しにたい夜もふけて

@yumeoni

しにたい夜もふけて

 しにたいとSNSアプリ『ハートル』で呟いたすぐあとアプリを閉じ、飲みかけのハイボールを飲む。ハイボールもこれで三杯目だ。前までは缶のものを買っていたが、ウイスキーをソーダで割って飲んだ方が安上がりだし美味しいと気付いてからは自分で作って飲むようになった。難点があるとすれば飲み過ぎてしまうこと。

 グラスを何度か傾けてからスマホを手に取り、再びハートルを開く。いいね一件。いいねした相手は髭面のアイコンの男、その名も髭のアニキ。そのアイコンを見たとき、瞬間的に殺意が沸き起こり、DMを送る。

 しにたいって呟いていいねってことはしねってことでいいですか?

 アプリをすぐに閉じ、三杯目のハイボールを飲み干す。四杯目を飲もうと思ったが、氷がなかった。製氷皿で作った氷は全部使い切り、新しく作り出してからまだ一時間も経っていない。冷凍庫の中のロックアイスも全部使ってしまった。そんなときはどうすればいいか。

 答えはトワイスアップ。グラスにウイスキーを注いで、それと同量の常温の水を注ぐ。元々は冷蔵庫で冷えていたミネラルウォーターだけど、何時間も机の上に出しっぱなしにしているのだからもう常温みたいなものだ。

 グラスを軽く回すとウイスキー特有の香りが鼻腔を刺激する。そのまま喉に流しこんだ。

 ハートルを開くと、髭のアニキからのDMが届いていた。

 そんな訳ないじゃん。ウイスキーちゃん死なないでねって意味のいいねだよ。

 食道を流れていくウイスキーの刺激も相まって、血が昂ぶった。

 髭のアニキは絶対に冒してはいけない過ちを三つも冒していた。どこから指摘してやろうとアルコールの回った頭をフル回転させる。

 私はウイスキーちゃんではありません。ウィスキーちゃんです。

 一つ目のDMを髭のアニキに送る。ウィスキーちゃんはハートル上での紬の名前だった。ウイスキーちゃんとウィスキーちゃんでは印象が天と地ほどに違う。ウイスキーちゃんよりもウィスキーちゃんの方が千倍かわいい。髭のアニキは何も分かっていない。

 初対面なのに呼び捨てはやめてください。私の名前はウィスキーちゃんです。ウィスキーちゃんさんと呼びなさい。

 二つ目のDMを送る。

 トワイスアップのウイスキーを口の中に含み、次に送る内容を考えていると、髭のアニキからのDM通知がきた。

 笑。同じじゃん? っていうかウィスキーちゃんさん元気そうだね?

 笑。嫌いな言葉だ。そこには常に嘲笑の響きがある。ブロック確定。だがその前にやることがあった。三つ目の過ちについてDMを送らないといけない。

 髭のアニキさん。あなたは私の死にたいという投稿に軽率にいいねをつけましたね。その意味をおわかりでしょうか。あなたは死なないでという思いをこめていいねをしたのかもしれません。けれど、私はそうはとりませんでした。死にたいという思いに背中を押された気分になりました。ネガティブな投稿にいいねをすることはそのネガティブな思いを肯定することに繋がります。髭のアニキさんはもっといいねをすることに慎重にならないといけません。フォロワーを増やしたいのか女の人と出会いたいのか知りませんが何でもかんでも投稿にいいねをすれば良いわけではないのです。あなたのいいねひとつで誰かを生かしもし、殺しもするのです。私はあなたをブロックさせていただきますが、今後はそのことを肝に銘じてハートル内で活動していただけると幸いです。

 文面を考えているうちに最後の方は真面目になりすぎてしまった。髭のアニキにこんなに優しくしてやる必要もなかったが、文面を考え直すのも面倒なのでそのまま三つ目のDMとして送る。

 だが、見たことのない通知がアプリの画面に表れた。この人に今後メッセージを送ることはできなくなりました。

 ブロックされた。そのことに気付いたとき、紬は強烈な殺意に襲われ、思わず立ち上がった。叫びたいが夜中の零時を回ったこんな時間に本当に叫びだすほど非常識な人間ではない。口だけ大きく開けて、頭の中で思い切り叫び声をあげる。気が済むまで叫んでいつのまにかギュッと瞑っていた目を開けると、壁際の姿見に髪の毛ボサボサで顎が外れたトラ猫のような女の姿が映っていた。ギョッとして慌てて姿見の外に出る。その拍子に脱ぎ捨てていた昨日のTシャツを踏んでしまった。部屋の中は脱ぎ散らかした衣服などで足の踏み場もないほどだ。

