第25話 苦手なことなんて何も無い

赤石探偵事務所で働く赤石純と相棒の深山紫音は、被害者が後を絶たない小野市連続殺人事件を解決するべく、目撃者の情報を集めていた。


 ある日証拠を探るため小野東高校に向かった二人だったが、その帰り道に日岡瀬名の母親の日岡琴乃から連絡が来る。彼女から話を聞き出し、瀬名が事件に巻き込まれる直前に、琴乃に電話をしていたことが判明したのだった。


「今日もいろいろあったな、お疲れさん」


 琴乃と別れた後、もう辺りは日が落ちて暗くなり始めていた。取り敢えず純たちは三田方面の電車に乗り込み、しばらく座りながら一息つくことにした。


「そうですね、まさか日岡さんのお母さんから連絡が来るとは……」


「あの人の話から、解決に役立ちそうな情報はあったか?」


 紫音はメモ帳を開き、一つ一つの内容に触れていきながら考える。


「直接繋がりそうなものは無いですが、推察した通り日岡さんは誰かに脅されて、犯人の格好をしていたと見て間違いないでしょう」


 純が何かを言う前に、それと、と彼女が付け加える。


「日岡さんと斉藤さんの仲は、私たちが思っている程良くなかったのかもしれません」


「そうなのか、俺が見る限りでは良さそうに思えたけどな……」


 電車は徐々にブレーキをかけてカーブしていき、斜面の途中に立っている丸山駅をゆっくりと通過した。


「私もそう思ってました。もしかするとあの人には……斉藤さんには私たちに話したくない秘密があるのかもしれません」


 小野東高校で集めた情報も後で整理していこうと思いながら、紫音はメモ帳を閉じた。


「秘密、か」


 純は真澄の顔を頭の中で思い浮かべた。今まであまり考えたことが無かったが、一体彼女は何を隠しているのだろう。


「鈴蘭台、鈴蘭台です」


「あっ、次で乗り換えるぞ」


 車内放送を聞いて彼は座席から立ち上がった。粟生に戻るにはこの駅で降りた後、乗り換えなければいけない。


「分かってますよ、慌てないで下さい」


 一方で紫音は電車が止まるまで、落ち着いた様子で座り続けていた。




 鈴蘭台で降りた後、純は何故か紫音から離れて何処かに歩き始めた。


「あれ、赤石さん?」


 彼は振り向かずに、ちょっと待ってろと言い残してその場から消え去った。紫音は少し戸惑ったものの、大人しくベンチに座ってしばらく待った。


 すると数分後に、純は何かを持って戻ってきた。


「ほい、買ってきたから飲もうぜ」


 どうやら自販機で飲み物を買ってきたらしい。こちらにコーヒーを手渡してきたが、一瞬投げ渡そうとしたのを彼女は見逃さない。


「ありがとうございます」


「まあ次の電車までニ十分はあるしな、ゆっくり待とうや」


 駅には各方面に向かう電車がやって来て、常にお客さんで賑わっている。二人の地元である粟生辺りでは、このような光景も中々見られない。


「もうここから有馬にでも行っちゃいます?」


 有馬温泉行の電車を見て、彼女は思わず呟いてしまった。


「事件が終わったら行きたいよな、お世話になったみんなで温泉旅行みたいな感じで」


「ですね……」


 でもそれは叶わない夢なのかもしれない。瀬名が殺されて、誰が犯人なのか分からない今の状況では。


 口を開けて待ち構えている恐怖を振り払うように、手に持っているコーヒーを啜る。


「というか私、こういう甘いのは嫌いなんですけど」


 よく見るとそれはカフェオレだった。甘くて香りが良い、本当は紫音の大好きな味。


「お前そういうのが好きなんだろ、ブラック好きとか大人ぶりやがって」


 目を見開いて純の方を見る。一瞬言い訳を付けて誤魔化そうとしたが、彼は完全に分かっている表情だった。


「いつからそのことを……」


「最初からだよ、こっそり砂糖入れてたのバレバレだったからな」


 純はやれやれと言わんばかりの様子で、持っていたお茶を一気に飲み込んだ。


「無理すんじゃねえよ、嘘ついて見栄を張る方がカッコ悪いぞ」


 そんなことは分かっている。分かっているはずなのに、恥ずかしさと悔しさで紫音は思わず彼から目を逸らした。


「……今日ばかりは、負けを認めてあげます」


「そもそも勝ったつもりでいたのか、やっぱりお前はガキだな」


 夜になると辺りは洒落にならないくらい寒かった。だが彼と一緒に過ごしている時間は、不思議と寒さを感じなかった。


「そういえば、今何時だっけ」


 何気ないことを喋っているうちに、気付けば二人の飲み物は空になっていた。




「ようやく帰ってこれたな、長かったぜ」


