御伽噺
むかしむかし、遠ヶ崎の街に、一人の青年が居りました。
青年は、他の遠ヶ崎の人々と同じように、よその村から働きにやってきた若者でした。しかしその青年は罪人で、村を追われた身でありました。
青年は、愛しい故郷のことが忘れられず、毎晩毎晩、母の姿を夢に見ていました。青年の村の母は、それは大きな銀杏の木だったそうです。
ある時青年は、竹取の仕事を頼まれて、遠ヶ崎の街外れにある小山に入っていきました。森の景色に故郷の風景を思い出していると、地べたに一枚、銀杏の葉が落ちているのを見つけました。
銀杏の母を懐かしく思った青年は、小山の中で、銀杏の木を探し回りました。そして、一本の銀杏の老木を見つけました。
青年は大いに喜んで、その銀杏の木を気に入りました。やがて仕事の合間を縫って、銀杏のもとへ通うようになりました。
けれども彼は、銀杏の木を見れば見るほど、郷への想いを募らせるようになりました。そしてとうとう、苦しさに胸を病んで、働くこともできなくなってしまいました。
青年は銀杏の側に小屋を建てると、僧侶のごとく、山の中に籠ってしまいました。
そして彼は、ある不思議な
それは、落ちた銀杏の葉を一万枚、日の出から日暮れまでに真っ二つに裂いていくというものでした。それを成すことができれば、この世のありとあらゆる病、苦しみ、未練と別れることができる――そう信じて青年は、毎日銀杏の葉を裂くことに明け暮れました。
日の出ている間に一万枚の葉を探し、少しも休まず裂いていくことは、容易いことではありませんでした。それでも青年は、ある秋の終わりの日に、一万枚の葉を裂くことを叶えたのです。
青年は、最後の葉を裂いた途端に、郷への未練と別れることができました。そうして、不思議なことに、彼は姿を消してしまいました。
小山には、銀杏の老木と、家主のいない小屋だけが残されました。やがてその銀杏は、別れ銀杏と呼ばれるようになりました。
語り終えて澪を見ると、顔を赤くして泣いていたもんだから、俺はおかしくなってしまった。
「おい、そんなに悲しい話だったか?」
笑って澪の肩を叩いたけれど、彼は泣き止まなかった。俺はなんだか、小さい子供にひどいことを言ってしまったような気分になった。
「だってその人は、本当はふるさとに帰りたかったんですよね……あまりにも悲しいです。消えちゃうだなんて」
「なるほどな、そう捉えてるのか。俺はこの終わり方、幸せに故郷を夢見ながら成仏できました、って感じで、良いと思うんだけど……」
(ソウソウ!)
木霊が横槍を入れてくる。他の奴らより大きなそいつは、この別れ銀杏の木霊だった。
(ダッテコノ昔話ハ ウイチャンノ考エタ オ話ダモン!)
余計なことを言う年寄り木霊を、俺は茂みの中へ投げやった。
「えっ……羽衣さんは、文筆家だったのですか!」
俺が木霊を放っている間に、澪はまたややこしい勘違いをしていた。
「違うって。俺は木守でなけりゃ、役者でも物書きでもないよ」
「そうですか……でも羽衣ってお名前、二文字だし綺麗だし、芸名みたいでかっこいいですね!」
「うん、まあ、芸名みたいなもんだよ」
「それじゃあ、芸人さんなのですか? 着物も靴もお洒落だし……」
俺がどう言ったって、澪には察しがつかないらしかった。もしかすると、彼は見た目よりずっと幼いのかもしれないと思って、俺は質問をすることにした。
「お前さん、歳はいくつだ?」
「歳、ですか? えっと、十三ですが……」
六つ下かと思っていたらたったの三つ下で、俺は拍子抜けしてしまった。どう話したものかと考えていると、澪が口を開いた。
「やっとわかりました! 羽衣さんは、ご馳走のお料理屋さんの、店員さんなんですね!」
「ご馳走のお料理屋さん? なんだそりゃ」
