電機寄生体 ─ 4
「ええと、その」
つまりどういうことでしょう。
などと、懇切丁寧に説明してくれている将之に言えるはずもない。いや、きっと彼のことだから、その場合は時子にも分かるように、もっと噛み砕いて説明してくれそうではあるが。起こった事態がとんでもなさ過ぎて、説明がまったく頭に入ってこないのだ。
冷や汗を流して固まる時子に、「ふむ」と将之が小首を傾げて立ち上がった。
「奏、何か小さな……手の中に入りそうなもの、その辺に無いか?」
「これでいいか?」
声をかけられた奏が、右耳にだけつけていたイヤーカフを将之の掌に落とす。シンプルな黒いそれを、将之は目の高さにまで掲げて見せた。
「いいですか、橘さん。これがハリネズミです」
「は、はぁ」
将之はイヤーカフを右手にのせたまま、左の掌も天に向ける。
「左手が実数次元、つまり我々が存在している世界です。そして、右手が虚数次元」
それぞれの手を軽く上げ下げした将之は、次にその手を水平に移動させて上下に重ねた。右手――ハリネズミに見立てたイヤーカフがある『虚数次元』が上、左手の『実数次元』が下だ。左手を握ったり開いたりしながら、将之は説明を続ける。
「実数次元と虚数次元は表裏一体です。通常、我々が認識できるのはこの実数次元上の世界だけですから、上の階層にハリネズミがいたところで分かりません」
「はい」
「だから、このハリネズミを実数次元に引き摺り落として」
傾けられた右手からイヤーカフが零れ落ち、待ち受けていた左手の上に場所を移した。
「実数次元でも見て、聞けて、触れるようにしました」
「見て聞けて、さ、触れる?」
思わず時子は声を裏返して叫んでしまった。簡単なことのように語っているが、本当だとすれば大変なことだ。
時子の大声に驚いたのか、おとなしくしていたハリネズミが「ヂッ!」と声を上げて飛び上がった。床に影が落ち、続けてポテンと微かな音。それだけの些末な物理現象が、ハリネズミに確かに実体があることを示していた。
「オレは虚数次元に潜む電機寄生体を、正確には、実数次元の機械へと注ぎ込まれるエネルギーの流れを視認できます。寄生体が機械にエネルギーを注ぐために繋ぐ、言わば回路が、実数次元と虚数次元を繋ぐ唯一のアクセスポイント。そこで登場するのが」
将之に視線で促され、奏がステッカーを親指で示す。
「このステッカー。別名、コネクトチップ」
「いや、そんな別名は知らん」
「えー、マサムネもいい加減認めてくれよ」
唇を尖らせて訴える奏の右手にイヤーカフを返し、将之は話を再開させる。
「こいつを機械のアクセスポイントに貼り付けて、中に仕込んだチップを起動させると、エネルギー回路を逆に辿って寄生体に特殊な信号を送りこみます。すると、周波数を合わせるようなイメージで、電機寄生体のチャンネルを強制的に実数次元に合わせ、虚数次元に存在する実体にこちらの次元でも質量を与えられる。つまり、引っ張り出すことができるんです」
さっきよりは大分とイメージしやすくなった。時子は頭の中を整理し、慎重に吟味して確認する。
「そのハリネズミは、本当はこの世界にはいない電機寄生体を、伊達さんが実体化したもの、ということでしょうか」
「呑み込みが早くて助かります」
嬉しそうに将之が笑った。
屈託のない笑顔に、時子は恥ずかしくなり顔を下に向ける。苦手意識を持っていた科目で、教授に思いがけず褒められたような気分だ。こうなってくると、時子のほうも興味が湧いてくるというものである。
「寄生体って、どれもこんな姿をしているんですか?」
「いえ、個体によって全く異なります。ただ、電機寄生体は人間生活ありきの生命体なので、実数次元に存在するものの外見を模していることがほとんどです。生物のこともあれば人工物のこともありますし、オレが今までに見たものだと例えば――」
「楽しく語ってるとこ邪魔して悪いんだけどさぁ、マサムネ君」
イヤーカフをつけながら、奏がのんびりと遮った。「お?」という顔を向ける将之に。
「こいつ、ほっといていいの?」
目の動きだけで奏が示した床ではちょうど、隙をついたハリネズミが走り出したところだった。
「わあ、待て待て。どこに行く気だよ?」
ハリネズミは将之の言葉には耳も貸さず、その股下を潜り抜ける。そういえば当の寄生体のことをすっかり置き去りにしていたことに、遅まきながら時子も気が付いた。
取り逃すまいと慌てて飛び出しかけた将之の大きな初動は、しかし、ハリネズミがすぐにぴたりと逃走を中断したことで無駄に終わった。
ハリネズミが足を止めたのは、出現場所から二メートルも離れていない場所だ。勢い余ってつんのめりそうになる将之には目もくれず、ハリネズミは「キィ、キィ」としきりに鳴き始める。
「なんだ?」
「何か、訴えようとしてる?」
将之と時子が二人して首を傾げるが、ハリネズミは当然ながら答えない。二人の声とて聞こえているのか怪しいもので、まるで「それどころではない」とでも言いたげに、ハリネズミは一生懸命に、カリカリと床を引っ掻いている。途方に暮れた二人がハリネズミを見下ろしていると。
「『タスケテ』」
と、不意に奏が呟いた。
彼だけは、ハリネズミが走り出してもその場に佇んでいたのだが、今も動かずにイヤホンコードを指先で弄っている。
白いコードが、店内の暗い照明を反射してくるくると回る。時子と将之が見つめる前で、彼はさらに口を開いた。
「『タスケテ、タスケテ』、って。そう言ってる」
素っ気ない口調のまま己の指先を見ていた奏の横顔を、思わず時子は見やってしまう。
その口調からも表情からも、冗談を言っているようには聞こえなかった。そもそも、彼がそういった類の話で笑いを取る人間でないだろうことは、短い付き合いの時子ですら分かる。
時子の怪訝な視線に気が付いたのか、奏がぱっと顔を上げた。目が合った瞬間、彼の目に気まずそうな光が一瞬だけよぎる。
だが、その正体を追求するより早く、奏は何かを誤魔化すような微妙な笑みを浮かべた。
「……ような気がする?」
「は、はあ」
返事に窮した時子は将之を伺うが、彼が追及する気配は無い。例によって眉間に親指を当てて、何ごとか考え込んでいるようだった。
将之が見つめる先には、相も変わらず床を引っ掻くハリネズミがいる。その足元には何も無く、見ようによってはひどく滑稽に感じただろう。だというのに、一心不乱に小さい爪を動かす様には鬼気迫るものがあり、笑うことを躊躇わせた。
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