「本当そうですよ……」


 粟生駅に戻ってこれたのはその一時間後だった。夜とはいえまだ人がいる時間帯なのに、今日は駅の周辺に誰もいない。


「そっか、もうすぐ年末だもんな」


 今日は確か十二月の二十六日。あまり年末という感覚は無かったが、本当なら年明けに向けて家の掃除でもするべき時期だろう。


「今年一年、あっという間だったよな」


「このまま平和に年を越せたら良いですけどね」


 純は背筋がぞくっとしたような気がして紫音の方を向いた。彼女は余裕そうな表情でにやりと笑っている。


「縁起悪そうなこと言うなよ……」


 無事でいられる保証は無い。真実に近付くにつれ、自分たちがかつての被害者のように命を狙われる可能性は大いにあるからだ。


 ここから先は、腹を括って信じた先に進むのみだろう。


「どんな未来が待っていても赤石さんには私がいますし、私には赤石さんがいます」


「ふん、俺はそんな強くねえよ……」


 このまま事務所で話し合いをしても良かったが、もう夜なので二人はここで一旦別れることにした。


「じゃあな、気を付けて帰れよ」


 言われなくても分かっているのに。純はこちらに向けて静かに手を振り、父の待つ探偵事務所に入っていった。


「はい、今日は本当にありがとうござ……」


 歩いている途中に振り返ってお礼を言おうとしたが、その時にはもう彼の姿はいなかった。




 そして次の日、紫音は部屋に籠って事件の情報を整理していた。


「えーと、まず竹田さんと佐渡さんが白川先生に怪我を負わせようと計画していた……」


 最初の事件からおよそ八年。時系列順に並べていくと、意外にも今までたくさんの証拠が集まっていたことが分かった。


「すると二人に恨みを抱いていた人物が竹田さんと白石先生を殺害し、さらに先生の遺体を切断した上で佐渡さんの家まで運んだ」


 この辺りから純は何らかの理由で休み始めた。証言と照らし合わせて推測すると……


「赤石さんは学校のトイレで先生の殺害を目撃している。もしかすると、それが犯人に命を狙われるきっかけになったのかも?」


 彼が記憶を失った際に家のチェーンが破られていた理由にも、これで納得がいった。


「赤石さんが二階から落ちたのは、犯人が家に侵入してきて追い詰められたから、なのかも」


 結果として純は高校時代の記憶を失って奇跡的に助かった。だが、その時の犯人は捕まっておらず……


「最初は警察や地域に恨みを持った犯行だと思ってた。でもこれまでの行動を考えてみると、多分そうじゃない」


 それは純自身もマグレだろうと感じて、切り捨てていた被害者たちの共通点。


「赤石さんと関わりの深い人たちが、連続殺人事件で殺されてる……」


 紫音が自分なりの結論に辿り着いたその時、自室のドアが開いて祖母の凛子が様子を見に来た。


「紫音大丈夫? 昨日からずっと悩んでるみたいだけど……」


「うん、ちょっと例の事件について考えててさ」


 じっとしている暇は無かった。犯人の目的が根本から違っていたのなら、今まで立てていた推測も役に立たない可能性がある。


「赤石さんの所に、今から行ってきても良い?」


 詳しくは話していなかったが、凛子は紫音の険しい表情を見て状況を察したようだった。


「良いよ、行ってらっしゃい」


「ありがとう、それじゃ行ってきます」


 自分の推理を詰め込んだメモ帳と携帯のみを持って、彼女は赤石探偵事務所までの道を駆け出した。




「赤石さん!」


 紫音は探偵事務所に到着すると、すぐにドアをノックして中に入った。だが、純の姿がどこにも無い。


「あれ、赤石さんいますか?」


 呼びかけたが返事は無い。父の吾郎も今は家にいるだろうが、どうやら彼は二階で寝ているようだ。


 しばらくここで純の帰りを待っていようかと思ったが、ふとテーブルの上に一枚の手紙が置いてあるのを見つけた。


「これは……?」


 内容は伏せられており、表には深山へと書かれている。静かに息を吐きながら紫音は手紙を開いた。


「俺の大切な相棒、深山紫音へ」


 言葉にし難い恐怖と驚きが、彼女の心を真っ直ぐと突き刺した。


 目を見開いて、信じられない速度で手紙を読み切るや否や、紫音は何もできずにその場に座り込んでしまった。


「そんな……そんな、嘘だ」


 この手紙はいつ書かれた物だろう。もっと早く自分が気付いていれば、事務所に辿り着いていれば。


「行かないと、私が助けなくちゃ!」


