第16話

教頭の運転する車が中央病院に着いた。

「救急車で運ばれた橘さんはどこにいるんでしょうか。」

教頭が受付にまっすぐ走り尋ねると、受付の女性職員が廊下へ出てきた。

「ご家族の方でしょうか、こちらへどうぞ。」

二人は急ぎ足でその職員についていった。


手術中 ― という赤地に白文字の表示がドアのすぐ上で光っている。

和人の父・正和がドアの真向いのソファーに座っていた。

「和人、早かったな。お母さんは今、手術中だ。」

父は立ち上がってそう言った後、大丈夫と言うようにうなずきながら和人の目を見つめた。

「私は、教頭の中山です。どうですか、奥様の容体は?」

教頭が頭を下げた。

「教頭先生ですか、ありがとうございます。先ほど看護士さんに伺ったのですが、家内はどうも脳出血のようです。・・・もともと血圧が高い方だったのですが、まさかこんなことになるなんて・・・。」

「脳出血、ですか。」

「ええ、だからもし助かったとしても、何らかの障害が残る可能性があると言っていました。」

「障害って?」

和人が尋ねた。

「例えば言語障害とか、半身不随とか、・・・脳死とか。」

父は和人の目を見つめて続けた。

「和人、そういうことはな、和人、覚悟しておかねばならないんだよ。」

「・・・。」


和人は父の説明を他人事のように聞いていた。

全く実感がわかなかった。

今日の朝家を出るまで、いつもと同じ母だった。

その母が、突然倒れた。

そして今、意識不明の重体となって生きるか死ぬかの大手術をしているという。

和人には母が死んだり、重度の障害を負ったりするなんて全く考えられなかった。


やがて楠田が駆け付けた。

間を置かず隣町に住んでいる叔母(お母さんの姉)夫婦もやってきた。

他の親戚の家は遠いので、すぐには駆け付けられない。


そして3時間がたち、時刻が午後9時を過ぎたころ、「手術中」のライトが消えた。


すぐにドアが開き、医師が出てきた。

医師は少しうつむいていた。

父も叔母も何も言わず、医師の言葉を待った。

「残念ですが…」

医師のその一言を聞くや否や、叔母が口を抑え「おおぅ」と声を上げた。

「最善は尽くしました。ですが、病院に運ばれた時すでに、かなり危険な状態でした。病名は、看護士から聞いていると思いますが、脳出血です。・・・どうぞ、中へお入りください。」

父がふらふらと手術室へ入った。

続いて叔母が大声で泣きながら、叔父にもたれかかるようにして入った。

和人は・・・信じられなかった。

あまりにあっけない母の最期。

和人の表情を読み取った楠田は、和人の肩に手を回し、手術室へいざなった。


手術室へ入ると、叔母が母の遺体の前で泣き崩れていた。

父は母の髪を撫でながら静かに立っていた。

母の顔は、まるでマネキン人形のように血の気が引いている。

楠田が和人の右手をつかみ、両手を組んでいる母の手の上に乗せた。

母の手は温かくはなかったが、冷たくもなかった。

和人は両手で母の手を覆った。

涙は不思議と流れなかった。

取り乱すこともなかった。

母が死んだのに、涙一つ流さない自分は薄情なのだろうかとさえ思った。


しばらくすると、叔父は母が死んだことを親戚に知らせるために、手術室を出た。

叔母はベッドの前のソファーに座り、いつまでも泣いている。

父が楠田にお礼を言い、そして楠田は帰った。

それから父は和人に、

「お父さんは少し外の空気を吸ってくる。」

と言い、玄関の方へ歩いて行った。


やがて、父と入れ替わるようにして、叔父が戻ってきた。

叔父は缶コーヒーを4本買ってきていて、1本を和人に手渡した。

のどが渇いていたからか、和人はそのコーヒーをすぐに飲み干し、空き缶入れがある玄関の方へ向かった。


空き缶を捨てようとした瞬間、和人の動きが止まった。

和人の耳に、父の嗚咽が聞こえてきたのだ。

父の姿は見えなかったが、父が玄関の外で口を押さえながら泣いているのがわかった。

その声を聞くうちに、不意に和人の胸が熱くなった。

和人はその場を離れ、トイレへと駆け込んだ。

トイレのドアを閉めたとたんに、涙がどっとあふれ、嗚咽がこみ上げてきた。


ペーパータオルで口を押さえながら、和人は思う存分に泣いた。

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