幕間 弟・リュカス

僕の名前は,リュカス・ゲイルバード。

創聖そうせい王国・ウィースラーの貴族,ゲイルバード公爵家の長男だ。

父の名はレジナルド・ゲイルバード。公爵家の現当主にして宰相で,

王の個人的な友としてもよく相談に乗っているらしい。

母の名はヘンリエッタ・ゲイルバード。宰相として忙しい父に代わり領地と王都の屋敷を管理している公爵夫人だ。


この国で領地を持つ貴族は,

その領地が『不便』になる時期に滞在するならわしになっている。


雪深くなる地方なら,その時期に。

暑さで干上がる地方なら,その時期に。


不便で暮らしにくい時期というのは,領民に不安や不満も溜まりやすい。

さまざまに起こるトラブルに領主が対応し,最終的な裁定者として必要だからだ。


領主ではなくとも,それに準じられる身分の者,

伴侶や成人した息子・娘,全権を委任された代行者などが滞在することもある。



ゲイルバード領は王国のやや北側に位置し,

雪により断絶するまではひどくないがそれなりに不便になるので,

領主代行をしている母が毎年一冬過ごすことになっている。


王都の公爵邸にはあまり父は帰ってこないので,

子供たちだけを残せないことから,姉のリリーシアと僕は

毎年冬はゲイルバード領で過ごすことになっている。


ただ今年は,春から姉が『学園』に入学するのでその準備のために王都に残り,

僕は初めて1人きりの冬を過ごした。


仕事で忙しい母とはお茶や食事をするくらいで,ほとんど一人きりだ。


いつもなら姉が一緒にいて,本を読んだり,カードゲームをしたり

天気が良い日は少し雪の積もった丘で雪遊びや散歩したりするのに…。


何をしていても退屈で,ふとした瞬間の静寂が耳に痛くて,

僕は何度か泣いてしまった。


12歳の『王城のお茶会』も経験して,少し大人になったはずなのに…。


雪解けが始まり街道も整備され始めたと聞いた時は,もうすぐにでも帰りたくて

『侍女たちは夜通し準備していたんだ』と,

夜明けと同時に出発しようとしている中,見送る母に小言をもらうが

公爵邸に帰れると思ってしまったら我慢ができなくなってしまっていた。


一刻も早く,姉に会いたくて仕方なかった。


きっとそんな僕の心なんて母さまにはバレバレなんだろう。

それ以上は何も言わず,苦笑しながら見送ってくれた。



王都に向かう馬車は,街道に残っている雪に車輪が取られないよう,

慎重に進んでいるため速度はあまり出ない。


それでも,一瞬一瞬,王都に近づいていると思うと気分が上がっていく。


朝食として持たせてくれたバスケットのサンドイッチを齧りながら

僕はたった1人の姉に,初めて別々で一冬を過ごした姉に,

まずなんと言おうかと思い馳せていた。


まだ枯れている木々と空しか見えない馬車からの眺めも,

今はキラキラ輝いて見える気がしていた。




大陸中の国々が原因も対処も不明な流行病に襲われる中,

姉もその猛威に飲まれ危うく僕は1人っ子になるところだった。


折に触れてよく聞かされたのは,英雄譚えいゆうたんの代わりに姉の話。


『お姉さまはリュカスさまご誕生と共に病にかかったが,ご両親とリュカスさまを守るため1人耐え抜いた凄いお方だ』

『まだたったの3歳であったのに,その忍耐力,思慮深さは驚嘆に値する』


普段の姉はとてもそんなふうには見えない。


佇まいはあくまで優雅で品があり,眼差しは暖かく優しく,

上質な鈴の音の様に透き通った声は耳朶じだに染み入るよう。


同年代の令嬢を見比べても,姉に比肩ひけんしうる人物は存在しない!!


優しく儚げな令嬢然としたたたずまいなのに,

ふとした瞬間に極上のルビーの様に瞳が強く輝く時がある。


そんな時の姉は,とても少女とは思えない気迫きはくの様なものを感じさせる



勤勉で優秀な姉は,勉学もマナーも魔法の勉強も魔術の使い方も優秀だ。


貴族令嬢としてたしなみと言われる教養の全てに秀でいて,

家庭教師や両親にいつも褒められていた。


だから,人には得て不得手があり,どうしても苦手なことはあると言うことに

自分が本格的に勉強を始めるまで気がつけなかった。


姉と同じ両親の子供なのに自分にはできないことに,

こんな息子で両親に申し訳なく,絶望し

こんな弟で姉に恥をかかせないか,と恐怖でいつも泣いていた。


両親や家庭教師の説得で,姉が規格外なのだと理解してからは

ならば,少しでも姉に近づこうと努力を重ねている。


姉は,最も身近な英雄で憧れで,目標になっている。




王都も雪解けが始まっていたが,真昼でも吐く息はまだ白い。


公爵邸の庭の一角,姉はお気に入りのガゼボで,お茶を飲んでいた。


防寒着を着込み,暖房器具を置いているとはいえまだ寒いと言うのに

楽しそうに庭の木々や花壇の花を眺めている。


黒髪に紫の光沢の浮かぶ髪色は,ゲイルバード家の特徴だ。


姉のたっぷりとした長い黒髪を優雅に下ろした姿は,

闇夜に紫の雲が揺蕩うような空を身に宿した,夜の女王のようだ。


はやる気持ちをおさえて歩く僕に気がついたのか,

クルリと振り返り優しく微笑む姿は気品にあるれている。


この大人顔負けな『貴婦人』の微笑みに惑わされる老若男女が絶えず

この公爵家の警備は王城並みに強化されていることを,


姉に近づこうとする不逞の輩を取り押さえ,その度に支払われる詫び金や示談金が

姉の貯金としてどれだけ溜まっているのかを,知っているのだろうか??


自分の優秀さと美しさに無頓着で無防備なこの姉が,

果たして春から入学する『学園』で平穏無事に過ごせるだろうか。


なぜ,自分は3歳年下なのか…

せめてもっと差が少なければ,1年でも一緒に通えたのに!!



『お帰りなさい』と言う口調も表情も,

お茶を入れてくれる手つきも優しく温かい。


領地の様子やどう過ごしたのかを報告するうちに熱が入り,

どれだけ寂しかったかと訴え始めたら

涙が溢れ止まらなくなってしまっていた。


この春から姉は別邸に移り住み,一冬どころかしばらく会えないのだ。

一冬でもこんなに寂しくなったのに,これから先をどう過ごせば良いのか…



どうして,準備も滞りなく終えて近日中に移り住むなんて,

楽しそうに言うのですか


どうして,制服を着たところを見てほしい,と嬉しそうに言うのですか


どうして,家族と離れる不安も寂しさもないように見えるのですか


どうして,僕を置いていってしまうのですか


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