 紫音の推理は正しかった。彼女は手足を震わせながら、急いで事務所を飛び出した。




 その一時間程前、純はふとした理由で本棚に向かっていた。


「あのアルバム、どこに置いてたっけな」


 小野東高校の卒業アルバム。今までは嫌な記憶から目を背けて封印していたが、昨日のことをきっかけに彼は見てみたいと思うようになった。


「おっ、これだ……!」


 台を使って上り、本棚の上にあったそれを手に取る。長いこと触っていなかったはずなのに、どういうわけか埃は被っていない。


 椅子に戻ることもせず、純はその場で開いて見始める。


「懐かしいな、こいつ今は何してんだか」


 今はどこにいるのかも知らない同級生や、辞めてしまった先生たち。しばらく読み進めていると、不思議と涙が溢れてきた。


「そうだ、この時は今よりずっと楽しかったな……」


 記憶を失った自分に暖かく接してくれた友達。今の探偵としての日々も満足しているが、やっぱりこの写真を見ると蘇ってくる。


 一瞬でも良いから戻りたい、楽しいことも悲しいことも全て新鮮だったあの時に。


「東、先生」


 担任の姿を指でなぞる。今度は人がいなくてがらんとした、昨日の校舎が思い浮かんだ。


「……うぁっ!?」


 すると突然、純は頭を抱えて座り込んだ。割れるような痛みが襲ってきて、動くどころか声を出すこともできない。


「くそっ、一体どうなってんだ……?」


 どうにか頭痛を振り払おうとするが痛みは治まる気配が無い。連絡をしようにも、台の上で蹲るのが精一杯で電話まで辿り着けない。


「うわぁぁっ!」


 突然足元がぐらついたと感じた直後、純は体勢を崩して頭から床に落ちてしまった。




「くそっ……俺の前から消えろよぉ!」


 そうだ、自分はこれと同じことを以前にも経験した。


 誰かに襲われる幻を見て、自室の窓まで追い詰められて……そして、二階から真っ逆さまに落ちてしまった。


「あああああっ!!」


 叫び声を上げて落ちていくかつての自分。全身の骨が砕け散るような感覚と痛みがあった後、頭から血を流して意識を失った。


「あ、ああっ……!」


気付いたら今までの記憶が無くなった状態で病室に眠っており、隣では心配した表情の父が座っていた。


 それからは不安を抱えながらも周りの人たちに支えられて、純は以前までの日常を取り戻すことができた。


「ねえ、どうして私から逃げるの?」


 そう、犯人が捕まること無く今も逃げ続けていること以外は。


 今までぼやけていた、断片的な映像が徐々に鮮明になっていく。どうしてこうなったのかも、そして自分を襲った存在が何者なのかも。


「私と一つになろう、そうすれば毎日も楽しいよ?」


 自分はとある存在から追われていた。その人が体育教師の白石を殺害する現場を目撃してしまい、それがきっかけで付き纏われた。


 盗撮されたことはもちろん、持っているはずの無い合鍵を持って家に入られたこともある。


「斉藤、真澄……」


 高校時代の恋人であった真澄こそが、小野市連続殺人事件の犯人だった。




「そう……だ、どうして俺はずっと忘れてたんだ」


 目を開けると、そこには電気の消えた薄暗い探偵事務所の天井があった。


 自分の身体ががたがたと震え始める。痛みの治まった身体をどうにかして起き上がらせ、目の前の壁にもたれかかった。


 カーテンの開いた眩しい窓から、向かいにある真澄の家がはっきりと見える。


「こんな大事なことを、俺は何年もずっと」


 でも真実が分かったところで今の自分に何ができるのだろう。高校時代の大切なことを忘れて、結果として何人もの被害者を生んでしまった自分に。


「迷ってる暇は無いな……」


 純は引き出しから真っ白な紙を取り出し、自分の思いつく言葉を必死に書きなぐった。宛先はもちろん、彼が心から大切に思っている相棒だった。


「こんな形で終わることになってごめん、深山……」


 彼女がこれを見たらきっと怒るだろう。いや、軽蔑するだろうか。それでも自分に与えられた最後の仕事に、あいつは危険だから連れていけない。


内容なんてろくに見返さず、伏せた状態で書き終えた手紙を机の上に置いた。


「あいつに迷惑はかけられない。俺が真澄を止めるんだ!」


 大急ぎで必要な物だけを持って、純は上にいる父にも連絡せずに家を出た。




 純が恐る恐るインターホンを鳴らすと、玄関のドアはすんなりと開いた。


「こんにちは、純君」


 そう言って出てきた真澄はここに引っ越してきた時と同じ、水玉模様の靴下に青いロングスカートを穿いている。


