甘美なる夢と甘くはない世界
近頃のキャンディ・レンジャーはご機嫌だった。何しろあの──社交界では憧れの的だというリチャード・ガードナーが自分の元へ足繁く通ってくれるのだ。例えその眼差しが熱を帯びていなくとも構わなかった。リチャードが自分を気にかけてくれている、それだけで使用人たちの自分を見る目が変わったのだから。
「どうかな、エミリ。ちゃんとできてる?」
「ええ、もちろん。美味しそうな匂いがしますでしょう?」
「ん、……ホントだ」
オーブンから取り出したばかりのクッキー。前世と比べ、この世界は何かと勝手が違う。だからクッキーひとつを作るのにも緊張してしまう。
でも上手くいったみたいでよかった。キャンディはホッと息をつき、額に滲む汗を拭う。その横でレディス・メイドのエミリはてきぱきと手を動かしている。
「リチャード様もきっと喜んでくださいますわ」
はい、と渡されたバスケットを手に、キャンディは厨房を出る。
足取り軽く、向かう先は図書室。この屋敷には三つあって、それはとても恵まれていることなんだとか。リチャードが言っていたから、それが正しい評価なのだろう。キャンディにはよくわからないけれど。
勤勉な彼が僅かに目を輝かせていたことを思い出して、キャンディはちいさく笑み溢す。増え続ける蔵書は兄の趣味らしく、だからキャンディにとってはまったく興味のないことなのだけど、それでリチャードの気がひけるなら使わない手はない。
「やっぱりここにいたのね、リチャード様」
静寂の満ちる室内。背の高い書棚の群れは威圧的で、キャンディは咄嗟に兄の顔を思い浮かべる。
部屋は持ち主を映す鏡だ。分野ごとに分けられた本も、女が使うことを考慮していない造りの書棚も。兄の神経質な表情、冷ややかな目を眼裏に描いてしまうのはしごく自然なことだった。
「キャンディ嬢、」
しかしリチャードの完璧な微笑を目にすれば、不愉快な兄の顔などあっという間に吹き飛ぶ。
「何やらよい匂いがしますね」本を閉じるリチャードの元へ歩み寄りながら、キャンディは笑った。
「クッキーを焼いたの。リチャード様に食べてほしくて」
「それは……光栄ですね」
リチャードは窓を背にして立っていた。
キャンディは眩しさに目を細める。理由はひとつ。差し込む陽によって、リチャードの淡い色の髪が燃えるようだったからだ。
これが手に入るなら──その時はどれほどの充足感を得られるだろうか。そしてそれは今、キャンディの手の届くところにあるのだ。
ならば賭けてみるべきだろう。この図書室のように窮屈な伯爵家から抜け出すためにも──
「ですが私だけがいただくのは申し訳ない。友人たちにも分けてやらないと」
しかし続く言葉に、冷や水を浴びせられた気分になる。
「友人……」
それが誰を指すものか。考えないように、思い出さないようにしていた顔が、その姿が、ドロドロとした感情と一緒に噴き出す。
メイベル・ロックウェル──忌々しい、この世界の異分子。キャンディの知る物語の中では二人に接点などなかったのに。なのに今、キャンディの目の前にいるメインキャラクターは、脇役に過ぎない女のことを『友人』と呼んだ。
──あの女さえいなければ、私だってこんなつらい思いしなくてすんだはずなのに!
