聖杯の章

♡1 日々子という少女


 今から約十七年前。

 とある少女は自身の宿命を知らなかった。


 その少女の名前は、日々子といった。



 普通の家庭に生まれ、十六年を過ごした。

 親と喧嘩し、友人と遊び、髪を染めてちょっとだけ悪いことをした気分になる。そして同い年の男に恋をし、失恋する。


 そんな、普通の女子高校生だったのだ。



 だが、少しずつ、自分が周りの友人たちと違うことに気が付いた。

 たしかに中学時代から目立つほどに容姿が整っていた、というのもあるが、それはまた別の話。



 彼女は――人を呪えたのだ。



 最初は些細な出来事だった。

 自分の悪口を言った同級生が憎い、気になる男子と仲良くなりたい。

 思春期の多くの学生が抱く悩みを、その少女も持っていた。



 その日、日々子は仲の良い友人と当時流行っていたおまじないを実行した。


 自分の血を混ぜたミサンガに願いを込め、近所の川に流すという胡散臭いものだった。


 当然、そんなおまじないが成功した、という報告は誰からも聞いたことはない。

 ちょっとした憂さ晴らし、その程度の効果しかないはずだった。


 しかし、彼女は他の人間とは違ったのだ。



 日々子が願いを込めたミサンガを川に流した、次の日。

 クラスカーストで上位だった女子学生が、交通事故で骨折する大怪我を負った。

 さらには、気になっていた男子生徒が日々子の連絡先を聞いてきた。


 そう、偶然としか思えないような、小さな出来事だった。

 彼女もそれを幸運だと感じ、ただ喜んだ。



 だがそれも、一度ならず二度三度。さらにもっと続けば、さすがに彼女も何かがおかしいと思い始めた。



「どうしよう……私のせいかもしれない……」


 彼女に言い寄った教師が学校の屋上から飛び降りた辺りで、自身のせいで他人が傷付いていると確信してしまった。


 当時、まだ優しい心の持ち主だった彼女はとても悲しんだ。


 親しかった友人たちと距離を取り、家族とも喋らなくなった。

 口を開けば、傷付けてしまうと思ったからだ。


 相談したくとも、あまりに荒唐無稽過ぎて、誰に相談すれば良いのか分からない。


 彼女は孤独に苦しみ、そして誰かに助けを求めて街を彷徨さまようようになった。



「すみません。占いって、どんな事でも見てもらえるんですか?」


 啓介と出逢ったのは、そんな時だった。

 当時はまだ無名で、道端で流れの占い師だった彼の前に、日々子が現れたのだ。



「あー、はいはい。四柱推命、星占い。手相もできますよ……っと、君。もしかして」


 氷川の母と呼ばれ、テレビなどのメディアに人気占い師として取り沙汰されていた彼の実母とは違い、啓介には占い師としての才能が無かった。


 だが人一倍、人を見る観察眼が優れていた啓介は、日々子が禍星の子だとすぐに気付いた。



『自分に才能がないのなら、ある奴を利用すればいい』


 この幸運を逃すまい。

 啓介はこの時から、出会ったばかりの日々子を自分のものにしようと画策するようになった。



「お願いします。私、どうしたら良いのか全然分からなくて……」

「安心してくれ。俺は君のような悲しい宿命を背負った人間を知っているんだ。かく言う、俺も……」

「そうなんですか!? 良かった、私だけじゃなかったんですね……!?」


 初心で男を知らなかった日々子。年上で頼れる男性だった啓介の毒牙に、彼女は簡単にかかってしまった。


 啓介はまず、禍星の子の宿命について話すことにした。

 そしてその事実を誰にも言うなと口止めした上で、自分だけが味方なのだと甘言を吐いた。



「こんにちは、啓介さん」

「お! いらっしゃい、日々子ちゃん。今日も可愛いね!!」

「もう! 口が上手いんだから!……それで、今日もお願いしたいんですけど……」

「うん、分かった。それじゃあ、ちょっと場所を移動しようか」


 今後も相談に乗るためだと言って、啓介は日々子と連絡先を交換していた。

 連絡を取るようになると、今度は理由をつけて頻繁に会うようになった。


 上手く同情と共感を誘えば、日々子は簡単に気を許した。

 このまま身体も心も完全に落としきってしまえば、自分が占い師として母親を超える日が来るかもしれない。


 啓介は適当な占いで彼女を導きながら、内心で高笑いを上げていた。



 だが、そんな啓介の目論見はとあるキッカケで大きく外れてしまった。

 本物の禍星の子である母親が、星廻が始まったことを告げたのだ。


 啓介は焦った。


 もし本を全て集め、悪魔の寵愛を受けようとする者が現れたら?


