新たな影と真相 ─ 3
床を叩く脚ごと体を抑え込もうと、奏が肘をめり込ませたまま体重をかける。いっそう軋んだ外殻に、蠅が長い触角をうねらせた。
瞬間、青い光が弾ける。咄嗟の機転で跳びすさった奏が、チッ、と舌を打った。
「難しいな。電気が厄介」
「無理しなくていい、気を付けろ。そんな電圧、まともに喰らったら、たとえお前でも即死――」
己の放った言葉を、半ばで将之は呑みこんでいた。
電気、死。
頭の中で明滅する単語が、一つの可能性を導き出す。
「橘さん……おじい様は、心臓にペースメーカーを入れていたとか?」
「え、ええ。そうです」
視界の中で、のそりと起き上がった蠅と奏が睨み合った。蠅の周囲では、相変わらず電撃がバチバチという音をたてている。繊細な精密機械を狂わせるには十分すぎるほどの、凄まじい力。
「死因は心臓発作でしたね。もし、あの寄生体が時計に寄生したのが、ハリネズミが現れる、つまりおじい様が亡くなるより前だったら」
「……え?」
嫌な想像に、口の中が乾く。唾を飲み込み、将之は一気に語った。
「時計がおかしな時間に鳴っていれば、当然、おじい様は修理のためにそばへ寄る。そこで、たとえ今ほどの電圧ではなかったとしても、電撃を受けたとしたら」
ペースメーカーは、少しの電気刺激が命取りになる。あんなものは、言うまでもなく凶器に等しい。将之の言わんとすることを察したのだろう。蒼白になった時子は、その場にへたり込んだ。
そんな彼女の隣で、ギィギィという声が上がった。声の主は、部屋の隅に置かれた机のうしろに隠れていたハリネズミだ。言葉を解したわけでもなかろうに、丸い瞳を精一杯に怒らせて蠅を睨みつけている。
その剣幕に将之が気を取られていると、ダン、と前方で床が踏み鳴らされた。奏だ。
深紅の複眼に映る顔に表情は無いが、だからこそ分かった。あれは怒っている。それも、とびきりの地雷である。
するりと表情が抜け落ちた、人形のような
普段が陽気で闊達なので忘れそうになるが、この相棒の怒りは泣くでも喚くでもなく、ただただ感情だけを消し去るのだ。音がするほど、強く拳が握りしめられた。
それでようやく落ち着いたのか、平坦な声で彼が問いかける。
「マサムネ。判定は?」
淡々とした声に、将之は大きく一度深呼吸する。
「人間への攻撃行動を確認。判定ブラック。当該寄生体の駆除作業に移行する」
「了解」
答えた時には既に動いている。
全身のばねを遺憾なく発揮し、奏は一足飛びで蠅を間合いに捉えた。だが、リーチは相手のほうが上だ。
長い脚が、鞭のようにしなった。無数の細かい毛が床をこする、身の毛もよだつような不快音。それを打ち消すように奏が吼える。
「しゃらくせえ!」
強引な踏み込み。相反するように、刻まれるステップは機械じみた正確さで、相手の動きのことごとくを見切っていた。
向かってくる脚を最小限の動きで躱し、あるいは流れに逆らわずにいなし、あっという間に懐に潜り込んだ身体が沈む。
「――ふっ!」
ついで響いたのは、圧縮された空気が打ち出されるような、くぐもった風切り音。
跳ねあがる勢いをのせた掌底に口吻を抉られ、蠅の頭がもげそうなほど後ろに反り返る。
即死ものの攻撃だが、生憎と、この相手の肉体は疑似的なものでしかない。反り返った頭部が、気持ち悪いほどの勢いでもってぐるりと正面に持ち直される。
お返しとばかりに、その巨体が傾いだ。
真下にいる奏を押し潰す腹積もりだったのだろうが、一足遅かった。無数の複眼が捉えた先の床に、奏の姿は無い。
「こっちだ、デカブツ」
声は、蠅の真後ろから響いた。浮き上がった尾部が垂直に蹴り上げられる。崩した体勢が仇となり、蠅の身体はあまり美しくない前転とともに床に転がった。
腹を見せた無防備な体勢。伸ばされた三対の脚がわさわさと不格好に宙を泳ぎ、激しく上下する翅が床を滅茶苦茶に叩く。駄々っ子のような動きだが威力は絶大で、店全体が小刻みに揺れるほどであった。
かろうじて無事だった壁の時計が、次々と床に叩きつけられてスクラップへと変えられていく。
「この……! いい加減にしろよ」
小さく毒づいた奏が、翅を避けて空中に身を躍らせる。本来なら、重力の勢いに体重をのせた一撃が蠅の胴体へと叩き込まれるはずだった。そう、本来なら。
打突音に先んじて響いたのは、空気を焼く乾いた音。まだ空中に身体がある奏に、青白い電撃が正面から牙を剥いた。
地に足がついていない以上、姿勢を変えることは不可能だ。それでも、驚異的な反射神経と柔軟性でもって身体を捻った奏は、致死性の一撃を強引に回避する。
大きくバランスを崩したまま、蠅を飛び越えた先に肩から突っ込むような形で着地。衝撃を殺すために床を一回転し、勢いを利用して片膝立ちへ移行する。
その真正面には、すでに蠅の顔があった。
「……っ!」
声を上げる間も無く、小柄な身体がトラックに撥ね飛ばされたかのように宙を舞う。
衝撃で意識が飛んだのか、投げ出された手足が体勢を立て直す気配は無い。背中から窓へと叩きつけられた奏は、勢いのままガラスを突き破って外へと落ちていった。
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