 まるで純がここに来るのを待ち構えていたかのようだった。そう思うと、彼女の表情や言葉の一つ一つに形容し難い恐怖が混じっているように見える。


「今日はどうしたの?」


「真澄さんに話したいことがある。今は大丈夫か?」


 言いたいことがあるのをぐっと堪えて出てきた言葉がそれだった。真澄も何かを察したのかゆっくりと頷いて、純を家の中に招いた。


「ええ、全然大丈夫よ」


 ここから先に歩みを進めてしまうと、本当に自分は戻れないかもしれない。


 でも本当に自分が見たことが本当なのか知りたかった。大切な人を失って悲しみを味わい、事件の解決を誰よりも望んでいた彼女が最大の敵だったなんて思いたくない。


「そうか、ありがとう」


 もしここで自分が死んでも良い。今まで自分が助けられなかった人たちの未練を晴らしで、その後を追えるのなら。


 最後に大切な相棒の姿を思い浮かべながら、純は真っ暗な廊下を歩き始めた。


「その手、どこかにぶつけたのか?」


「そんな感じかな。瀬名がいなくなって、私もすっかりダメになっちゃったよ」


 純はリビングの椅子に座って、キッチンにいる真澄の方を見つめた。彼女は右手に怪我をしているのか、軽く包帯が巻いてあった。


「今日は大切な日なのに、だらしない姿を見せちゃってごめんなさいね」


 目の前に湯気を纏った紅茶が差し出される。純は小さく頷いて、それを啜り始めた。


「なあ真澄さん。俺は記憶を失う前、真澄さんと付き合ってたっていうのは本当か?」


 向かいに座っている彼女の表情は見えなかった。だがしばらく経ってから、いつもの明るい声が聞こえてきた。


「そうよ。美術部でいじめられて一人ぼっちだった私を、貴方は助けてくれた」


 それは光が遮られて薄暗い部屋に響き渡る、底抜けに明るくて優しい声。


「私はそんな貴方とずっと一緒にいたいと思った……その気持ちに嘘は無いわ」


 全身から汗が噴き出していた。それでも彼女には悟られないように、必死に感情を堪えて平静を保とうとする。


「ああ、俺もあの時まではそうだったよ」


 純はようやく顔を上げて真澄の方を睨んだ。頭の中で想像し続けた次の言葉を、彼は必死に絞り出して口にする。


「お前が放課後に、白石先生を殺してるのを見た時まではな」


「白石、先生?」


 真澄はその名前にピンと来ずに首を傾げた。白石とは、一体誰のことだったのだろう。


「えっ、もしかして記憶が戻ったの……?」


 だが考え込んでようやく思い出した様子だった。彼女は焦る様子も無く、寧ろ表情を先程より輝かせながら純に聞いてきた。


「戻ったよ。お前が先生を殺したことも、気持ち悪い付き纏いをしたことも全部な」


 純はそう言って彼女の反応を待った。怒り狂って暴れ回るのか、それとも白々しく嘘をつき続けるのか。


 だが真澄のそれは、純が想像していたものとは全く違った。




「そう、記憶が戻ったのね……本当に良かった。純が二階から落ちて記憶が無くなったって聞いた時は本当に驚きと苦しみで胸が張り裂けそうだったの。だって私はあんなに純のことを愛してたのに、純は私の気持ちを分かってくれなくて飛び降りちゃうからさ。でもこれで私と純の関係は、愛は元通りになったね。私も今まで頑張って良かったわ。今まで本当に大変だったのよ? さあこれからは一緒に住みましょう。もう私たちは離れることなんて無い。辛い時も苦しい時も幸せな時も楽しい時も、ずうっと私と一緒だよ?」


「は、ぁ……?」


 言っていることが全く理解できなかった。本性が暴かれたはずなのに、もう後が無いはずなのに、目の前の女は笑い続けていた。


「気持ち悪い付き纏いって酷いなあ。私は学校に来なくなった純のことが心配で心配で、面倒を見てあげようと思って通ってただけなのに。ねえ、どうして学校に来なくなったの? 誰かにいじめられてたとか? それとも先生のことが嫌いだったの? ねえ教えてよ、純の悩みは私の悩み。一緒に共有したいからさ」


 紅茶を飲み干した真澄はゆっくりと純の方に歩み寄った。弾むような足音を響かせながら、彼の耳元に唇を近付ける。


「お前なんだろ、連続殺人事件を起こしたのって……」


 純はすぐに逃げ出したかった。だが手足が金縛りにあったかのようにその場から動けない。


「ええそうよ。純がここで探偵事務所を開いてるってお友達から聞いて、私いてもたってもいられなくなっちゃった。もう一度純に振り向いて欲しくて、ここで純の周りにいる人たちをみんな殺しちゃおうって思ったの。どう、私とっても可愛いでしょ?」


