逃避行は悪魔と共に
黒砂糖デニーロ
序章
「魔術師と罪と」
広大な部屋は今、静寂に包まれていた。それは部屋を埋め尽くす不気味な紋様のせいか、これから行われる事の嵐の前の静けさなのか。
「師匠、本当に大丈夫でしょうか?」
静寂を打ち破るというにはあまりに儚げな声で少女は不安げに振り返る。
少女が不安を覚えるのも無理は無い。床に刻まれた紋様――魔法陣は複雑を極め、これが高位の魔法陣であることは新米の魔法使いでも一目でわかる。床だけではない。紋様は床を抜け、壁、天井にまで至っている。その紋様上には魔法陣を補助するための魔道具や符などが設置されている。
とりわけ、自身を囲むように横たわる二〇個にも及ぶ石造りの大きな櫃は異様な存在感を放っていた。
「もちろんです。エリカさんの魔力と技術があればけして失敗することはありません」
後ろに立つ初老の男はにこやかに答える。彼女が最も尊敬する男から言われたその言葉は少女――エリカにとって何よりも力強い支えだった。
ただエリカには疑問も少なからずあった。
今回のこの魔法術式には既存のものと異なる体系の魔法実験であり、一体何を意図した魔法なのかはエリカにはわからなかった。
もしこれが成功すれば新たな魔法体系が確立される――師匠は事前にそう言っていた。しかし、それをなぜ考案者である師匠ではなく助手である自分が行うのか。
他にも疑問は多々あった。しかし、
「あなたはこのヌエス王立魔法研究所でも屈指の魔術師で、私の自慢の弟子です。どうか自信を持ってください」
憧れの師の、全幅の信頼を込めた言葉にエリカの頭は陶然とし、疑問はどこかへ溶け流れていった。
そうだ。お師匠が自分を信頼してくれているんだ。自分が師匠を信頼しないでどうする。
お師匠――ベルゼル師匠に限って間違いなんか無い。
師はこの魔法研究所、いや、王国でも並び立つ者がいないと言われるほどの高名な魔術師。
数多くの魔法体系を研究し、魔法技術の発展し寄与してきた、まさしく“賢者”と呼ぶにふさわしい。
そのお師匠のやることに間違いなどあろうはずがない。
「では私は外で待機しています。術者以外の人間が近くにいてはどんな影響があるかわかりませんので、近くに付き添ってあげられないのが残念ですが……」
「いえ!気にしないでください!必ず師匠の期待に添えて見せます」
ベルゼルの言葉にエリカは明るく、気丈に答える。その表情を見たベルゼルは微笑みながら満足そうに頷く。
「私も
がんばってくださいと言葉を残し、ベルゼルは部屋を後にする。一人残されたエリカ。扉一つ隔てた向こうに師匠がいることはわかっているのに、エリカは突如押し寄せる緊張と孤独に押し潰されそうな気持ちになる。
だが師匠は期待している。魔法を成功させ、部屋を出てくる自分を待ってくれている。
「がんばれエリカ。あなたはお師匠の一番弟子なのよ!」
そう自分に言い聞かせながら頬を両手で叩き、自らを奮い立たせたエリカは魔法陣の中央まで歩み出る。異様な存在感を放つ魔法陣はまるで巨大な生き物の上にいるかのようだ。
エリカはその場に佇み、集中力を高める。静かに目を閉じ、魔力を流し込む。器に注がれた水のように魔力が魔法陣内を流れていく。魔力は魔法陣の中を紋様に沿って流れ、循環を始めた。ここまでは既存の魔陣魔法と同じだ。陣魔法であればこの後、循環によって変質した魔力を解放する事で効果を得る。
次にエリカは姿勢を変えることなく呪文を詠唱する。この実験の詳細を師匠から聞いてから毎日練習した呪文だ。完璧に暗記している。
その自信どおり一字一句間違えることなく詠唱を終えたエリカ。ここまでは完璧だった。
確かな手ごたえと満足感を感じ、エリカは立ち上がり、手の平を魔法陣にかざし、声高に呪文を唱える。
異なる世界の言語で構成された、その呪文の意味をエリカは知らない。
その言葉を引き金に魔法陣内を巡る魔力が解き放たれ、眩い――とは程遠い、禍々しい赤黒い光が奔流となって部屋中を埋め尽くしていた。
―――この時のエリカは何も知らなかった。
後に知ることになる。
すでにこの時、部屋の外に師の姿はなかったことを。
彼女の身柄を抑えるべく、王国警察の部隊が迫っていることを。
そして今、自分が魔法によって呼び出したのは、異界の言葉で悪魔との契約を意味するものだという事を。
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