酔いどれ詩人の世界旅行
沙猫対流
酒瓶の夜空に映すは赤い譜面 前編
知らない場所で眠る時、俺はよく無口な仔羊の世話になる。おっと、本物の羊(ラム)じゃないぜ。酒の方のラムだ。
俺はお前の国でいう、ストリートミュージシャンみたいなやつでな。知らない土地へ行くことが多いんだよ。ギター弾きながら世界のあっちこっちを千鳥足で歩いてるってわけ。
例えば着いた宿の寝床が合わなかったとしよう。枕はごわごわで、布団もすり切れたせんべい布団だ。 ――俺みたいに貧乏な旅のギタリストにはよくあることだがな。
そんな時は小さなグラスに少しだけ、ラム酒を注ぐ。俺が一番好きな酒はウヰスキーだが、ラム酒は甘い味とアルコールの風味で頭がほわんとする。だから燗をつけた牛乳よりも早く、空たかく空たかく美しい夢の世界へひとっ飛び――あー、良い気持ち、というわけ。うまく眠れなくったって、うとうとした頭だと余計にロマンチックな詩や、それに合う楽譜が書けるんだ。
あんまり呑むと余計に寝つきが悪くなるって? まさか。アル中になる程呑んじゃいねぇよ。むしろ慣らしてんのさ。今はまだだが、酒の匂いだけで眠くなっちまうようになれば、しめたもんだ。
……おっと、軽くてふかふかで持ち運びやすい寝袋を買えってのは言いっこなしだぜ。俺だって中々そいつにゃ巡り会えないし、金も貯まらないんだ。最近は、上等な寝具を探すために旅をしていると言ってもいい。夜を唄うギター弾きは、酔っちまいそうな空気と、月明かりに似た景色の夢しか描けないからね。
★★★
ところが、ある港町で事件は起きた。
その日は港町の小さな料理店で、演奏をしてきたんだ。ジャズの生演奏が空間を彩るハイソな店。相棒のギターでありったけのナンバーを弾きまくってきた。
「――はい、これ、今晩の演奏のお代。素敵な時間だったわ、ありがとう詩人さん。また演奏しに来てちょうだい」
「こちらこそありがとう、マダム。俺はもう明日の夜には出て、連絡船でデカい街へ行くんだ。またここを通るかもしれないから、そのとき考えるよ」
挨拶を済ませ、俺はギターケースを片手に、料理店を出た。少し歩いたところでおもむろに振り返ると、店のマダムがゆっくり手を振って見送っている。店先の明かりに照らされ、実に上品に見えた。
ぼぉぉーっ……
遠くに低い風の音が響いたのがわかる。連絡船の汽笛だ。たしかあれが最終便のはず。俺も明日はあの船に乗って、反対側の大きな街へ行かなきゃならないんだ。
宿に戻ったら、あとはシャワーを浴びて、楽譜書いて寝るだけ。枕は苦手なソバ殻のやつだったから、またしても寝酒のお世話になるだろう。酔いがすっかり回るまでは、ベッドに俺の手帳を持ち込んで、メモした詩にメロディをつけて待っていればいい。そう思ってた。
だがここで俺は重大なミスを犯していた。
酒がない。
おかしいな、と思ってガサガサとカバンを漁ってみたが、空っぽのスキットルとタンブラーが出てきただけだ。もっと探すとガラス瓶のヒヤリとした感触があり、酒瓶だと思ったが、そいつは俺の癖毛をまとめるヘアオイルの瓶だった。
あれ、なんでないんだ? 前の町を出た時に酒が切れたから、どこかで買い足そうと思ったのに。店にだって入ったのに――ああ、違った。あのときは安酒しかなかったから、諦めて我慢したんだった。ミュージシャンは酒の用意を忘れないもんだから、今日はすっかり忘れて大丈夫だろうと思い込んでいた。
「やれやれ、俺もボケたもんだな。まだ爺さんじゃないのにさ」
自嘲的に笑ってみせる。ひとり部屋に虚しく俺の乾いた笑い声が響いた。誰も聞く人のいない冗談ってのはつまらないもんだ。
俺は小さいバッグを肩にかけると、主人に断ってから外へ出た。せめて12時台には戻ってくださいね、と、背中に声を投げかけられた。
★★★
さて、どうしようか。あちこちうろうろして、今は午後11時半。さっき見かけた酒屋は閉まってた。やっぱりどこぞのパブで呑むほかに道はない。
メインストリートは夜中に近くなったからか、暗く静かで、多少人の通りが少なくなっていた。それでも千鳥足で歩く男たちや、いそいそと帰路につく女たちのグループも見受けられる。
ふっと上を見上げれば、濃い灰色の綿埃みたいな雲と、蒸気船のあげる煙が空を覆っている。ぽつぽつと灯っている街灯も、また物寂しさを引き立てた。
すっかり仕上がった様子の金髪の男が、俺の視界の端をゆっくりと横切っていく。あーあ、まだ呑み足りねえな、と口調の割に満足そうに言いながら。
「あぁ、赤ガニ亭の『赤目のサソリ』は旨かったなあ。ボスもまたサシ呑みに誘ってくれたらな」
サソリ? まさかあの虫か? ガキの頃見た童話の本にいたような気がするが、ここの人は面白いもの食うんだな。ここは良い呑み屋が多くて、世界中津々浦々の酒が集まるって聞いてるが、変わったつまみも集まるのか。1、2杯ひっかけてとっとと帰ろうと思ってたが、ゲテモノのつまみを買って帰って、部屋で晩酌ってのも悪くない。俄然楽しみになってきた……俺は昼の間に見た街並みを思い出しながら、街灯に照らされる白い道をゆっくりと進んでいった。
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