 自分は禍星の子ではないから、そこまで身の危険はないはずだ。だが、日々子の命が危ない。彼女が透影になって死んでしまえば、自分の占い師としての立場がすべて台無しになってしまう。


 日々子の力で、やっとカレイドスコープの幹部にまで上り詰めたのだ。誰がここで諦めるものか。



 啓介は、日々子の力を自分の力であると錯覚してしまっていた。そして、その力を手放すことを恐れるようになっていた。



 悩みに悩んだ啓介は、先手を打つことを決心した。



「日々子、良く聞いてくれ。透影にならず生き残るためには、他の禍星の子を残らず殺さなければならないんだ」

「殺すっ!? それって、人殺しになるってことですか!?」

「あぁ。だが、お前の手を汚させるわけにはいかない。……大丈夫だ。全部俺に任せておけ」


 と、嘘の説明を日々子にしたのだ。

 そして彼女の身を護るために、形だけでもいいから夫婦になろうとプロポーズをした。

 家族ならば、著名人である母も護ってくれるから、と言って。


 日々子はその提案を飲むしかなかった。

 半ば強制的に籍を入れ、啓介は日々子との関係を盤石にすることができた。


 そしてこの頃から、日々子は啓介に軟禁され、誰の目にも触れなくなっていった。



 次に啓介は、当時のカレイドスコープ代表だった母親を利用し始めた。

 あらゆるコネと権力を持つ母の力は偉大で、他の禍星の子の追随を許さなかった。


 情報戦を制した彼は、次々と禍星の子を見つけ出し――容赦なく殺していった。



「啓介さん! 私、もう耐えられない……」

「仕方がないだろう。これは全部お前の為なんだぞ!」

「でも人殺しなんて、許されることじゃないです……!」

「ならお前が殺すか!? やれんのか、おぉ!?」


 啓介は決して自身が悪いとは言わなかった。必ず、全ての罪を日々子に擦り付けていた。

 そして俺を慰めろと言って、当時まだ十六歳だった彼女の処女を無理やり奪ったのだ。



 日々子の精神はボロボロだった。

 自分が生き残るために、次々とヒトが殺されていく。その罪悪感に、彼女の心は押しつぶされそうだった。


 彼女は星廻で多忙な啓介の目を盗み、いつかのように街を徘徊するようになった。


 そして、彼女は運命の出逢いをすることになる。

 まぶたを涙で腫らしながら歩いた先で、天啓教会を見つけたのだ。



「教会って、どんなところなのかしら」


 そう言って、日々子は教会の中に入ってみた。

 中はまるで隔絶された世界のようで、どこか別の場所に迷い込んでしまったような感覚になった。


 そして何かに導かれるようにして、彼女は懺悔室へと入っていった。



「……こんにちは、迷える子羊よ」

「えっ? 神父さん、ですか?」


 小部屋には、小さな椅子があるだけ。

 そして壁一つ挟んだ先から、誰かに語りかけられた。



「えぇ。ここは貴方のような悩みを持った御方の話を聞く部屋です。大丈夫。ここで聞いたお話は、私も神も絶対に口外しませんよ」


 それは心に染み渡るような、優しい声だった。

 啓介とは違う男性の声で語りかけられ、つい心が動いてしまった。



 ――神に仕える神父様なら、大丈夫かもしれない。


 誰かに話を聞いてもらいたかった日々子は、せっかくなので顔も見えない神父に話してみることにした。


 結果、それは日々子にとって正解だった。


 罪の告解を、神父は親身になって聞いてくれたのだ。

 日々子を責めることもなく、全ての罪を彼はゆるしてくれた。


 本当の彼は人の罪の意識を糧にする、悪魔だったとは知らずに。



 罪を告白し、慰められているうちに、日々子はこう思うようになった。


 ――この優しい神父様の顔を見てみたい、と。



「顔を見るぐらい、神父様も赦してくれるわよね……?」



 本来ならそれは許される行為ではない。

 だが日々子の倫理観はすでに狂っていた。

 彼女の中に、殺人だって懺悔をすれば許されるものだという心理があったのかもしれない。



 だから彼女は、こっそりと教会に忍び込むことにした。


 いつものように懺悔が終わった後。彼女は教会の裏口に回り、開いていた窓から侵入した。