「ふざけんなよ。お前はそんな理由で何もしてない町のみんなを殺して、日岡さんに罪を擦り付けたのか!」


 精一杯の怒りを込めて叫んでも真澄には全く届かない。それどころか、彼女は純の顔をなぞるようにして撫でた。


「日岡さんって誰だっけ……あ、瀬名のことね」


 彼女の息がこちらに吹きかかった。妙に甘ったるい香りと共に、こちらの心が気持ち悪く揺さぶられる。


「あの人って本当に頭も悪いし何にもできないクズだったのよね。正直とっとと殺したかったけど、私への愛だけは中途半端にあったみたいだから、じゃあ今までのことを全部瀬名に押し付けちゃったら一石二鳥なんじゃないかって、ね?」


「一石、二鳥?」


 背後にいる真澄の表情は全く見えない。いや、もし振り向いてしまったら恐怖と怒りで心が沈み込んでしまいそうだった。


「ええ。あれはもう数ヶ月くらい前になるかなぁ……」




 それは八月の中頃……純と紫音が芦屋財閥から依頼を受けて、約束の場所に向かっている最中の出来事だった。


「真澄ちゃん、今日の晩は何にしようか?」


 リビングに座っている時に瀬名が声をかけてきた。最初は適当に無視しようとしたが、その日の彼はしつこく絡んでくる。


「外食でも良いけど今日はフリーだし家でもありだよね。僕が作る、それとも真澄ちゃんが作ってくれる?」


「……うるさい、ほっといてよ」


 今日は純の家に遊びに行くつもりだった。正直もっとお金があれば瀬名と付き合う意味なんて無かったし、彼のことはどこかの段階で捨てたかった。


 だからその日も軽くあしらったが、瀬名はそこで引き下がらなかった。


「そんなこと言わないでくれよ、せっかく二人での生活が始まったばかりなのに!」


 彼は語気を強めてこちらに歩み寄ってきた。視線を合わせずにゆっくりため息をつくと、瀬名はこちらの肩を掴んで語りかける。


「僕は真澄ちゃんのことをもっと知りたいんだ! それなのにここに来てから真澄ちゃんはずっと僕を無視するし、それじゃ何を考えてるのかも分からないよ!」


 それくらい察してよ、と言おうとして止まった。そうか、それなら今の彼を絶望の色に染めるやり方を知っている。


 真澄は瀬名の話も聞かずに突然立ち上がり、カーテンを荒っぽく閉めた。


「本当にあんたってお馬鹿さんね。そこまで言うなら教えてあげるわ、私のことを全部ね……」


「な、何をする気だい?」


 ただならぬ気配を感じたのか瀬名は少し後退りした。だが、もうそんなことをしても遅い。


「これ、一体何だと思う?」


 真澄は棚の奥から鉈を取り出して、慣れた手つきで瀬名の首に押し当てた。突然の出来事に、彼は何もできずに凍り付く。


「ま、まさか本物じゃないよね……」


「本物に決まってるでしょ。私がちょっと力を込めてこれを振れば、瀬名の首なんか簡単に切れちゃうよ?」


 今なら見ている人も聞いている人もいない。純も紫音も外に出ているため、ここで瀬名を殺すことも容易かった。


「実はね、連続殺人事件の犯人は私なの。今瀬名に向けているこの鉈で、今まで十人くらいは殺してきたと思うわ」


 だが彼の反応は殺すのを躊躇ってしまうくらい、あまりにも間抜けなものだった。


「そんな……嘘だ、そんなの絶対に信じない!」


 助けて欲しい、死にたくない。頭の中にあったどの言葉とも違う答えが返ってきて、真澄は思わず笑いだしそうになった。


「真澄ちゃんは人殺しなんて絶対にしない、そんなのは僕の知ってる君じゃない……!」


「偉そうな口を利かないでよ。私のことなんて全然分かってないくせに」


 真澄は彼の喉元に刃物を向けたまま、鋭い視線を向けてはっきりと言い放った。


「これが現実、そしてこれが本当の私よ」


 目の前の状況を理解して表情が崩れていく瀬名の姿を、真澄は実験動物を見るかのような冷たい目で見つめていた。




「ねえ、瀬名って私のことが好きなんでしょ?」


