ブラックマリオネット
透峰 零
File.01 おじいさんと古時計
駆除事務所
夜も迫る夕暮れの中、ぽつぽつと立ち並ぶ雑居ビルの一つ。その二階部が、彼女の目的地である。そのはずである。
ごくりと固唾を呑み、彼女はポケットからビラを取り出して目を走らせる。この動作も、ここに着いてからもう三度目になるだろう。
【
間違いない、ここだ。
意を決し、時子はもう一度ビルを見上げた。
築十年は優に超えていそうな古びた外観。壁の塗装もところどころ剥げ落ち、元は白かっただろう色は長年の風雨で灰色に変じている。一階はコンビニになっており、『デイリーヤマト』の看板が表に出ていた。
それはいい。問題は、その入り口の横にぽっかりと口を開けた薄暗い階段のほうには、なんの案内も出てはいないことだ。その先の物件情報を記すものなど、言わずもがなである。
つまるところ、今から向かう先は女子大学生が一人で足を踏み入れるには、やや勇気を要する場所ということだ。
だが、いつまでも迷っているわけにはいかない。いざとなれば携帯だってあるし、面倒なことになる前に逃げ出せばいいのだ。自分にそう言い聞かせ、最後に一応手鏡で身だしなみをチェックする。面接や説明会に赴くことが多くなり、自然とついた癖だった。
後ろで纏めた暗めの茶髪にも、トレンチコートにも乱れは無い。目つきは少しキツいかもしれないが、これは生まれつきだし許してもらおう。硬い表情だって、相手の出方次第だ。
「――よし」
最後に自分を鼓舞するように一つ頷き、時子は足を踏み出した。
狭くて暗い階段を上がりきった先の奥にある一枚の扉。そこにかかる看板を見た時子は、思わず「あった」と呟いてしまった。
【伊達電機寄生体駆除事務所】
金属のプレートに細めの明朝体で書かれた名称はやはり仰々しく、建物の外観以上に時子の不安を煽るには十分なものだった。
だが、これ以上の時間消費は許されない。手首の腕時計に目を落とす。ビラに営業時間の記載は無かったが、それがむやみと遅い時間に訪問していい理由にはならないだろう。覚悟を決めると、時子はインターホンの呼び出しボタンを押し込んだ。
指を離すと同時に響くのは軽快なチャイム音。就職活動で鍛えた笑顔でもって、時子は相手の反応を待ち構える。その間に、道程で考えていた挨拶を再シミュレーションして準備を整えることも忘れない。
――が、笑顔で固まる時子をよそに、インターホンからはなんの応答も無かった。
ピンポーン、という間の抜けた音は埃っぽい廊下を虚しく反響し、そして消えた。
「……あれ?」
軽く首を傾げるが、それで何が変わるわけでもない。金属の看板は相変わらず冷たく時子を睥睨しているし、扉が開く気配も無さそうだ。
仕方なく、今度は控え目に扉を叩いてみる。だが、結果は同じだった。
これで駄目なら帰ろう。
溜息をつき、時子は駄目元でドアレバーに手をかける。
なんの抵抗も無く、レバーは下がった。
「え」
中から鍵を開けられたのではない。最初から、鍵はかかっていなかったのだ。
「ごめんください?」
ドアを少しだけ開け、小声とともに時子は中を覗き込む。
まず、目に飛び込んできたのは正面奥のデスク。そこに座り、時子――ではなく、デスク上のモニターを、指を組んで睨みつけている青年。
耳に飛び込んできたのは、健やかな寝息。青年から手前に視線を動かすと、時子のすぐそばに置かれたソファでは、漫画雑誌を顔にのせたまま眠りこけている少年らしき姿がある。
「えっと……」
もう何度目になるか分からぬ戸惑いの声を時子が上げた時だ。不意に、人間とは異なる機械音声が室内に響いた。
『プログラム実行処理が完了しました』
「よっしゃあ、動いたあああ!」
同時に上がる歓喜の叫び。両手を突き上げて全身で喜びを表すのは、モニターを睨みつけていた青年である。さっきまでの静けさはどこへやら。ハイになったテンションのままにモニターをペシペシと叩いている。
「ったく、挙動不審にフリーズなんかするなよな、ハラハラするじゃないか。しかしこのステップ数をノーエラーでオールクリアとは、いやあ、流石はオレ」
ご機嫌のままコーヒーを啜った青年が、ようやく顔をモニターから上げた。
「…………」
漫画なら「ばちり」という擬音が入るだろうか。笑顔のまま、青年が硬直する。
フォローのしようもないので、時子も強引に笑顔を作り、さっきまで脳内でシミュレーションしていた言葉を口に出した。
「あの。こちらは、駆除を請け負っている事務所、で、合っていますか?」
ぎこちない時子の確認に、青年の顔が瞬時に赤く染まった。
「駆除依頼ですか? た、大変失礼しました。どうぞ中へ!」
ガタガタと椅子を蹴立てて立ち上がった青年は、恥ずかしさを誤魔化すためかソファに大股で向かう。恐らくは応対用だろうソファを堂々と占拠して寝こける少年の顔から漫画雑誌を取り上げ、青年はその肩や頭をペシペシと叩いた。トドメとばかりに、少年の耳にあるイヤホンを外して呼びかける。
「おい、
「え、ガジラが東郷湾に出現……?」
「寝惚けてる場合じゃない、お客様だ! 依頼人! クライアント!」
青年の叫びに、ようやく少年が身を起こした。好き放題に跳ねた明るい茶髪が、もぞもぞとソファの背もたれから顔を覗かせる。
「はあ? おいおい、マサムネ。パソコンの見すぎでついに幻覚が見えるように」
少年の言葉が途中で止まる。頭を持ち上げた拍子に、時子と目が合ったからだ。
こちらは青年と違って表情を変えること無く、落ち着いた動作でソファから起き上がった。足元に置いてあったスニーカーをきちんと履き、何事も無かったかのようにソファを丁寧な動作で整え――おもむろに青年の肩に腕を回すと、事務所の奥へ引っぱっていく。
時子に背を向ける形で、二人は声を潜めて話し合いを始めた。もっとも、狭い事務所であるためその内容は時子にも筒抜けなのだが。
「マジ?」
「マジだよ。久しぶりの
そわそわと腰を浮かしかける青年を強引に押さえつけ、少年が顔をしかめる。
「ねーよ。この前、カビ生えてたから捨てただろ。インスタントコーヒーにしようぜ」
「そうだな、じゃあそっちは任せた。というか奏、熟睡しすぎ。おかげでとんだ醜態を曝したぞ」
「マサムネが話しかけても全く反応してくれなくて暇だったんだよ。そっちこそ熱中しすぎ」
「ええい、うるさい。デバッグ終わるまでが遠足ですって習っただろう!」
「習わねーよ!」
びしりとツッコミを入れると、少年はさっさと給湯スペースに走り込んでいった。
その後ろ姿を何ともなしに見送っていた時子は、青年へと視線を戻す。彼のほうはというと、机の上の漫画や用途不明の機械部品を乱雑に隅へ追いやって、なんとかスペースを作ろうとしているところだった。
逃げる心配は無さそうだが、本当にこの事務所は大丈夫なのだろうか。
笑顔を引き攣らせたまま、時子の胸には事務所を見上げていた時とは別種の不安がむくむくと膨れ上がっていった。
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