第24話 みんなから愛されて

 十二月二十四日の夜、赤石探偵事務所は静まり返っていた。電気は全て消され、一人でクリスマスの雰囲気を楽しんでいた純も、もう眠っている。


「お邪魔します……」


 しかし日付が変わる少し前に、何者かによってドアが開けられた。


 鍵は当然閉められており、純も吾郎も寝室の中だ。来るはずのない誰かが、あるはずのない鍵を持って事務所に入っている。


「やっぱりこの感覚、この匂いはやめられないわ……純の周りを包んでた空気が私の中に入って、そのまま突き抜けていくような感じ。うふ、うふふ、ふふっ」


 その正体は真澄だった。もう影のようなコートは纏っておらず、普通の服装に戻っている。


「確か、純の部屋はこっちだったわね」


 目の前にはレトロ調の階段がある。足音を立てて起こしてしまうのも悪いので、屈んでゆっくりと一段一段を踏みしめる。


 心では早く行きたいという思いに襲われながら、真澄は湧き上がる気持ちを抑える。


「純が起きちゃったらどうしよう、純のパパが起きちゃったらどうしようっ……!」


 真澄は笑いながらそう呟いた。ようやく二階に辿り着くと、彼女は迷わず純の部屋のドアを開ける。


「すう、すぅ……」


「あらあら、可愛い寝顔ね」


 思っていた通り、純は布団で寝ている。完全に力が抜けたその顔は遊び疲れた子供のようで、真澄は思わず彼を抱き締めたくなった。


 のそり、のそりと近付き、せめて彼を感じていたくて手を伸ばした。


「でも……きっと今じゃない。純のパパと紫音ちゃんを殺せば、純は私のことしか見れなくなる、愛せなくなるから」


 穏やかな寝息が聞こえてくる度に胸が苦しくなり、自身の呼吸が荒くなっていく。


 真澄は純の頭を優しく撫でた。彼はもぞもぞと動きながら、ほんの少し嬉しそうな表情を浮かべる。


「待っててね純。その時が来れば、きっとあなたを迎えに行くわ」


 しばらくすると真澄はどこか満足したような表情でその場を離れ、物音を立てずに事務所を出た。




 そして翌朝、純は少し遅めの時間に起きることとなった。


「……ん、今何時だ?」


 携帯で確認すると今の時間は十時。今日は特に急ぎの用事も無かったが、すぐに着替えを済ませて事務所を開ける準備をする。


「目覚まし、設定しといたほうが良かったかもな」


 クリスマスとはいえ、辺りの風景は全くと言って良い程変わっていない。純はドアを開けて、冬の寒い空気を取り込みながら看板を立てる。




 だがその時、横から自分を呼ぶ声がした。


「あの……赤石純さん、ですか?」


「あ、はい」


 突然のことに純は一瞬だけ固まってしまった。どこかで見覚えのある姿の男性が、こちらに向かって歩み寄ってきた。


「急にすみません、私は満の夫の佐渡さど楓ふう真まといいます」


 名前自体は初めて聞いたが、満の夫という言葉に純は大きく頷いた。


「楓真さんですね、初めまして」


 しかし彼は何かがおかしいと思い始めた。楓真はどこか心配そうな表情をしており、言葉からも少し焦りを感じる。


 どうしましたか、と聞こうとした純だったが、向こうが先に口を開いた。


「満が昨日、こちらに来ませんでしたか?」


 楓真はそう聞いてきた。純は違和感を持ちつつも、彼女が事務所に来たことを正直に伝えた。


「はい、昨日の昼頃に息子さんと一緒に」


 彼は渋い顔をして頷く。嫌な予感がしたのと、寒気で体が一瞬だけ震えた。だって、その聞き方はまるで……


「実は昨日の夜から彼女の行方が分かっていないんです。赤石さんはどこに行ったかご存じないですか?」


「えっ、佐渡さんが……!?」


 行方不明。昨日に満が赤ん坊を連れて事務所に来た姿が、純の頭の中で何度も繰り返された。


 もしかすると、何かの事件に巻き込まれてしまったのだろうか。


「分かりません、買い物に行くとは仰っていましたが……」