 座って呼吸を整えると、ハートル上で髭のアニキと同じ髭面のアイコンを探し出しては片っ端からブロックしていく。同じアイコン使っているやつ大体同じ性格説。二十人ほどブロックしたところでようやく気が済んで、トワイスアップのウイスキーを一気飲みした。そしてその直後猛烈な虚しさにとらわれて涙がこみ上げる。

 何て面倒くさい人間だろう。自分からしにたいと意味深な投稿をしておいて、ちょっと気に入らない反応をしてきた相手に八つ当たりする。なんて姑息で愚かな振る舞いだろうか。これでは髭のアニキと同類だ。いや、それ以下だ。あんな投稿にいいねをする以外にどんな反応があるというのか。そのくせ無反応だと世界から見捨てられた孤児のように絶望してしまうくせに。こんな面倒くさい人間の相手を誰がしてくれるというのだろう。このままでは一生一人ぼっちだ。

 自己嫌悪にかられていると、ハートルに一件の通知が来ていることに気付く。開くと、麟さんからのコメントだった。

 大丈夫ですか? 良かったらお話聞きますよ。

 目に涙が溢れる。麟さんはいつも優しいコメントをくれる。麟さんがコメントをくれるのも深夜なことが多い。麟さんも眠れない夜を過ごしている住人の一人だ。

 麟さん、ありがとうございます。今日はちょっと飲みすぎてしまったようです。最近嫌なことが重なって。でも、さっき部屋の中で思い切り叫んだら回復したので大丈夫です。ご心配おかけしてすみません。

 いつの間にか酔いが醒めてしまった。グラスにウイスキーを注ぐとそのままストレートで喉に流し込む。食道がかぁっと熱くなる。薄めるためにすぐにチェイサーの水を流し込む。

 職場に何度目かの遅刻をして上司から怒られた。その後大きなミスをして上司と一緒にたくさんの人に謝った。その両方で始末書を早急に提出しないといけないのに一行も書いていない。その代りにずっと隠し持っていた退職願に氏名と退職理由だけ記入した。一身上の都合で。でも転職活動はもっと面倒くさいから出す気はない。玄関の電球が3ヶ月も切れているが、脚立がないので交換できない。脚立を買っても部屋まで持って帰ってくるのが大変だ。そんなこんなで帰宅したら真っ暗な玄関を手探りで歩いている。左の奥歯が痛い。歯医者の予約をしないといけないのに怖くて先延ばしし続けている。最近ずっと彼氏の機嫌が悪くてこの間喧嘩して以降ずっと無視されている。たぶん近いうち別れる。

 それらが積み重なってしにたいと思った。しにたいは死にたいとも違う。しにたいは死にたいよりも軽い。でもしにたいはすぐに死にたいに変ってしまうかもしれない。

 スマホを見ると麟さんからのコメントの通知が来ている。

 良かった。叫ぶの大事ですよね。私もときどき叫びます。真夜中オオカミの遠吠えのようなものが聞こえたら、それはきっと私です。

 オオカミなんですね。麟さんは麒麟だと思っていました。実際にアイコンも麒麟のイラストだ。

 普段は穏やかな麒麟です。でも夜もふけてくるとオオカミに変ります。そして叫ぶのです。叫び疲れていつのまにか眠って、目覚めたらまた麒麟に戻っています。首が長くなっているのですぐに分かります。

 私は猫ですね。真夜中に猫同士もの凄い大声で喧嘩していることがありますよね。でもよく聴いてみたら1匹の猫の声しか聞こえない。そんな猫がいるとしたら、それが私です。

 私の家の前の空き地でもよく猫が喧嘩しています。耳をすませて聴いてみたことがなかったので今度聴いてみます。もしかするとその猫がウィスキーちゃんかもしれないですね。

 酔っ払ったように千鳥足で歩いていたらその猫は間違いなく私です。

 ふふ。それは外に出て確認してみないと分からないですね。

 そうですね。でも人の気配を感じると逃げてしまうから、私を見つけるのは簡単ではありません。

 長い首の麒麟が出てきたらウィスキーちゃんも出てきてください。2人でお月見でもしましょう。

 それはとても素敵な夜になりそうだった。

 はい。

 今日はウィスキーちゃんのおかげで麒麟のまま眠れそうです。私はもう寝ることにします。おやすみなさい。

 おやすみなさい。

 スマホの向こう側から麟さんの気配が消えたことを確認すると、ウイスキーをグラスに注ぎ、ストレートで口の中に含む。

 いつのまにか時計の針は深夜一時を回っている。

 寝た方がいい。でもまだ眠る気にはならなかった。五連勤仕事を頑張って明日は休みなのだ。夜にしか癒やせない傷があって、夜にしか取り戻せない自分がある。眠ってしまうにはもったいない。