「私の故郷は巻砂という島なんですけど、そこの港町に一軒の料理屋さんがあったんです。一度外から覗いてみたんですが、鯛や白いご飯がお皿にたくさん並んでいて、お客さんたちはお酒を飲んで笑っていて、お正月みたいな賑わいでした。店員さん達も、羽衣さんみたいな着物を着ていて、とっても綺麗でした。それで、兄弟みんなでお小遣いを集めて行ったら、子供は来るな、って怒られちゃったんです。もしかしたら、お酒を飲むには小さすぎたからかもしれないんですけど……それで羽衣さんは、そういうお料理屋さんの人なのかなって思ったんです」
澪が田舎の出身だと言うので、俺はそのことを彼の呑気さの理由にしたくなった。けれども、その「料理屋」に入ろうとした彼の兄弟たちは、今頃この思い出を笑い話にしているのだろうと想像できて、やはり目の前の少年が特別に子供なのだと思い直した。
そうして俺は、澪のことが不憫に思えてきたのだった。
「お前さん、この際だから知っておいたほうがいいことだけどな……その料理屋が売ってんのは、飯だけじゃないんだ。その派手な格好の店員は、客に夢を見せるのを仕事にしてる。意味は分かるか?」
澪はぽかんとしていた。夢というのを、何かの喩えだと思っているのかもしれなかった。
この少年はは生来、ものを知るのに遅れているのではないか。そう思った俺は、世の道理を一から話すことにした。
「あのな、人間ってのは、母なる木から生まれるだろ。そんでその母なる木は、ずっとずっと大昔の、二人の神様から生まれたんだ。それは知ってるか?」
「二人の神様……天を司る息の神様と、大地を司る血の神様ですね。二人の神様が、天と地を結ぶものとして、母なる木々を世界中に作ったのです」
澪はすらすらと答えた。彼は田舎者で、歳の割に幼い少年であることには間違いなさそうだが、実はその印象よりも聡明なのかもしれない――俺はそう思い直した。
「その通りだな。そして母なる木は、神を語り継ぐ生き物……つまり人間を、この世界に産み続ける存在となった」
辺りには木霊達が集まっていた。奴らはいつも騒がしいのに、その時は珍しく、俺の話を黙って聞いていた。
「二人の神様は、その身も心も、全て人間に託したんだ。
世界の全てであった神様の欠片は、やがて人間の魂のひとつひとつになった。あるものは花の姿の魂、またあるものは言葉の形の魂を持った。
人間達は神を語り継ぐため、己の魂の姿形を知ろうとする。そしてまた、愛する人の魂を知るため、人間は……」
言い淀んでしまって、澪が不思議そうに俺の目を覗き込む。
「人間はだな、その……何をするかというと……」
「何をするんですか?」
真顔で問われて、俺はますます何も言えなくなってしまった。毎晩仕事でやっていることなのに、いざ面と向かって説明するとなると、妙な気恥ずかしさが邪魔をしていた。
その場の空気を読んでか読まずか、それまで黙っていた白い空気の聴衆が、ことを言い放った。
(チュー スルンダヨ!)
木霊の言葉に、すかさず澪が問い返す。
「『ちゅー』? 何ですか、それ?」
(キャー オメメサン 知ラナインダ!)
(チュー 知ラナインダ カワイイー!)
木霊達が澪の周りに集まってきて、大騒ぎする。俺は蹴散らすのも面倒になって、ため息をついた。
「チューってのは……口づけとか、接吻って言ってな。人間が口と口をくっつけて夢を見る、大人の遊びなんだ」
「口と口をくっつける……それでどうすれば、夢が見られるのですか?」
「舌を……いやその、まあ、色々やり方があるんだよ!」
澪はまだピンと来ていない様子で、ぼんやりとこちらを見ていた。その頃、彼の喉には、まだ例のものが通っていなかったのだろう。
「なんだか、変わった遊びなんですね。口をくっつけて、くすぐったくないのでしょうか」
(ソノ クスグッタイノガ イインダヨネー!)
(ネー!)
