♡2 真っ赤な薔薇


 悠真たちを迎えたのは、ソファーの上で放心状態になっている洋一と、彼を背後からかいないだく汐音の姿だった。


 最初に出逢った頃の、大人しくて引っ込み思案だった彼女の姿は、もはやどこにもない。

 妖艶に微笑み、最愛の人を手に入れた悦びで満ち溢れていた。



「汐音ちゃん……」

「ありがとうございます、紅莉さん。貴女のお陰で、私は長年欲しかったものを手に入れることができました。そう、ずっと欲しかった……お兄様の心を……」


 ブツブツと何かを呟く洋一の頬を優しくひと撫ですると、汐音はそっと口付けをした。



「これはいったい……それに、二人は兄妹だったんじゃ?」


 汐音の恋心を知らない悠真はこの異様な雰囲気に呑まれそうになる。

 五日前に会った時は兄想いの女の子だと思っていたのに、この変わりようだ。いったい何があったのかと慌てるのも当然だ。



「汐音ちゃんと洋一さんは、血は繋がっていないの。ご両親が再婚をしたから……」

「なっ!? それじゃあ二人は……」

「うふふっ。戸籍上の関係なんて、薄っぺらいだけでしょう? 私とお兄様はこの度、魂で繋がった本当の夫婦となりました。すべては、紅莉さんのアドバイスのお陰です……」


 悠真は「いったい何を言ったんだ」という疑惑を込めた視線を、隣りにいる少女に送る。

 芯の強そうな洋一をあそこまで廃人にするというのは、そう簡単じゃない。

 だが紅莉は洋一のことには関心がないのか、彼の状態を心配する様子もない。



「汐音ちゃん。本はどうだったの?」

「うん。ちゃんとお兄様から……いえ、洋一さんから預かっています。どうぞ、私には不要なものですから」


 汐音はソファーの上に置いてあった一冊の本を紅莉に手渡した。


 それは青色の表紙に『手に刻まれた過去』と書かれた、アルバムサイズの本だった。



 紅莉がパラパラと開き、さっそく中身を確認していく。



「……たしかに。これは洋一さんが持っていた、悪魔の愛読書だね」


 手相について書かれただけあって、どのページにも手の平の写真や絵があった。写真の横には、手の持ち主のプロファイルがされている。生まれや学歴、性格や嗜好などを詳細に調べ上げたようだ。

 さらに洋一の手書きと見られる字で、手相から読み取れる考察が小さな文字でビッシリと記載されていた。いわば、これは手相についての研究ノートだったのだろう。


 だが、彼がこの本を仕事の現場で使うことはなかった。

 あくまで手相の知識はすべて、彼の頭の中に入っていたのだから。


 なにより、彼はこの本を秘匿したがっていた。

 自室に隠し部屋まで作り、絶対に妹の目に触れないようにしていたのだ。


 彼が秘密にしたかったのは、星廻や禍星の子についてだけではない。

 自身と、汐音の親を手に掛けたという罪の記憶も一緒に封印されていた。


 だがそれも、今はこうして悠真たちの前に曝け出されてしまっている。

 もちろん、本を見たところで悠真たちは洋一が過去に何をしたかまでは分からないだろう。

 彼の秘密は、汐音だけが握っている。



「紅莉さん、今すぐこの館から離れてください」

「え……?」


 紅莉は汐音の言葉に動揺を隠せない。それは悠真も同じだった。



「ちょっと待ってくれよ! 今日は占星術の本を持っている花音がここへやって来るんだぞ!?」 「そうだよ、汐音ちゃん。全員が協力すれば六冊の内、半分が集まるの。この罠だらけの館にあの女を誘い込めば、勝てるかもしれないよ!」


