人型』に変化が訪れる。闇の蛆虫だけが蠢く『人型』の相貌に、口元に白い線がにっこり微笑む様に顎の幅まで現れる。
一瞬、泣きじゃくる子供をなだめる大人の微笑みの様にも思えたが、そうではなかった。微笑む様な白い線が徐々にその太さを増していくと、白の線に赤い縁取りが見え始めた。そして全貌が明らかになった時に、ようやくその事が理解できる。赤い縁取りに見えた物は、肉々しい歯茎の真っ赤な色で、最初に見えていた白色は真っ白な歯の白色だったのだ。
毒々しいまでに真っ赤な歯茎、漆黒だけの相貌に相反して生える真っ白な歯。その口を使ってマルティナと息が掛かる様な距離でニタリと口角を歪める状況は、もはや泣きじゃくる子供をなだめる大人の状況ではなく、強大な捕食者が怯える小動物を捕食しようとしている状況にしか見えなかった。
「うぇっ… うぇっ… うぅぅ…」
マルティナはあまりにも恐怖に嗚咽を漏らしていた。しかし、先ほどの落ち着きなく飛び回る様に視線を泳がせていたのとは異なり、何も見えてはいないが、正面の眼前だけを凝視していた。例え視覚情報として何も見えなくても、本能として、すぐ眼前に『なにか』がいる事が分かったからである。
『食べる… 食べちゃうの!? 逃げて! 早く逃げて!!』
そのマルティナと『人型』のその様子を伺っていたリーフは、あまりもの状況にマルティナが逃げ出すことを祈った。いくらレイチェルに危害を加えようとしたとはいえ、こんな化け物に喰われるまでの事はしていない。
そして、『人型』がその毒々しい赤と白々しい白の口を開こうとした瞬間、マルティナの身体から、白い湯気の様なものが吹き出す…いや、飛び出したと言った方がよいだろうか。
「キエェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!!!」
マルティナから飛び出した白い影は人の形をしており、発狂してこの広い教室全体を揺るがしそうなぐらいの大きな絶叫をあげる。
「なに!? 本当に何が起きているの!?」
リーフは物陰で、その絶叫を両耳を塞ぎながら伺っていた。
マルティナから飛び出した白い影は、やつれた両腕で、恐怖で歪んだ顔を掻き毟りながら、登っていき、やがてか細い絶叫を残しながら、まるで湯気や煙の様に霧散して消えていった。
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