 親指の先でハートルの画面を操作する。少し迷った末通話ボタンをタッチした。聴いたことはあるが曲名は言えないクラシック音楽が流れだす。

 ハートルでは、偶然同じ時間に通話ボタンを押した人と電話が繋がって会話できるという機能があった。

 誰と繋がるか分からないからギャンブルみたいなものだ。出会い厨のおじさんに当たってしまう可能性もあるし、コミュ症でこちらから質問しない限り何も話さない男と繋がってしまう可能性もある。 

男と話す気分ではなかった。できれば同世代の女の子がいい。過去数回利用したことがあるが、男女比は大体半々。嫌な思いをしたこともあればそれなりに楽しく会話できたこともある。

深夜一時過ぎという時間だが、夜更かしな人間は案外いるものだ。

1分ほど聴いたところで音楽は鳴り止み、沈黙が訪れた。沈黙の向こう側にかすかな人の気配がある。

「もしも~し!」

 酔った勢いで紬の方から挨拶をする。素面のときなら相手の出方を窺うところだ。

「もし、もし……」

 すぐにどこかで聴いたことがある声だ、と思った。でもどこで聴いたのか思い出せない。知っている人間か、とスマホの画面を見ると、ユーザー名の所にボンボンさん、とある。ハートルは匿名のSNSを謳っているアプリなので、ユーザー名では何も分からない。でもそのユーザー名を見てドキリとした。

 ハートルのユーザー名を決めるとき、ウィスキーちゃんともう一つ候補にあげて迷ったのがボンボンちゃんだった。理由はウイスキーボンボンが好きだから。小学生の頃初めてウイスキーボンボンを食べたとき、その淫靡で大人な味に文字通り酔いしれてしまい、1人で十個も食べてしまった。その状態で母親に絡んだらもの凄く怒られ、成人するまでウイスキーボンボン禁止令が出された。ウイスキーボンボンは危険な食べ物だ。

「ボンボンさんさんですか?」

 初対面は呼び捨て厳禁。

「ボンボンでいいわ」

 やはりどこかで聴いたことのある声だ。でもどこの誰か思い出せない。例えるなら毎日のように聴いていた芸能人の声。でもそのテレビ番組を観なくなって久しいので、もうそれが誰の声か思い出せない。そんな声。

「ボンボンさん、はじめまして」

「はじめまして、ウィスキーちゃん。ウィスキーちゃんと呼んで構わない?」

 その呼び方を聞いて、いっぺんにボンボンさんのことが好きになってしまった。ウイスキーちゃんではなくウィスキーちゃんと発声したから。ウィスキーちゃんのウィの部分の発音が、紬の脳内の発音と全く同じだったから。