澪はふむふむと頷いていた。俺はやつらにげんこつをしようとしたが、すいすいと逃げられてしまった。
「変なこと教えるなっての! こいつが恥をかくことになったらどうすんだ、かわいそうだろ」
そこで澪はやっと、これが何か秘すべき話題であると察したのか、さっきの泣き顔とは違うように頬を赤らめた。
「すみません。私、恥ずかしいお話だとは知らなくて……」
「謝るなって。みんなよりちょっとばかし、知るのが遅れただけだ」
澪はまだ俯いていた。俺はそこで、彼の知りたがっていたことを、まだ話していなかったことに気がついた。
「俺は羽衣って名前で、夢売りをやってるんだ。夢売りってのは、遊君ともいって、さっき言ったようなことを仕事としてやる人達のことだ。お前さんとこの島の料理屋みたいに、店を構えて客を取るのもいるが、俺は街中で客を探してる。夢売りの目印は……この白い帯だ」
俺は自分の首元を指して笑った。澪はやっと顔を上げて、俺の喉をじっと見つめた。
「……羽衣さん。大切なことを教えて下さって、ありがとうございました」
「いや、礼を言われるほどのもんじゃないよ。それより、木霊が見えても木守になっちゃいないのは、お前さんも同じだろうけど……やつらのことは、いつから見えてるんだ?」
俺は、初めて会ったこの少年となぜ語り合おうと思ったのか、その元々の理由を思い出していた。
その時の俺は、彼に淡い期待を寄せていたのだ。
この少年も、自分と同じ境遇の者――木霊を見る身でありながら、木守となる人生を選ばなかった子供――なのではないかと、そう思っていた。
「はい。ひと月前に白い雲のようなものが見えるようになって、今日それが木霊であると気づいたのです。今は、この街で奉公をしているのですが……来年に故郷へ帰って、島の木守様に弟子入りさせていただこうかと思ってるんです」
澪は、初めて俺に話しかけた時の、あの浮ついた仕草でそう語った。
俺はそこで、自分が落胆していることに気づければよかったのだろう。けれどもこの胸は、その心の醜さに耐えることができなくて、彼に期待していたことすら忘れてしまったのだ。
「へえ、最近見るようになったばかりなんだな。この街へ来たのは、いつ頃なんだ?」
「遠ヶ崎へ渡ってきて、一年を過ぎたところです。この山からはちょっと離れてるんですけど、『すえひろ』っていう、靴と洋物のお店で働かせてもらってて……あ!」
そこで澪が立ち上がって、俺に困った顔を見せた。
「ごめんなさい、そろそろ帰らないといけなくって。お夕飯の支度を頼まれてるの、忘れるところでした」
小山の中は薄暗くて、日の傾きが見づらかったけれど、木漏れ日の光が薄くなっているのが分かった。俺と澪は、思ったよりも長く話し込んでいた。
「そっか。お前さんの店、遠いなら急がないとな」
俺達は小屋を離れ、林道へ出ていった。茂みや梢の合間から木霊が顔を出し、はしゃいだ声で客人を見送っていた。
(サヨーナラ!)
(マタネー!)
「今日は話に付き合ってもらって、すまなかったな」
「いいえ! 木霊の見える方と知り合えるなんて、思いもしませんでした。羽衣さんとお話ししたいこと、まだたくさんあるんですよ」
「ほんとか、それなら良かった」
振り向くと、澪が微笑んで隣に並んだ。その後ろを、別れ銀杏の大きな木霊が独りで追ってきていた。
(オメメサント オ別レ 寂シイヨー)
「あら、あなたは……別れ銀杏の木霊さんですか?」
(ソウダヨ! マタ 来テクレル?)
「はい、もちろんです!」
(ヤッター!)
別れ銀杏の木霊は、歌いながら小屋の方へ跳ねていった。
「また遊びにきますね。うちの『すえひろ』は毎月九日、今日みたいにお休みなので……あっ、お家へ勝手に伺っても大丈夫ですか?」
澪が心配そうに尋ねる。俺はこの少年とまた話せることを、心から喜ぶような、それでいて胸騒ぎがするような気持ちでいた。
「……ああ、来てくれよ。昼間は居ると思うからさ」
やがて俺達は、はじめに出会ったつつじの咲く道に出た。澪は立ち止まって、俺の方へ向き直る。
「羽衣さん、今日はありがとうございました。あの……」
そこで澪は、少しだけ言い淀んだ。
「……別れ銀杏のお話、悲しかったけれど、聞けて嬉しかったです」
そう言って澪は、俺の返事を待たずに、淡い木漏れ日の道を下っていった。
その日最後に見た彼の顔は、やわらかく赤らんで見えた。
それが本当の事だったのか、もし本当だとすれば、どんな心がそうさせていたのか、今となっては知ることもできない。
「……ありがとうな!」
俺もお前さんに聞いてもらえて、嬉しかった。
そう言おうとして、俺は今日の日の去っていくこと、これからひと月の間、この身が人々の指のもとへ戻らねばならないことを思い――
そうして、木漏れ日を散らしながら去っていった彼の、もう見えない背中に呼びかけた。
「おうい、お目々さん! 本当の名前は、なんていうんだ」
暗い緑を作る木々の向こうから、彼は朗らかな声で返事をくれた。
「私の名前は、澪といいます!」
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