 いくら相手が影を集めて力を蓄えているとはいえ、生身の人間であることは事実である。

 透影にされ、力も残り時間も無い彼らには、もはやこの手しか残されていないと言っても過言ではない。


 だが汐音は長い睫毛をした目蓋を伏せ、首を横に振った。



「その花音という女はすでに敵の手に落ちています」

「はぁ!? いや、だって昨日会った時には普通に……」

「騙されてはいけません。悠真さんたちは罠を張るつもりだったかもしれませんが、逆にこの館へと誘い込まれたのです」

「なんだって……!?」


 病院で会った時は悠真たちの何枚も上手を取っていた彼女だ。

 化け物女にだってそう易々とやられるとは想像もできない。

 それに、あれだけ自分たちに気を使ってくれていた人物が罠にかけてくるとは思えなかった。


 悠真は納得ができず、汐音に食って掛かる。



「いったい、何の根拠があってそんなことを――」

「悠真さん。女というのは、愛する人を守る為であれば簡単に嘘を吐けるのです。それが男にも勝る、女の武器なのですから……そこに理由や根拠なんてものはありません」


 洋一の頭を撫でながら、「たとえ、自分が咎人になったとしても……」と汐音は自虐的な笑みを浮かべた。



「それで、汐音ちゃんは……」

「私はここで最期まで洋一さんと過ごします。何があろうと、私が守ります。この人も、この想いも」

「そっか……」


 紅莉は手に持っていた手相の本を鞄にしまうと、入ってきたばかりの部屋の入り口へと向かった。



「お、おい紅莉……!」

「急ごう、悠真君。ここに居たら私達も危ないよ」


 そう言うと、汐音に別れも言わず歩いて行ってしまった。



「悠真さん。貴方も、大事な人がいるのなら。遠くへ行ってしまわないよう、しっかりと手を握ってあげてください。別れというのは、いつでも予期しない時に訪れるものですから……」


 汐音は「渡してあげてください」と言って、机の上にあった京都のシナモン入り焼き菓子を悠真に差し出した。



「え? あ、うん。……ありがとう、汐音ちゃん」

「えぇ。また逢いましょう」

「あぁ。また……な」


 再び会えるような別れの言葉を交わし、悠真は紅莉を追い掛ける。

 悠真が見た汐音は、最後まで満足そうな表情をしていた。純白な薔薇のように一部の霞も無い、とても綺麗な笑顔だった。



 悠真たちが館を去ってすぐ。

 この薔薇の館に十数人の男女がやって来た。


 誰もが、ある宿命を背負って生まれてきた人間だ。


 否、人間だったモノという方が正確だろう。



「――みなさん、揃いも揃って影を失くされたようで。これでは、影鬼ができませんね……」


 汐音の冗談に、招かねざる客たちは何も反応を返さない。

 それもそのはず。汐音の前にズラリと並んでいた者たちは、すでに人間としての生命活動はしていないのだから。もはやそれは、生気を失い土気色をした肉の人形たちだった。


 辺りに漂い始めた、猛烈な死の匂い。

 汐音たちを目掛け、徐々にフラフラと近寄って来ている。

 中には眼球を失くし、眼窩から血の涙を垂れ流しているものまでいた。


 まるで糸のないマリオネットのように、彼らは裏の誰かによって操られている。

 肉体に魂なぞ、とうに残ってはいない。すべてはあるじの思うがままである。めいさえあれば、主の為に何の躊躇いもなくその場で身を投げ打つだろう。

 事実、彼らの人数が減っているのは、道中で館の罠で使い物にならなくなったからであった。



 そして彼らをそんな可哀想な姿に変えてしまった張本人こそ、呪術の書の所持者である日々子だ。彼女は車椅子に乗った人形と若い女の人形を両隣に引き連れ、汐音の前へとやって来た。