「……そうですね。せっかくなんですから、皆さんにも食べていただきましょう」
叫びたいのを我慢して、キャンディはにっこり笑う。でもリチャードのように上手くできたかは自信ない。
もしかしたら口許が引き攣っているかも。そう危惧したけれど、リチャードが指摘してくることはなかった。
変わらないその微笑みに、キャンディは初めて腹立たしさを覚えた。
「まぁ!キャンディさまがお作りになられたの?」
「凄いわ」と素直な称賛をくれたのは、皮肉にもメイベル・ロックウェルだった。彼女はひどく感心した様子でクッキーを見つめ、キャンディに笑いかけた。
「たいへんだったでしょう?オーブンを使うなんて、朝から支度をしなくてはなりませんもの」
「煤が溜まると熱電導率が下がるからな。せめて掃除がしやすくなればいいんだろうが」
「ということは導電性を保つことのできる……、そういったもので覆うことができればよいのでしょうか?」
「ああ、……そういえばそんな話をちらりと聞いたことがある」
メイベルとユリウスがよくわからない話題で盛り上がっているのを、キャンディは冷めた目で眺める。
あの偏屈な──機械いじりが趣味の変人が、人間の女を相手に口許を緩めているなんて!『お高くとまっていても所詮はただの男ってことね』と嫌みを言いかけて、キャンディは人目があることを思い出す。兄に対して今さら遠慮などはないが、静かにティーカップを傾けるリチャードに失望されるのだけは困る。
その代わりに。キャンディは「お二人がこんなに仲良くなるなんて」と、大袈裟に驚いてみせた。
いっそのこと、この二人が結ばれてしまえばいい。そうしたらきっと、リチャードだって────
「いやいやいや、ユリウスなど僕に比べたらまだまだだと思うけどね」
キャンディはすっかり興味を失っていたのだけれど、レンジャー家のあずまやにはレオナルド・クレイトンもいた。
彼はキャンディの作ったクッキーには目もくれず(キャンディ自身、彼に興味などなかったから別に構わないのだが)、ローストビーフ入りのサンドイッチを頬張っていたのだが。しかしキャンディの言葉にパッと顔を上げ、切々と訴えかけてくる。
──キャンディに、ではなく、メイベルに向けて。
「そうだろう?メイベル嬢。こんな鹿爪らしい男より、僕との機知に富んだ会話の方がずっと面白いよね?」
「さて、どうかしら。少なくともわたくしはユリウスさまのお話、つまらないと思ったことはありませんわ。とても勉強になりますもの」
「そんな!」
それはこの世の終わりとでもいわんばかりの表情だった。「考え直してくれ!」と、メイベルの手を取る仕草もまたやけに芝居がかっている。
……なんてバカバカしい光景だろう。
キャンディは内心呆れた。初めて会った時はレオナルドのこともカッコいいと思ったけれど、その記憶さえ今となっては遥か彼方。
たかが子爵令嬢ごときに「急に手を掴まないでください」と怒られている姿も、「すまなかった、許してくれ」と縋りつく姿も。何もかも下らなくて、バカバカしくて、見ているのもイヤになる。
「ごめんなさい、キャンディさま。せっかくくださったクッキーを落としてしまって」
「謝らないで。クッキーの一枚くらい、気にしてませんから」
……本当に。だってそうでしょう?どうせこの人に食べられるなら、地面に落としてムダになったとしてもそこにはさしたる差はないとキャンディは思う。
なのにメイベルときたら「お優しいのですね」などと感激した様子。単純すぎて、ヘドが出る。
バカみたいだ、みんなして。私がどれだけ必死で、つらい思いをしているのかなんて、みんなみんな、知らないくせに──!
「もう一枚いただいてもよろしいかしら?」
「ええ、どうぞ」
「──いや、ダメだ」
初め、その声が誰の口から発せられたものなのかキャンディにはわからなかった。視線を巡らし、そしてようやく、それがレオナルドのものであると知った。
いったいなんなの?どうしてそんな強ばった顔をしているの?訊ねようとして、レオナルドの視線の先に目をやり──キャンディは喉奥を引き攣らせる。
「それ、は」
それは小鳥だった。おやつの時間になるといつも庭先に集まってくる、小鳥たち。必死で菓子くずに群がる姿が可愛らしくて、──でももうその嘴が餌にありつくことはないのだ。
赤色の泡をふいて地に倒れ伏す小さな体。足元に広がる凄惨な光景に、キャンディは戦慄く唇を止められない。
「誰か、警察、」
咄嗟にそう呟いたのは前世の知識ゆえ。なのに同じ記憶を持つはずのメイベルが、「いけないわ」と静止の言葉を放つ。
「それだけは絶対にだめ。キャンディさまも、どうか何事もなかったように振る舞って」
「なんで、どうして……っ」
「少し考えればわかることだろう」
冷静に、冷徹に。怯える妹を気遣うどころか、一瞥すらせずに、兄のユリウスは地面に膝をつく。
「原因はこのジャムか?」
「マーマレードかな。そういえばまだ誰もこれには口をつけていなかったね」
「ああ、私がいただいたのはベリーとアンズだった」
ユリウス、レオナルド、リチャードが囁き合う。それをキャンディはどこか遠くから眺めていた。
まるで液晶越しに見ているみたい。それも当然か。だってこれはゲームなんだから。ゲームの世界なんだから、だからこんなのフィクションで、空想で──夢の中なら、怖いことなんて何もない。
なのにどうして上手くいかないんだろう?私はただ、幸せになりたかった。それだけなのに、どうしてみんな──みんなして、私をそんな目で見るの?
「……私じゃない」
「キャンディさま、」
「……っ、さわらないで!!」
伸ばされた手を払いのけ、キャンディはメイベルを睨み据える。
ぜんぶぜんぶ、この女のせいだ。上手くいかないのは、きっと、異分子がいたから。だからみんなして私を疑うんだ。純粋無垢の仮面を被った、悪魔のような女。こいつさえいなければ、この世界はゲームのシナリオ通りに進んだはずなのに!
「私じゃない、私はやってない!あんたが、あんたが私を陥れようとしてるんだっ!」
憎悪の炎が、キャンディの意識を呑み込んだ。
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