第002話 いきなりのピンチ

「マルティナ様、私の教科書にお痛をなさる事に、何か理由がおありの様ですが、出来ればお話頂けませんか?」


 レイチェルは、教室の中央を降りながら、怒りを表すでもなく、マルティナに敵意をむき出しにするでもなく、道端で出会った知人に世間話をするようにマルティナに話しかけた。


「あ、貴方が全て悪いのよっ!」


 逆にマルティナは、お痛の現場を押さえられた事に、少々たじろぎながら、怒りを表し、レイチェルに敵意を剥きだしながら、まるで親の敵に出会ったかのように言い放つ。


「何がどの様に悪いのか、具体的に詳しく話して頂かないと、わたくし、分かりませんわ」


 レイチェルは少し頭を傾げて、本当に理由が分からないような顔をして、マルティナに近づきながら尋ねる。しかし、その仕草がマルティナの目には惚けている様に見えて、彼女の癇に障り、教科書を切り裂いた事を見られた後ろめたさや、亡霊の様に現れたレイチェルに対する怯えの感情を吹き飛ばす。まぁ、実際にレイチェルは惚けていたのだが…


「あ、貴方のそういう態度が気に入らないのよっ! そもそも、子爵の娘如きが、私や、コロン様の御婚約者に気軽に話しかけるなんて、身の程を知りなさいっ!」


 マルティナはキッと目を尖らせながら、レイチェルを指さして罵る。


 レイチェルはその言葉に、頬に手を当てて少し悩む仕草をして考える。レイチェル自身は教科書を破損させられた被害者で、マルティナは加害者であるが、自身は子爵の子女で相手は侯爵の子女であるから、上下を弁えた仕草と作法で対応したつもりである。がしかし、マルティナに『そういう態度』と言われたのは、ちゃんと作法が出来ていなかったか、もしくは内面が仕草に現れて慇懃無礼に見えたかであろう。その事にレイチェルは作法をもっと洗練させようと考える。


 それよりも、今回の教科書が切り裂かれた理由である。実際に教科書を切り裂かれ、その動機も、レイチェルが知る『物語通り』であった。ここまで揃えば、夢のせいでも気のせいでもなく、間違いなくここが現実であり、レイチェルが『とある物語』の世界に入り込んだことは間違いなかった。


 そう思うと、レイチェルはマルティナに詰め寄られる前でありながら、自然とため息がでた。それは『とある物語』の世界に迷い込んでしまった事と、その物語の世界で、今現在、本当につまらない理由で、絡まれているからである。


 そもそも、レイチェルが教科書を密かに切り裂かれるに至った理由とは、この『とある物語』に於けるプロローグ部分で、学院に登校するにあたり、この物語の『攻略対象』と呼ばれる五人の青年と邂逅し、その五人の青年の婚約者である『悪役令嬢』と呼ばれる人物に嫉妬された事である。そして、今、目の前でわなわなと怒りに震えながらレイチェルを睨みつけているのが、『悪役令嬢』の一人、マルティナ・ミール・ジュノーである。


 レイチェル自身も意図せずにこの世界に引致された時に、自分自身の姿、周りの環境等で、前世で知っていた『とある物語』の世界ではないかと推察していたが、それは世界観だけで、歴史、所謂、物語やストーリー、また発生するイベントなどは自分の行動いかんでは、別の結果が訪れるのではないかと考えていた。


 もし、レイチェルが物語通りの経緯を好まないのであれば、この学院には通わないという手段はあった。しかし、好奇心は猫を殺すと言う通り、レイチェルは好奇心に負けて、いや、逆にこの学院に入学する為に受験勉強という労力を支払って、この学院に自ら進んでやってきたのだ。


 そして、この学院に訪れ、広場に辿り着いた時、この『物語通り』の『攻略対象』と呼ばれる青年五人の姿を見て驚愕したのだ。レイチェルはそこでようやく、自分自身がこの『物語』を俯瞰する読者でも観客でもなく、この『物語』の『登場人物』であり、しかも『主人公』である事に気が付いたからである。


 レイチェルはすぐさま、自分の置かれた状況を理解した。そして、とある想いと考えがあった為、この『物語』の『主人公』である立場から逃れようとした。すなわち、『攻略対象』である青年五人と関わらないようにしようとした訳である。


 レイチェルは青年たちから顔を逸らし、急ぎ足で校舎へと向かった。だがしかし、『物語』の強制力でも働いたのか、青年たちから声を掛けられ、呼び止められてしまい、結局、関わってしまったのである。


 しかし、関わってしまったとは言え、レイチェルは考えた。本来の『物語』では、『私』の方から声を掛けて関わった。そして、五人の『攻略対象』と和気藹々と邂逅をしていたはず。だが、レイチェルが関わったのは、ただ呼び止められ、返事をした程度である。そこからの結果に変化があるのではと考えたのだ。


 そして、その『攻略対象』の五人との邂逅の後にある『物語』の次のイベントである『教科書切り裂き事件』に変化があるのではと考えたのである。しかし、その結果は今現在の通りである。


『こちらから馴れ馴れしく声を掛けて媚びを売ったのなら兎も角、向こうから呼び止められて返事したぐらいで、嫉妬されてはたまったものではないわね…』


 レイチェルは変化しなかった現実に愚痴を漏らしながらのん気に少し考え込んでいた。


「はぁ…」


「な、なによっ! なにが『はぁ…』よっ! 馬鹿にしてっ!!」


 レイチェルはマルティナの怒声にはっと顔を上げる。すると、目の前にはマルティナの突き出した掌があった。


「えっ!?」


 レイチェルが眼前の状況に小さく声を上げた時、マルティナの掌から発せられた何かが一瞬でレイチェルの身体を通り過ぎた。


「あっ…」


 レイチェルがそう言葉を漏らすと、急に身体が重くなり、瞼を開けていられなくなる。そう…、マルティナに魔法を掛けられたのだ!


 マルティナから罵詈雑言や最悪、平手打ちぐらいは受ける事は想定していたが、令嬢であるマルティナからここまで直接的な害意に及ばれる事は想定していなかった。


 レイチェルは魔法による昏睡に抗おうとするが、流石、侯爵令嬢だけあってマルティナは魔力が強く、レイチェルの意思は空しく、簡単に膝が崩れ、支えようとする腕にも力が入らず、そのまま床に倒れ伏し、レイチェルがようやく出来たことと言えば、マルティナを床から見上げる事だけであった。


「…いい気味だわ」


 魔法による昏睡の為、レイチェルは混濁する意識の最後に、マルティナのその言葉と、揺らぎ霞む視界に悪意あるマルティナの表情がちらりと見え、そして、完全に昏睡状態へと陥った。


「大人しくしていればいいものを、わ、態々こんなところに来るから悪いのよ…」


 マルティナは自分のしてしまった事に、少し後悔しながらも、ここまでしてしまった以上、もう後戻りも出来ず、辺りをキョロキョロと見渡す。すると、先ほど教科書を切り裂く為に使って落としたナイフが、床の上にキラリと光る。


 マルティナはゴクリと息を呑み、震える指先で恐る恐るナイフを拾い上げる。そして、手元に収まったギラリと光る刃を見つめる。


『私が悪いんじゃない…私が悪いんじゃない…私が悪いんじゃない…私が悪いんじゃない…』


 マルティナは刃に祈りを込める様に、これから行う行為の言い訳を込めた後、その行為を行う為、その対象に意を決して向き直る。


「えっ!? な、なに…これ…」


マルティナは自分でも思いがけない言葉を漏らした。




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