第五章 別れ銀杏
とわの瞳
初めて澪に呼ばれた日のことは、この身がどんな姿になっても覚えているだろう。
その日、木霊のやつらがひどく騒いでいたから、俺は昼寝を諦めた。無遠慮な木こりでも来たのかと思って声のする方へ向かえば、やつらがひとところに集まって、うじゃうじゃと雲の体を
吊った目つきの、瞳の色は
「あ、あの、お兄さんは、木霊が見えるんですね! えっと……ウイちゃん、っていうんですか?」
澪は浮ついた仕草で道を降りてきた。近くで見てみれば、俺より六つは年下だろうと思えた。顔は白粉もないのに滑らかで、声はなんだか頼りなかった。背ばかり大人みたいに高くて、俺は坂道の下から、そいつの顔を余計に見上げる羽目になった。
「それは、こいつらのつけたあだ名だ」
寄ってきた木霊を手で払うと、何やら高い声で騒ぎながら飛んでいった。澪は少し面食らったようで、すっ飛んでいく木霊を見て慌てていた。
「心配すんな。どうせまた戻ってくる」
「えっ! は、はい……」
澪はやっぱり浮ついた仕草で、俺の目を見てきた。何から話したものかと考えていると、澪は思わぬ言葉を投げかけた。
「お兄さん、もしかして……木霊が見えるということは、木守でいらっしゃるのですか?」
「はあ?」
驚きのあまり、俺は怒ったような声を出してしまった。
「違うのですね、ごめんなさい!」
「いや、すまんすまん」
肩を竦めて謝る澪に、俺は慌てて笑いかけた。
「しかしまあ、お前さん……俺のこの格好を見て、よく木守だなんて思えたなあ」
澪は、俺が笑いながら話していることの意味を、少しも分からないようだった。ぽかんと口を開けて、俺の格好を見直していた。
洋柄の刺繍靴に、肌を透かす
「お洒落な木守さんかと思いました! 違うのですか?」
澪は子供みたいに目を輝かせて、そう言った。いや、実際にあの時の彼は、まだ子供だったのだ。
「……お前さん、ちょっと話さないか? 向こうに気に入りの場所があるんだ」
俺が道を戻っていくと、澪は元気な返事をして、後ろについてきた。歩いていると、散っていた木霊たちがまた集まってきて、ぺちゃくちゃと俺達のことを喋る。
(ウイチャン アノネー)
(コノ人ハネ オメメサンッテ イウノ!)
(オメメサン アノネー)
(コノ怖イ人ハネ ウイチャンッテ イウノ!)
「おい木霊、『怖い』は余計だぞ。……で、お前さんはなんだ、変わったあだ名をつけられてるんだな。お目々さん、って言われてるのか?」
俺が振り向きざまに問うと、澪は照れた顔を俯かせ、答えた。
「はい、そうなんです。なんだかよくわからないんですけど、木霊の皆さんは、その……私の瞳の色が、好きらしいのです」
はにかんでいる澪の瞳は、木陰の下でも輝いて見えた。
そこで俺は初めて、彼の瞳に抱く心を自覚したのかもしれない。けれど、その時の胸に現れたものを捉え直す間もなく、澪は俺のことをあの名で呼んだ。
「ウイちゃんは、どうしてウイちゃんなんですか?」
「……俺は、
「は、はい! 羽衣さん、ですね」
俺の言葉に厳しいものが混じるのを、澪はすかさず感じ取ったらしかった。しばらくの間、俺たちは林道を行きながら、沈黙していた。
しかしその沈黙は、澪の妙に楽しそうな声で吹き飛ぶことになった。
「あ、分りました! 羽衣さんは、木守ではなくて、羽衣という芸名のお役者さんなのですね!」
「ええ?」
再び予想だにしない予想を立てられて、俺はすっかり困ってしまった。このどうしようもなく健気な子供に、浮世の理というものを教えねばならないと考えると、気が重くなってしまったのだ。
これから話すことが増えたものだ、と考えていたとき、俺達の前に
「ここが、俺の家……ってほどじゃあないが、時々寝泊まりに使ってんだ。いいとこだろ」
「わあ、すごい……!」
澪は年季の入った小屋を見て、そしてその隣に聳える巨樹――枝からつららのような根を垂れ下がらせた、銀杏の老木――を見上げ、目を輝かせた。
「こんなに大きな銀杏の木と、その側のお家……なんだか、木守のお家みたいです!」
澪は銀杏の下に駆けて行って、垂れた根にそっと触った。幹に大穴も無ければ、注連縄も巻かれていないけれど、ひと村の母樹と呼ばれてもおかしくない気迫を持つ、そんな銀杏の大木だった。
「この木はな、『別れ銀杏』っていうんだよ。少し、昔話でも聞いてくか?」
小屋の戸を開け放ち、入り口に腰掛けて、澪に声をかけた。澪はぱっと振り向くと、かむろの髪を翻しながら駆けてきた。
「はい、ぜひ! 何かの言い伝えがあるんですね?」
澪を隣に座らせて、俺は別れ銀杏の話を語り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます