57 失恋


 昼休みが終わってから、倉科さんは元気が無く、酷く落ち込んでいた。理玖も憔悴しょうすいしきっており、どよーんとしていた。瑞季は何かを察したが、今はそっとしておく事にした。


 その日、理玖は彼女とは一言も喋らず、一日を終えた。


 明日には、前みたいに普通に会話出来ればいいなーと理玖は内心思っていたが、彼女の心の傷は深かった。もう取り返しのつかないくらい、死にたいくらい、彼女は落ち込んでいる。この世の終わりみたいな顔で俯せになっている。


 一方で瑞季は図書室で猫の写真集の本と恋愛のハウツー本を借りていた。それは彼女なりの二人の力になりたい、という意思の表れだった。瑞季もまだまだ恋愛初心者だ。でも、少しくらいのアドバイスなら出来るはず。


 図書室から出ると、理玖が丁度前から歩いてきた。


「遅かったじゃない」


「ごめん」


 いつもなら、お前を待ってたんだよ! と理玖が言うところなのに、今日は違った。こんな日は今までで一度も無かった。


「ほんとにどうしたの? 絶対、何かあったでしょ。倉科ちゃんの様子も変だし」


「何も、無いよ。ちょっと顔を水で洗ってたから遅くなっただけ」


 瑞季は理玖が目を赤く腫らしている事に瞬時に気づく。だが、気づかないふりをする。


「ふーん、そっかぁ……」


 帰り道、理玖の口数は少なかった。


「ヤマシタ・ベーカリー寄る?」


「ううん、今日は寄りたくない気分なんだよな」


 そうして、今日は真っ直ぐに家に帰った。


 ***

 倉科宅


 私はバイトを休んだ。休んじゃいけないって分かってても、今日はいち早くベッドで眠りに就きたかった。寝たい。寝て忘れたい。そんな思いに駆られる。

 ベッドで足を崩して座った時に耐え難い悲しみが襲ってきた。涙が目から溢れ出す。感情がせきを切ったように、嗚咽が止まらない。


「ううう、……わああああん!」


 こんなに大泣きしたの、いつぶりだっけ。ティッシュがいくらあっても足りないよ。


 母と妹の心配する声が聞こえたが、構わず、私は泣き続けた。


 悲しかった。苦しかった。

 これも全部、一条くんのせいだ。

 私の勇気や気持ちは何だったんだろう。裏切られた気分だった。もう立ち直れない。


 これから新しい恋なんて出来る気がしなかった。


 音楽を聞いても、ぬいぐるみを抱きしめても、テレビをつけても、つらくなるだけだった。悲しみは消えてくれない。涙は止まらない。


 泣きながらスマホを開いた。通知は何も無かった。それでも辿り着いたのは、メッセージアプリの画面。連絡先のリストに『理玖くん』という宛先があった。

 私は本人の前以外では名前呼びしている。それは私だけの秘密。

 その宛先を『削除しますか? YES、NO』という画面に何度もなり、逡巡した。


 数々の思い出が蘇る。スタンプを買った。猫の写真を送った。バイト先に連れていってくれた。沢山お喋りした。喧嘩もした。それは一年という短い間だった。けど、そのどれもが楽しくて、いとおしかった。


 でも、もう好きじゃない。彼も私を好きじゃない。だから消していいような気がした。


 最終的に連絡先を消してしまった。時が止まったような気がして、空虚感に包まれる。


「酷いよ……理玖くん」


 全部を彼のせいにするなんて、酷い。自分が一番酷かった。けど、それしか自分の心が軽くなる方法が見つからなかった。彼は連絡先から私の名前が消えたらどう思うのだろうか。


 連絡先を消し終わった私はベッドに横になった。

 すると、一条くんの顔が何度も脳裏に浮かぶ。忘れたいのに忘れられない。


 しょうがないから大量の睡眠薬を飲んで、目を閉じた。しばらくして、私は凄まじい眠気に襲われ、眠りに就いた。


 ***


 次の日。

 倉科さんは少し遅れてやって来た。まだ連絡先を消された事には鈍感だからか、俺は気づいていなかった。


 いつものように彼女に挨拶をする。彼女は暗く、俯いている。学校一の美少女を振ったって事が学園中にバレたら、まずい事になるんじゃ……と今更ながら危機感を抱いた。特に井上くんにバレたらただじゃ済まされない。でも、過ぎた事だ。今更どうにもならない。


「倉科さん、おはよう」


「……」


 目も合わせてくれず、無視された。


 でも、めげない! 何度でもトライだ!


「倉科さ――」


 話しかけようとした瞬間、倉科さんは立ち上がり、教室を急いで出て、トイレへと向かった。

 呼び止めようと思ったが、行ってしまった。


「ダメか……」

「なんか倉科さんに避けられてる気がするんだけど……」


 流石の俺も傷つく。何年もボッチやってきたけど、今まで積み重ねてきた友情を考えるとつらい。


 傷つけない振り方をしたつもりなんだけどなぁ……。でも、彼女は俺の何十倍も傷ついて苦しんでいる事を俺は理解していなかった。


 俺の小さな呟きを拾った瑞季がこう言った。


「何かあった? 確かに避けられてるね。謝ってきたら?」


「謝るとかそういう事案じゃない。もう言っちゃった事だし――って、瑞季には関係無い」


 瑞季は目を丸くし、身をすくめた。そして、少し怒りを含めた表情に変わった。


「じゃあ、今はそっとしておいてあげたら? それに関係無いって何よ。理玖も倉科ちゃんも大切な友達なんだから。関係無いって事は無いわ」


 確かにそうだな、と頷く。


 倉科さんに『これからも変わらず、友達として仲良くしてほしい』というメッセージを送ろうとして、メッセージアプリ画面を開くとリストから『倉科さん』の連絡先だけが消えていた。リストには数少ない人しか登録してないので、すぐに気が付いた。


 こんなの、嘘だろ……!?

 振っただけで、関係は絶ち切られるのか?


 友達でも恋人でも何でも無くなる。ただのクラスメイト。知り合い。赤の他人。そんなの嫌だった。許せない。倉科さんとはもっと話したかった。今まで通り、仲良いままでいたかった。

 それは自分勝手な都合で我が儘かもしれない。だけど、その思いを押し通したい。


 一方、倉科さんはトイレで泣いていた。俺の顔を見るだけで、涙が止まらなくなるらしい。



 数日後の昼休み。

 少しは傷も癒えたことだろう、と思い、倉科さんを昼飯に誘った。


「なあ、久しぶりに一緒に中庭で昼飯食べない?」


「……」


 彼女は天井を見上げて、息を整えた。そして、顔を隠す素振りを見せた。


 ん?


「今は一条くんの顔も見たくないの、だから、ごめんね……」


 そう告げると倉科さんはお弁当箱を持って去っていってしまった。すごく消え入りそうな声音だった。傷つき、悲しみ、底にいる者の声。誰か助けてほしい。そう訴えかけられているような気がした。


 まさか、トイレで食べるわけじゃないよな? それだけはやめよう。


 倉科さんが向かった先は保健室だった。体調が悪くも無いのに教室で食べたくないから、保健室に来た。


(酷い事言っちゃったよ、私。顔も見たくないだなんて……)


 倉科さんも少々反省はしていた。けど、謝るつもりは微塵も無かった。



 俺は倉科さんを誘えなかったので、結局瑞季と教室で食べる事になった。


「顔も見たくないって……ひど、酷くない? ショック。わーん」


「そういう悪口言われ慣れてるんじゃなかったの? 私も理玖の顔見たくない」


「ひどっ。今のって何だよ。瑞季に言われるのと倉科さんに言われるのは全然わけが違う」


 泣き顔がって事か? ああ、そうだな。みっともないよな。恥だよな。


 けど、瑞季が言う今の理玖の顔が見たくないというのはそういう意味じゃなかった。今の俺は最低で目もあてられないくらい、愚かだった。失恋した彼女の気持ちにも寄り添ってあげず、自分のことだけを考える。前みたいに普通に仲良くしてほしい、という我が儘な想いを抱いて。振ったのは自分の言動なのに、その後の末路は受け入れない。本当に目もあてられないくらい、今の俺はくよくよしてて、最低だった。


 ***

 別日の理科の実験でのこと。

 俺と倉科さんは一緒の班になった。


 実験中、二人でやらなきゃいけない事を倉科さんは一人で勝手に行ってしまった。試験管の液体をもう一つの試験管に移すという作業。


 俺をいない存在だと見なして、事を進める。いつもの彼女ならあり得ない。


「それ、俺が持つから。勝手にやらないで。今、授業中。協力しなきゃいけない時。分かった?」


 少し厳しく言ってしまった。

 倉科さんがあまりにも冷たく接するから。


「一条くんの声すら聞きたくないのに……」


 ボソリと彼女は小さく呟く。だが、俺には聞こえない。


 その後は何とか実験を成功する事ができ、授業が終わった。


 ***

 その日の放課後。

 私は中庭に来ていた。泣きたいわけでも感傷に浸りたいわけでも無いんだと思う。特に意味は無く、生徒会の仕事が終わったら、気づいたら中庭に来ていた、というだけだ。屋上じゃないだけ、マシだ。


「……フラれちゃった」


 無機質で感情のこもってない声で呟く。そんな呟きは誰の耳にも届かない――はずだった。が、後ろから足音が聞こえ、瑞季が来た。瑞季によると理玖は先に帰ったらしい。


「倉科、ちゃん! 最近元気無いけど大丈夫?」


 いきなり肩をポン、と軽く叩かれて私はびっくりした。反射的に後ろを振り返る。


 放課後の中庭にはあまり人が来ない。だから、一人になれるかと思っていた。


「大丈夫」


「それで、フラれたって誰に?」


 瑞季はベンチに座る私の隣にちょこんと座った。


「聞こえてた? 私、一条くんに告白してフラれちゃったの。だから今、すごく落ち込んでる」


「理玖に告白したんだ。そっか、そっか~」


 瑞季は軽く言葉を返した。

 あまり驚く素振りは見せなかった。告白するのは時間の問題だと思っていたのかもしれない。


 続けて、

「それって凄い事じゃん! 自信持ちなよ。結果はどうであれ、倉科ちゃんは頑張った、勇気を出した」と投げかけた。


「え……でも、フラれたんだよ?」


「フラれても告白できた事に変わりはないでしょ」


「そうだけど……」


 私は言葉を詰まらせた。


「とりま、可能な限り私が話、聞いてあげるから何でも話して」


 その言葉に少し心が軽くなった。


「う、うん……」


「一条くんに好きな人がいるって知ってた、分かってた。なのに、私は告白した。それは一条くんの好きな人が私かどうかを確かめる為だった。それなのにフラれてこんなに傷つくなんて、思ってなかったよー」

「失恋ってこんなに悲しいんだね」

「フラれた瞬間に好きの気持ちが一瞬で消えて、何も感じなくなって、闇に呑まれたかんじ」

「一条くんに嫌われたかんじがする。好きの反対は嫌いだから」

「忘れられないからつらい」

「一条くんを避けてばっかりで謝りたい」

「今でも一条くんのそばにいたいって思ってる。なのに……」


 ここで、私は言葉を途切れさせ、嗚咽した。何も言えなくなった。気づいたら、泣いていた。だって、話してたら一条くんの顔が頭に沢山、浮かぶから。思い出すだけでつらくなる。


「ごめんね、泣いちゃった。とってもつらくて」


「今は泣いていいんだよ」


 そう優しく言葉を掛ける瑞季。瑞季ちゃんには感謝しかない。私が一条くんの友達じゃなくなっても、瑞季ちゃんがいる。私は一人じゃない。


「ううう、わーん」


 私は彼女の胸に頭を埋めて、大泣きした。瑞季ちゃんの制服が涙だらけになるのは気にしていられなかった。


「フラれたら誰だって傷つくよ。プラスのことだけを考えていこう。理玖は倉科ちゃんのこと、嫌いになんてならない。だから大丈夫。今は忘れられなくても、いつかは忘れて受け入れられるようになるから。理玖とギクシャクしててもそれは当たり前の結果だと私は思ってるから。みんな、気にしてないから自分を責めなくていいよ」


「初恋だったの。一条くんは私が初めて好きになった相手」


「初恋って実らないものだけど、出来るなら実ってほしいよね」


「う、うん」


「てか、初恋が高校生って遅くない?」


「え、え――」


 どうやらいつもの瑞季に戻ったようだ。彼女は本当はそんなに優しくない。これが本性なのが、残念だ。


「毎日理玖と顔を合わせなきゃならないのはつらいよね。いっそのこと、別のクラスにしてくれればいいのに」


「分かる」


「さ、もう暗いし帰ろっか。ちょっとは吹っ切れた?」


「うん。ありがとう、瑞季ちゃん」


 もう空は暗い。お喋りは時間を潰すのにすごく有効だった。


 瑞季の手を借りて、私が立ち上がった瞬間、彼女の鞄から恋愛のハウツー本が出てきた。


 その本の表紙には『失恋した時の立ち直り方』と書かれていた。


 え……?


 私は動揺が隠せず、固まってしまった。






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