「貴方が、日々子……?」

「本はどこ……?」


 汐音の誰何には一切答えもせず、自分の用件を押し通そうとする日々子。

 息の音が聞こえそうなほど顔を近付かせ、血走った瞳で汐音を睨みつけた。



「はやく……渡せっ」

「はぁ、仕方がないですね……」


 言葉が噛み合わないことを悟った汐音は深いため息を吐いた。


「しぉ……し、を……」

「はい。洋一さん。大丈夫ですよ。私がついていますからね……」


 洋一は妹の危機を察したのか、目を宙に彷徨わせたままうわ言のように何かを訴えている。

 心は壊れたままで使い物にならないが、妹を守りたいという本能的な何かが残っていたのかもしれない。


「全てを終わりにしましょう。貴方たちにも付き合ってもらいますからね」

「やめ……」


 汐音の決意は揺らがない。

 ソファーの下に隠されていたスイッチを押すと、玄関ホールの方角からガシャンと物音が響いた。


「お前……なにを……」

「さぁ、洋一さん。これで私も咎人の仲間入りですよ。浄化の炎で、私達の罪を償いましょう……」


 汐音はいつかこうなる日が来るのではないか、と恐れていた。


 優しい性格の洋一は罪の意識で押し潰され、いずれ心が壊れてしまう。

 そうなれば彼は自分の手で命を絶ち、汐音の前から永遠に姿を消してしまうだろう、と。


 そんな自分勝手なことを、汐音が断じて許せるわけがなかった。

 洋一が密かに汐音を愛していたように、汐音もまた洋一を愛していたのだから。



 兄と離れたくなかった汐音は準備を始めることにした。

 全ては最期の瞬間まで、最愛の人と共に過ごすために。


 汐音は毎日、兄の目を盗みながら館の罠について調べ始めた。


 兄が数年前、己が犯した罪を消し去るためにとった方法。

 その方法を、この館に保険として準備しているはずだと。



 汐音は兄を説得し続け、やっとその方法を聞き出した。

 館に火をつけ、全てを燃やし尽くす悪魔のような手段を。



「火が……」

「もう逃げ場はありませんよ。みんなで仲良く、あの世に旅立ちましょう……」


 火の回りはあっという間で、すでに汐音たちが居る部屋の前にまで迫っていた。

 轟々と燃え盛る炎の怪物は、容赦なく日々子の肉人形たちを次々と飲み込んでいく。



「紅莉さん、あとは頼みましたよ……」


 これで兄と同じ罪を背負えた。同じ罪を犯した咎人ならば、あの世で一緒に居ることだって赦されるはず。そう、たとえ地獄に落ちることになったとしても。ずっと、ずっと一緒だ。


 汐音の頬を一筋の涙がつぅと流れる。死は怖くない。だけど……。

 その白く細い腕で、生涯で唯一愛した男を離すまいと力の限り抱き寄せた。


 やがて彼女の燃えるような愛を表すように、二人は赤い焔の中に消えていった。



 ◇


 薔薇の館を脱出した悠真たちは、一度体制を整えるため、マルコのいる教会へと向かっていた。



「クソッ、どうして花音さんが……」


 悠真はふと、来た道を振り返る。

 薔薇の館がある方角では煙がもうもうと立ち上り、空を黒く染めているのが視界に入った。

 消防車のサイレンが街に鳴り響き、悠真の心を余計に掻き回す。


 せっかく知り合ったばっかりだったのに。

 ただお兄さん想いの良い子だった彼女が、どうしてそこまで……。



「悠真君、今は急がないと……!」

「分かってる! 分かってるけど!!」


 紅莉は今、かなり焦っているように見える。

 花音があの化け物女と繋がりがあったということは、占星術の本はすでに敵側に渡ったと考えていいだろう。


 こちらに残されているのは、汐音から預かった手相の本と、紅莉の持つタロットの本の二冊しかない。つまりこの二冊がある内に、透影の呪いを解除させないといけないのだ。



 そう、悠真たちの影はまだ戻っていなかった。



「良かった、教会は無事のようだぞ……!」


 悠真たちが到着すると、そこには前回来た時のままの天啓教会があった。

 これで教会まで襲撃に遭っていたら、最後の逃げ場まで失ってしまうところだった。


 ここまで足が攣りそうになるまで走ってきた。二人とも汗だくになりながら、教会の前で地面に崩れ落ちる。夏場な上に、今日はやけに太陽が照りつけていたのが余計に恨めしい。



「大丈夫か、紅莉……」


 もともと運動が得意ではない紅莉はヒュウヒュウと過呼吸になりそうになっている。悠真の心配に答える余裕もない。


 だが彼らに、休んでいる余裕など無かった。まずはタロットの本を安全なところに隠さなくては――。



「紅莉、タロットの本はどこに……?」


 悠真は紅莉が本を持っているところを見たことが無かった。

 マルコが本そのものだと言えばそうなのだが。本というからには、紙としてどこかに置いてあるのだろう。



「ふぅ、ふぅ……マルコが、教会のどこかに隠しているはずよ。いきましょう」


 深呼吸で息をどうにか整えながら、紅莉はよろよろと立ち上がった。

 悠真は彼女を支えるようにして、二人は教会の中へと入っていく。



「……マルコ? どこにいるの!?」


 教会の木扉をギギギ、と開けて足を踏み入れていく。

 紅莉がマルコの名を呼ぶが――返事がない。


 礼拝堂にも、懺悔室にも居ない。

 二階に上がってもみるが、そこには冷めた紅茶のカップがテーブルの上にポツンと置かれているだけでどこにも彼の姿が無かった。



「どこかに出掛けているのか……?」

「それはないと思う。彼は本の悪魔。本を置いたまま、この教会からは出られないの」


 マルコは自分では本を移動できないらしい。だからこの教会のどこかに居るはずなのだと、紅莉は言う。


 しかし、どこを探しても居る気配すら感じられないのだ。

 悠真たちは一度礼拝堂まで戻り、マルコの良そうな場所について考えてみるがやはり見当もつかない。



 ――そして、遂に時間切れとなってしまった。



「みぃつけたぁ……」


 最後の本を求めて、鬼がやってきた。

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