 しばらくした後、真澄は満足したように鉈を離した。元いた椅子に戻り、呆然と立ち尽くす瀬名に聞く。


「だったらさぁ……私との愛のために命を捧げてくれないかな」


 そして何も言わずに黒いフードを投げて被せた。いつも真澄が犯行をする際に使う物で、触れるだけで禍々しい雰囲気を放っている。


「最近警察のパトロールが夜通しうるさくてさ。それ使って犯人役をやって、あいつらが一人でいる所をさくっと殺してくれない?」


 先程の反応から瀬名がすぐに受け入れるとは思っていない。案の定、彼の背中は小刻みに震えていた。


「できるわけがないだろう、そんなこと……!」


「あらあら、断ったらどうなると思う?」


 真澄は再び鉈を拾って瀬名に向けた。もちろん、彼を今すぐに殺すことはしない。


「瀬名のママも一緒に殺そうかな。以前挨拶にも行ったことがあるし、相談したいって連絡したらお家にもすぐに入れてくれそうね」


 母親の名をちらつかせると、今まで必死に抵抗する態度を取っていた瀬名は顔色を変えて取り乱し始めた。


「待ってくれ、お母さんは何も関係無いはずだ!」


「子供がだらしないのは親の責任でしょ。早く私の言うとおりにしないと、大切なママが苦しみながら死ぬことになるわよ?」


 すると彼の動きが止まった。頭を抱えて蹲り、啜り泣くような嗚咽が聞こえてくる。


「そんな、そんなことって……」


「できるの、できないの。どっちなの?」


 何か言い終わる前に鉈をテーブルに置き、瀬名の方に寄せた。それ以上のことはしない、どうせ今の彼に抗う気力は無いのだから。


「僕は、僕はどうすれば良いんだ」


 言うことを聞いても殺され、逃げようとしても母親と共に殺される。行く末を見失った瀬名に、真澄はただ声をかける。


「私の愛に応えるのよ、そうすれば私も、貴方の愛に精一杯向き合ってあげる」


 まるで犬の世話をするように頭を撫でる。お利口さんに手懐けて、自分の言うことを何でも聞かせられるようになればこっちのものだ。


「さあ、もっと貴方の正直で真っ直ぐな愛を私に見せなさい」


 汗が噴き出る、息が荒い。瀬名という人間は徐々に崩壊し、いずれは真澄の愛に従うだけが生きがいのペットになっていくことだろう。


「僕は嫌だ、僕は認めない、辛い、悲しい、僕はもうダメだ……」


 彼女は鉈とフードを渡したまま瀬名に背を向けて、静かに日が暮れるのを待った。




 その日の深夜、パトカーに乗った一人の警察官が粟生の住宅街を巡回していた。


「はぁ、どうしてこんなことに……」


 連続殺人事件が起き始めてから各警察官が毎日パトロールをするようになったが、この時間になると誰も歩いておらず辺りの雰囲気は少々不気味だった。


 田畑を通り過ぎると僅かな街灯さえ無くなってしまう、その光景はどこか異世界のよう。


「ん、あれって?」


 すると警察官は何かに気付いて車を停めた。恐る恐る扉を開け、一歩ずつ足を進める。


 人が路上に座っていた。黒いフードのような物を被っており、歩み寄っても動かないので生きているのかさえここからでは分からない。


「すみません、大丈夫ですか?」


「……あっ」


 とはいえ見捨てるわけにもいかないので声をかけた。すると、か細い小さな男の声でようやく答えが返ってきた。


「ダメですよこんな所で座り込んじゃ。お酒でも飲んだんですか?」


 そう言って警察官は男を立ち上がらせようとする。だが、どういうわけか男はその場から動こうとしない。


「お家はどこか分かりますか、送ってあげますよ」


「……ごめんなさい」


 何やら様子がおかしいことに気付いた。こちらが手を差し伸べても反応が無いし、手に何かを隠し持っているようにも見える。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 男はそこでようやく顔を上げた。今にも壊れてしまいそうな表情で涙を流している。