 話を聞くと、満は昨日の昼頃に楓真にメールをしたのを最後に連絡がつかなかったらしい。つまり、買い物に行く際に何かあった可能性がある。


「満は家を出る時に、赤石さんに会いに行くと言っていました」


「そう、だったんですね……」


 行かなければならない。頭の中で考えるよりも先に、純は動き始めていた。


「もし良ければ、一緒に探しましょうか?」


 ここで迷っている暇は無い。外に出る準備を急いで進める彼に、楓真は少し驚いたような顔をした。


「良いんですか?」


「はい、捜索は探偵の得意技ですから」


 純はポケットから携帯を取り出し、今は家にいると思われる相棒に連絡を入れた。


「赤石だ。昨日事務所に来た佐渡さんが行方不明らしい、来てくれないか?」


 電話の向こうからは驚いたような声が聞こえてきた。純は必要なことだけを伝えると電話を切り、紫音が来るのを待った。




「赤石さん!」


 程無くして純は紫音と合流できた。満が行方不明になるという突然の出来事に、彼女も慌てている様子だった。


「佐渡さんがいなくなったって……」


「ああ、何かの事件に巻き込まれた可能性もある」


 事件という言葉が耳に入った時、紫音は険しい表情をした。


「分かりました、三人で探しましょう」


 まさか、そんなはずは無い。連続殺人事件でもう誰も犠牲者を出したくないと、真澄にそう言ったばかりなのに。


 きっと満は生きているはずだ。そしてどこかで必ず私たちを待っている。


「大丈夫です、佐渡さんならきっと」


「深山……」


 純と紫音は二手に分かれた。満の家の周辺で、人通りの少ない道や場所を探していく。


「佐渡さん、いたら返事して下さい!」


 しかし声は返ってこなかった。行方が分からなくなってから一日が経過しているので、もう別の場所にいるのかもしれない。


「楓真さんが最後に佐渡さんを見たのは昨日の正午ですか?」


「はい、僕も母の家に呼ばれたのでそれからは……」


 本当に事件に巻き込まれ、満がこの場にいないのであれば、警察に連絡をして捜索願を出して貰う方が良いのかもしれない。


「佐渡さんを目撃した方がいないか、調べてみましょうか」


 このままではいつまでも満が見つからない。紫音が気を取り直して聞き込みに向かおうとした、その時だった。




 満は倒れていた。人通りの少ない脇道で、ベビーカーの隣に。


「あ……」


 紫音は何もできなかった。血を流し、右腕が切断されている彼女の遺体に言葉にできない程の恐怖を感じ後ろに下がる。叫び声も上げられない。


 それは一緒にいた楓真も同じで、額から汗が噴き出た状態で立ち尽くしていた。


「嘘だよ、こんなの」


 あの時と同じだ。最初に純と出会った頃から、自分は何も変わっていなかった。


「赤ちゃんは……?」


 ベビーカーの中はこちらから見えない。もうどうなったかは分かっているはずなのに、もしかしたら生きているのかもしれないという淡い期待から手を伸ばす。


 しかし、紫音はその行動を後悔した。


「ひいっ!」


 ベビーカーから小さな腕が零れ落ちた。紫音はそこで、自分の目にした現状をようやく理解できた。


「そんな……」


「いやぁぁぁっ!」


 犯人は相手を選ばなかった。満と息子の勝は、どちらも右腕を切り落とされて殺害されてしまっていた。




「おい深山、一体何があっ……」


 直後に別の場所を捜索していた純も現場に辿り着いた。しかし、紫音の立ち尽くす姿を目にして思わず立ち止まる。


 言葉が出てこなかった。パトカーのサイレンが近付いても、彼はしばらく沈黙していた。


「どうなってんだ、でも、だって……!」


 しばらくすると純は紫音の顔をじっと見つめた。全身を震わせて、怒りとも恐怖とも違うただならぬ表情で。


「こんなの有り得ないだろ、なぁ?」


 二人の遺体を目にして、眩暈のように頭がくらくらする。覗き込むと、紫音は泣きそうな顔をしていた。