「はい。ウィスキーちゃんなんてふざけた名前ですみません」

「それを言うなら私だって、ボンボンさんなんてふざけた名前でごめんなさい」

「ボンボンさんってボンボンさんっぽくないですよね」

 紬が言うと、ボンボンさんは少し笑う。

「ボンボンさんっぽいってどんな感じ?」

「何かこう、ボンボンって感じの」

 ボンボンさんはとても落ち着いた、大人な人の話し方をする。年齢はよく分からないが、紬よりはだいぶ大人な人であることは間違いなかった。

「昔はボンボンっぽい時期もあったのよ。今は子供も大きくなってすっかり落ち着いちゃったけど」

「お子さんがいるんですね。お幾つですか?」

「中学2年生の男の子。絶賛中二病発動中。全然何考えているのか分からない。まあ私の子供だからしょうがないけど」

 そう言ったボンボンさんの声は温かみに溢れている。

「しあわせなんですね」

「しあわせ……。そうね、幸せね。思っていたのとは違うけど、確かに幸せかも。愛する息子はいるし、猫はかわいいし」

 思わず胸が温かくなる。誰かの幸せな話を聞いてそんな気分になれたのは久しぶりのことだ。

「猫がいるんですね。猫飼うの、夢なんです」

 母親は動物アレルギーだったし、今住んでいるアパートはペット禁止だ。

「飼えるわよ。ウィスキーちゃんもいつか」

「飼えますかね、猫」

「飼える。私が保証します」

 ボンボンさんが妙に自信たっぷりに言うので笑ってしまった。

「飼えますよね、猫くらい」

「飼えますよ、猫くらい」

「結婚できますかね?」

「できますよ、結婚くらい」

 ボンボンさんの言い方が面白くなって笑いが止らない。

「子供、できますかね?」

「できますよ、子供くらい。中二病発動して何も喋らなくなっちゃうかもしれないけど」

 ボンボンさんにそう言われると本当にそんな未来が待ち受けていそうな気がする。未来に期待したことなんてないけれど、そんな未来も悪くない気がしてくる。

「旦那さん、素敵ですか?」

「素敵な人よ。素敵な人だった」

「……だった」

「3年前亡くなったの。病気でね。でも、本当に素敵な人だったわ」

「ごめんなさい」

「いいのよ。私の胸の中ではあの人は今も生きている。私の息子の中にも生きている。そんな人に出会えたことが私の人生の最大の喜び」

「凄い。そんな風に思える人に出会えるなんて」

「ウィスキーちゃんもいつか出会えるわ」

「そんな風には思えないです」

「出会える。私が保証します」

 そう言ったボンボンさんの言葉はあまりにも自然で力が抜けていたので、逆に信じる気になれた。

「私、よくしにたいって思っちゃうんですよね」

 今日初めて話す顔も知らない人にしか話せない話がある。紬はいつのまにか最近の自分のことを話していた。

 ボンボンさんはその話を黙って聞いてくれた。

「別に本当に死にたい訳じゃないんですけどね。しにたいってよく思っちゃうんです。甘えだなって自分でも分かってるんですけど、そう思っちゃうんです。未来に希望なんか何も感じられなくて、世界中で私はひとりぼっちだって、そんな風に感じちゃうことがあるんです」

「分かるわ。私も昔そうだった」

「でも、ボンボンさんの言うような未来が待っているなら、私ももうちょっとちゃんと生きてみようかな」

 終わりが近づいていた。今日は結構話した。もうすぐ15分になってしまうはずだ。ハートルの通話機能は同じ時間に通話ボタンを押した人とランダムに繋がり、15分経つと勝手に切れてしまう。

「ウィスキーちゃんには素晴らしい未来が待っているわ。生きていて良かったと思えるような素晴らしい未来がね。私が保証します」

 そのとき、ボンボンさんの声が誰に似ているのかを紬は唐突に思い出した。携帯の留守番電話に吹き込んだ自分の声を聞き直してみたときの声に似ている。

 でもそれは一体どういうことだろう?

「あの、最後に一つだけ聞いていいですか?」

「いいわよ、何?」

 早口でボンボンさんが言う。もうあと数秒しか残されていないはずだった。

「あの……」

 だがそこでプツッという音がして、スマホの向こう側が無音になる。遅かった。せめて最後にお礼の言葉を言いたかった。でもそれがハートル。所詮SNSだった。

 通話を終えた途端疲れが押し寄せ、よろけるようにベッドに寝転がる。初対面の人とやり取りをするとやっぱり疲れる。

 最後にボンボンさんに聞こうと思ったこと。飼っている猫の名前。将来猫を飼うときの参考にしようかと思った。でも聞かなくて別によかったかも知れない。

 しにたい夜もいつのまにか更けていた。いつもそうだ。しにたい夜も必ず更ける。夜に飲み込まれるように、いつのまにか紬の意識は遠のいていった。


「ウィスキー」

 名前を呼ぶと、紬の膝元に飛び込んできた。そのふさふさとした毛並みを撫でる。八年前、息子が小学校に入ると同時に飼い始めた猫だ。みゃあと甘えた声で鳴く。

 終わってしまった。あっけなかった。二十年前の自分との邂逅。

 時空オンライン社が時空を超えたオンライン通話サービスをはじめたのはつい最近のことだ。オンライン上でなら、過去の人物と会話をすることができるサービス。過去の自分とも会話することもできる。

 相手が誰であっても自分が未来の人間だと悟らせるような言動をしてはならない。過去を変えるような言動をしてはならない。

 その会話は時空オンライン社が厳重にチェックしていて、規則を破ったものは永久にサービスを利用できなくなるばかりか、罰金を支払わなくてはならない。

 でも実際にはよほどの言動をしない限り、過去を変えたりそのせいで未来である現在が変ったりするということはないらしい。

 説明書には難しい説明が書かれていたが、何度読んでもちゃんと理解できなかった。

 最後まで通話を終えることが出来たのだから特に問題はなかったということだろう。

 このサービスは高額でシングルマザーの紬に払えるような金額ではなかったのだが、ネットのアンケートに答えたら偶然過去の自分と話すチケットが当たったので今回利用してみた。

 二十年前の紬はまだ若かった。純粋すぎる幼い声で幼いことを言っていた。

「何にも心配することないんだよ」

 猫を撫でながら、床に置いていたウイスキーのロックグラスを傾け、紬は独りごちる。

「何も心配することなんてなかったんだよ。私が見守っているから、あなたは好きに生きなさい」

 今日も眠れない。でももうあの頃のようにしにたいと強く思うこともない。しにたくても死にたくなくても、夜はふけていくし、そして必ず朝がやってくる。

 紬はウイスキーのロックグラスを再び傾けた。猫のウィスキーがみゃあとまた鳴いた。

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