「これも、お母さんを守るためなんだ!」


 突然スイッチが入ったように男は顔を上げて、張り上げた声と共に立ち上がった。


 そしてその男……瀬名は、真澄から渡された鉈を持って警察官に切りかかった。驚いて無線を取ろうとする彼を止め、パトカーの陰に回り込んで逃げ道を奪う。


「ぎゃぁぁぁっ!!」


 直後、叫び声と血飛沫が誰もいない町に飛び散った。




「瀬名はとっても偉い子よ、誰にも見つからずに警察官を殺してきたじゃない」


 それから数日、瀬名は部屋から出ることすらできなくなった。


 時々廊下の方まで叫び声と泣き声が聞こえてきて、そして途端に静かになる。まるで目に見えない魔物に襲われているようだった。


「もう放っておいてくれよ、僕のことなんか」


 たかだか一人を殺した程度で、と真澄は呆れ返った。しかも大切な家族ならともかく、相手は素性どころか名前すらもろくに知らない警察官ではないか。


「僕はもう君と同じ人殺しなんだ。あの人にだって家族がいるだろうに、守りたい人だっていただろうにっ……!」


 部屋の隣に作って置いたご飯を置き、真澄はドアを軽く叩いた。


「そんなことなんてどうだって良いのよ。瀬名にはこれからもっと役に立って、私の身代わりになって貰わないといけないから」


「身代わり……!? ふざけるな、これ以上はもうたくさんだ!」


 何かを投げる音が聞こえてくる。真澄は顔を俯け表情を隠し、何も言わなかった。


「僕が邪魔ならここで殺せば良いだろ、どうして殺人のために僕を利用しようとするんだ!」


 真澄は静かにため息をつく。純たちには瀬名が病気で寝込んでいると伝えているが、そろそろ誤魔化すのも難しくなってきた。


「はぁ……」


 純ともうまくいっており、事件もしばらく解決される気配が無い。後は邪魔なこの男さえどうにかできれば完璧なのに。


「黙りなさいよ、どうせ私の思い通りになる以外何の価値も無いくせに!」


 真澄は力を込めてドアを蹴り飛ばし、部屋から聞こえてくる煩わしい音を掻き消した。


「もっとちゃんと犯人役してよ私が疑われちゃうじゃない! 私のことが好きなんでしょ、どうしようもないくらい愛してるんでしょ!? だったら何で私のために動いていつも私のことを一番に考えて私のために死んでくれないのよ! 私がその気になればあんたのママなんていつでも八つ裂きにできるの。分かったらさっさと出て来いよこのクズっ!!」