 階段を上り、物音がする部屋の扉の隙間を覗くと――彼はそこに居た。


 そして、一瞬で恋に落ちた。


「いけませんよ、日々子。悪い子にはお仕置きをしなければ」

「神父様……んんっ!!」


 言い訳をしようとしたところで、神父は日々子の口を塞いでしまった。

 抵抗する隙も無かった。しようとも思わなかった。


 それはとても甘い、融けてしまいそうな熱いキス。


 今まで感じたことのない、幸せなひと時だった。


 そのまま教会の二階で、日々子は彼に抱かれてしまった。


 たが、全く嫌だと思わなかった。


 ――こんなにも、あの人とは違うとは。



 それ以降、日々子は今まで以上に彼と会うのが楽しみになっていた。



 しかしその秘密の逢瀬も、啓介にバレてしまった。


 ある日教会に行くと、神父の代わりに啓介が居たのだ。

 俺が手を汚している間、お前は何をしているのだと大声で責められた。


 日々子は恋に夢中になりすぎていた。

 他のことは目も耳も塞いでいる状態で、星廻がどうなっていたのか知ろうともしていなかった。



 もうこの時点で、残っている禍星の子は日々子と啓介の母親だけだった。


 否、その母親ももうこの世にはいない。

 啓介は最後の仕上げとして自身の母親を殺し、この教会にやってきたのだ。



 事実を知り、呆然とする日々子に啓介は薄ら笑いをしながら言葉を掛けた。


「あの神父がそんなに心配か? ソイツならこの本の中に居るぜ。……だが、もうお前とは会うことはない」


 啓介の手には、タロットの書とライターがあった。

 日々子には彼が何を言っているのか、全く分からなかった。



 どうしてあの御方が本の中にいるの?

 今日は私の誕生日だから、お祝いしてくれるって言っていたのよ?

 何故私を迎えに来てくれないの……?


「どうして……?」


 啓介は混乱する日々子の目の前でそれを燃やし、教会にも火をつけた。



「馬鹿が!! お前には、俺しかいないんだよ!!」


 だがその言葉はもう、日々子の耳に聞こえてなんかいなかった。

 魂の抜けてしまった日々子を、啓介は引きずるようにして連れて帰った。



 日々子を支えていたものが、全て消え失せた。

 これで日々子の魂は終わりを告げたかのように思えた。


 だが、これで終わりでは無かったのである。



 失意のどん底に陥り、啓介の操り人形として過ごす日々子。


 しかしある日、こらえようのない吐き気を催した。



「日々子! ついに子供を孕んだのか!」

「……子供?」

「そうだよ! やっと俺との子供だ! 良くやったぞ!!」



 そう、彼女は妊娠していたのである。


 きっと子供は禍星の子に違いない。後継ぎができたと喜ぶ啓介の傍で、日々子は全く別のことを考えていた。彼女は、お腹の中にいる子は啓介との子供だとは思っていなかった。



「この子は……あの御方との子供なんだわ……」


 マルコは居なくなっても、その魂は自分のお腹に宿っていると信じた。そう信じなければ、彼女の心はもう、持たなかったのだ。



 それ以降、日々子は愛娘を育てることだけを生き甲斐にするようになった。



「……まさか!」

「どうしたんだ、日々子。なにか吉兆でも出たか?」

「え? あぁ、はい……吉兆です。それも、凄く良い……兆しですわ」


 ある日、日々子はアルカナの二十一人が目覚め、あの方が復活したことを知った。

 マルコと結ばれ、娘を授かってから十七年目の夏のことであった。



 そしてそれは、再び星廻が始まることを意味する。



 彼女は今度こそ家族を守りたいと願った。

 禍星の子である自分と娘、そしてマルコの三人で暮らす。そのために、彼女は己の手で殺人を犯すことを決めたのだ。



「今度は誰にも邪魔させない。自分と娘、そしてあの御方と本当の家族になるの」



 こうして悪魔が復活し、全てのアルカナが揃った。


 悪魔の寵愛を求め、再び命懸けの鬼ごっこが始まる。

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