紅緋色のなぐさめ、トッポギ
私の息子たちは二人とも多動傾向があります。いっときも目が離せないのはもちろん、外では手を繋がないと、前触れもなく駆け出してしまいます。車の前に飛び出したり、あっという間に迷子になりかけたり。一人で好奇心のままに動きたがり、忍者なのかと思うくらい、音もなく姿を消してしまうのです。
特に長男は好奇心旺盛で目につくものをなんでも触って確認したがり、壊すまで弄り倒します。なので、家にいても気が休まることのない日々です。夫は早朝から夜遅くまで仕事があり、ずっとワンオペ育児でした。
自分のことをすべて後回し、時には無視し、子ども優先での生活を送るうち、閉塞感と気も狂わんばかりの虚無感に襲われるようになりました。
家事や育児を頑張れば頑張るほど、おざなりにされた自分が悲鳴を上げるのです。髪は伸びっぱなし、日焼け止めを塗ってアイブロウまででメイクをする気力もなく、食事はいつも子どもたちの残り物。あんなに好きだったピアスや映画、読書、執筆をする余力もなく、子どもたちを寝かしつけたあとに「また何もせずに一日が終わってしまう」という言いようのない焦りを抱えながら眠りに落ちるのです。
自分に余裕がないのですから、他者にも余裕をもてません。いつしか私の眉間には深い縦皺が刻まれました。毎日が出口のないトンネルで、よどんだ空気です。今まで好きだったものを見ても、『好き』『楽しい』という感情がどういうもので、どうやって時間を忘れて熱中していたかすら忘れていたのです。
そんなある日、義理の姪が韓国のアイドルを教えてくれたことにより、私は『好き』と陶酔する喜びや胸躍る感覚を取り戻しました。今までアイドルに限らず、俳優でも演奏家でも特定の芸能人に熱中したことはありません。そんな私がアイドルの配信する動画を翻訳機なしで観たいがために韓国語を勉強しだし、興味すらなかった韓国の料理や食材を積極的に楽しむようになりました。
輝かしいステージの凛々しさ、惜しまぬ努力、共に過ごすことを楽しむ自然体の笑顔を観るうち、私自身にも変化が起こりました。ダイエットをしては推しの努力する姿に励まされ、何年も外したままだったピアスをまた身につけ、白髪を染め、髪型を変え、メイクは眉毛だけでなくアイシャドウとマスカラまではするようになりました。
不思議なもので推しへの『好き』は伝染するのです。同じ推しを応援するファンも、好きなものを楽しむ隙間時間も、そして刺激を受けて自分をいたわり小綺麗にする自分も愛おしく思えるようになりました。
自分を愛せると、他者への接し方も変わってくるのをまざまざと感じます。昔、職場の先輩が失恋した私に「自分の足でちゃんと立って自分で歩けないと。地に足ついてない人が誰かの隣は一緒に歩けない」と叱咤激励してくれたのを思い出しました。私は自分で歩くのを諦めて他者を先に歩かせ、そのくせ身動きできないことに焦っていたのです。
けれど思い出した『好き』への熱量が私の足を軽くし、踏み出せるようになったことで心が軽くなったのでしょう。
今まで、韓国といえばキムチと海苔しか思い出せないほどご縁がなかったのですが、推しが動画の中で口にしているものを私も食べてみることは、特に大きな楽しみです。ビビン麺、タッカルビ、サムギョプサル、辛ラーメン、チャミスル……こういう味なんだという発見はもちろん、パッケージのハングルが読めたときの達成感もまた良いのです。
そうして出会った韓国料理の中で、一番好きなのはトッポギです。トックという細長い餅にコチュジャンベースの甘辛いソースが絡んでいます。
紅緋色という鮮やかな赤がありますが、トッポギのソースの赤に近いように思います。疲れ果て、火が消えてしまった蝋燭のような気分のとき、このソースの色を見るとなんだか「食べて元気だそう」と思えます。それに餅の柔らかな食感が、「まぁまぁ、気持ちほぐしてやぁらかくいこうよ」と宥めてくれるよう。子どもが寝静まったあとの夜中のトッポギは、私が再び楽しむ心を見失わないための自分へのなぐさめなのです。
美味しい色にはワケがある 深水千世 @fukamifromestar
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