 すると向こうからは何も聞こえなくなった。真澄は追い打ちと言わんばかりにもう一度ドアを蹴り、荒々しい歩き方で立ち去っていく。


「今のあんたにはわざわざ私が殺す価値も無い。よく覚えておくことね……」


 彼女がいなくなった後、瀬名は全身の力が抜けたように部屋でばたりと倒れた。


「こんなはずじゃ……なかったのにな」




「もしもし、日岡瀬名です」


 その後、瀬名は真澄の指示で警察官の広野大和を呼び出した。彼を神社に連れ出し、二人きりになった所で以前のように殺害する。


 しばらく家で待てば目的は達成される、真澄はそう思っていた。


「すまない……広野さんは殺せなかった」


 しかしあの出来損ないは失敗して帰ってきた。聞くと録音機を使われたため、警察が来て捕まるのも時間の問題らしい。


「なあ、もうこんなことはやめにしないか」


 それどころか瀬名はそんなことを言って、黒いフードと鉈を床に投げ捨ててしまった。


「……」


「罪を犯したのは僕も同じだ。だから僕と一緒に警察まで行って、今までのことを二人で全部話そう」


 真澄は言葉を失った。今更後戻りもできないくせに、そうやって意味の無い独りよがりな希望を持ってこちらを巻き込もうとする。


「二人で、全部話す?」


 彼女の心の中で、何かがぷつりと切れるような音がした。


「分かったわ。ここで逃げてもきっとどうしようも無いし、純やみんなを悲しませるだけね」


 だから瀬名には今までに無い程の満面の笑みを見せ、優しく手を握りながらリビングの方に誘い込んだ。


「警察に自首しましょう。きっと貴方にはもう会えないでしょうけど、今まで楽しかったわ」


 彼の反応は本当に思っていた通りだった。疑いもせずに真澄の言葉を信じ、これから起こることを知らずに真澄についていこうとする。


「そうか、ありがとう」


 警察が来るのを静かに待つ瀬名。彼女はこっそり手袋と彼が落とした鉈を手に取り、その機会を伺う。


「僕も……君と会えて幸せだったよ」


 彼は最後の時まで、迫りくる刃に気付くことは無かった。




「はい、くだらない茶番はもうおしまいよ」


「なっ……うぐうっ!」


 真澄は躊躇いも無く瀬名の首を狙い、力を込めて頸動脈を切り裂いた。じわじわと血が流れ、遅れて彼は状況に気付く。


「ひ、ひいっ!」


 首が燃えるように痛い、頭がぼうっとする。今出ているものは全て自分の血なのか。


「うあっ、あああああっ!!」


 痛みでのたうち回る瀬名を押さえつけた。警察や純たちがいつ状況に気付くかは分からないが、あまり暴れられると証拠が残ってしまう。


「ううっ、ぐう、あっ……!」


 やがて瀬名の動きが鈍ってきた。瞳から光が消えて肌が青白くなり、徐々に死に近付いていくのが分かる。


「もう貴方と会えないって思うと気持ちが晴れ晴れするわ。さようなら、堅物のおバカさん」


 その言葉が彼に届いているかは分からない。だが、瀬名は残された力でほんの少しだけ口を開いた。


「ますみ、ちゃん……」


 弱々しい声だった。涙を流し、悲しそうな目でこちらを見つめる。そして瀬名は目を閉じ、二度と起き上がることは無かった。


 怒るわけでも憎むわけでもない彼の死に顔に、真澄の動きが凍り付き……




「何垂らしてんのよ、きったないわね」


 彼女は瀬名の遺体を蹴り、床に叩きつけて強く踏んだ。


「最後の最後まで気持ち悪い奴。警察が来るまでに、早くこいつを神社に戻さないと……」


 リビングに飛び散った血は全て拭き、真澄は遺体を軽自動車に詰めて走り始めた。


 途中に応援であろうパトカーとすれ違ったが、暗がりだったからか相手はこちらに気付く様子も無かった。


「……でも私のために死んでくれたことだけは評価してあげるわ。貴方のママも殺さないでおいてあげるから、あの世で感謝なさい?」


 適当な場所で瀬名の遺体を勢い良く放り捨て、真澄は何事も無かったかのように隙を見て自宅に戻った。


 五分くらい待っていると、何も知らないであろう警察がインターホンを鳴らしてドアを叩く。


「警察の者です、どなたかいらっしゃいますか?」


 わざとらしく咳払いをして、真澄は怖がる素振りを見せながらゆっくりと顔を出した。


「はい、どうされましたか?」


 それからは純や紫音も知っている通りだった。警察や二人の前で瀬名の遺体を目にし、彼女は嘘の涙を浮かべた。


「ううっ、瀬名、せなぁ! 目を開けてよ、いつもみたいにこっちを向いて笑ってよ、ねえお願いだから、目を覚ましてよぉ……!」


 録音機で瀬名の声が記録されていたことが救いになり、彼の遺体に痣が見つかるまで、誰も真澄のことを疑う人間はいなかった。




「こんな感じのことがあったのよ。どう?」


 まるで幸せだった経験を語るかのように、真澄は純に対して一部始終を話し終えた。


「どうって……お前」


「面白いでしょ? 瀬名は最後まで私が警察に自首すると思ってたしさ、死ぬ時だって泣いてたんだよ? 何が悲しくてあんなにしくしく泣いてたのかちっとも分かんないわよ! 拍子抜けも良い所よね、あっははは!」


 純は信じられなかった。今目の前で手を叩いて笑っているこいつを殺してやりたい、いや、殺さないと気が済まない。


「お前、お前だけはっ!!」


 あの時の涙を片時でも真に受けた自分が信じられなかった。純は真澄の首を掴み、無我夢中で壁に叩きつける。


「一体お前は何様のつもりなんだ! 俺に散々付き纏って、おばちゃんや瀬名のことも平気で殺しやがって!」


 今まで目にしてきた彼らの悲惨な姿が蘇ってきた。亡骸の悲痛な表情で、あの人たちがどのようにして殺されたかが容易に想像できる。


 それでも、真澄は何が起きているのか分からないといった顔で純の手を握る。


「どうしたのよ純、こんなことしたら私苦しいよ……?」


「ふざけんじゃねえぞ。お前のせいでどれだけの人が苦しんで、傷付いたのかがまだ分かんねえのか!」


 紫音には指一本触れさせるわけにはいかない。真澄を黙らせるために純がより一層の力を込めようとした、その時だった。




「ん、なあっ……!?」


 突然頭がぼんやりして視界が揺らぎ始めた。言葉が出てこず、純はそのまま力が抜けて床に倒れてしまう。


「ふぅ、ようやく薬の効果が出てきたみたいね」


 自分は一体何をされた。テーブルを見ると、先程飲み干した紅茶のカップがある。


「睡眠、やく……?」


「ええそうよ。貴方はこれから、私と一緒に結婚式の会場に来て貰うわ」


 完全に油断していた、先程彼女がキッチンで背を向けていた時に入れられていたのだ。


 自身の首を撫でた真澄は純の身体を抱き締めた。まるで赤ちゃんを寝かしつけるように揺らしながら、彼を夢の世界へと誘う。


「それじゃあ、私の腕の中でゆっくりとおやすみ……」


 目を閉じてはいけない、立ち上がらないと。そう思いながらも手足が全く言うことを聞かず、純はすっかり眠ってしまった。


「さあ、私と純の愛が実を結ぶ時よ」


 瀬名の時のように家の前に用意してあったピンクの軽自動車に乗り込み、真澄は彼を運んでどこかへ走り去っていった。




 続く

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