「お前は気付いてたのか、連続殺人事件の犯人が瀬名じゃないって」


「はい、すみません……」


 純は彼女を責めることもせず、ただ空を見上げた。事件が終わり、何もかもが解決したと思い込んでいた自分が馬鹿みたいだった。


 今まで何をしていたのだろう、そしてこれから何をすれば良いのか。


「満、目を覚ましてくれよ……」


 楓真はゆっくりと、変わり果てた姿になってしまった満に歩み寄った。


 彼女の遺体は悲しそうな顔をしていた。息子の勝を目の前で殺されたのか、庇おうとしたが先に殺されてしまったのか。


「うあああっ……!」


 彼が遺体を目の前にして泣き崩れる姿は、探偵の二人の心に重くのしかかった。




「死亡推定時刻は昨日の夜、凶器はやはり大型の刃物である可能性が高い」


 遺体を発見した数時間後、純と紫音は巡査長の三木遼磨から事務所で事件の概要を聞いていた。


「今回は犯人らしき人物の目撃情報があった。ベランダで洗濯物を干していた現場近くの住民が、黒いフードを被った怪しい人物が歩いているのを見たそうだ」


 暗がりで姿は見えなかったが、何かを持って現場の方向に向かっていたという目撃証言があったと遼磨は説明する。


「深山君の考えていた通りだったのかもしれない。日岡瀬名を脅し、犯人に仕立て上げた者が今回の事件を起こした。その可能性は高いだろう……」


 目撃された犯人の姿は、警察官を襲った時の瀬名の服装と一致していた。紫音の推理は的中したものの、彼女は顔を俯けていた。


 分かっていたのに、満の殺害を防げなかった。


「どうして、佐渡さんは狙われたのですか?」


 しばらく考え込んだ後、紫音は絞り出すような声で遼磨に聞いた。


「彼女は小野東高校の生徒で、七年前に殺害された竹田葵さんが所属していた美術部の部長だった」


 遼磨はポケットから制服を着た満の写真を取り出した。いや、それは言われないと彼女とは分からないような姿だった。


「今とは……全然違う」


「確かにな。当時は少しやんちゃだったのかもしれん」


 派手な格好で目つきも今より鋭い。紫音は写真と視線が合ったような気がして、少し顔を逸らした。


「竹田さんの殺害について、佐渡さんが何かを知っていた可能性もあるな。やはり犯人は、小野東高校と関係が深い人物ではないかと推測される」


 今まで起きた事件の情報をまとめて、遼磨はそう結論付けた。


「小野東高校、か……」


 純は遼磨が渡してきた写真に視線を移した。未だにこの頃の記憶は思い出せないし、彼は思い出すのが段々怖くなっていた。


 当時を知る人物が次々と狙われている。そこまでして隠したいものは一体何なのだろうか。


「俺たちも一旦、集めた情報を整理してみます」


「分かった、何か分かったことがあればすぐに連絡して欲しい」


 遼磨も警察署に戻らないといけなかった。彼は写真を戻して二人にお辞儀をし、急ぎ足で事務所を立ち去った。


 純が席を立ってドアを閉めると、後ろから紫音が声をかけてきた。


「赤石さん……大丈夫ですか?」


 彼は恐怖で全身を震わせていた。失った自身の記憶、そして満や勝の死に押し潰されそうになる。


「大丈夫だ、何ともねえよ」


「ごめんなさい、私がちゃんと真犯人のことを伝えていたら……!」


 純のそれは空元気だった。だがここで落ち込んで目の前にいる相棒を悲しませたくはない。


「何度も言ってるだろ、お前のせいじゃない。油断してたのは俺も同じだ」


 少し力を抜いたら声が掠れてしまうような気がして、言葉の一つ一つに力を込めて紫音に伝えていく。


「三木さんが犯人を捜している間に、俺たちも情報を集めておかないとな」


 純はふと携帯を確認し、遼磨の後を追うように事務所を出る準備をし始めた。


「どうされましたか?」


「御影さんから事件について話をしたいって連絡があったんだ。深山も来るか?」


 その名前を聞くのも紫音にとっては久々だった。そういえば、先程電話でやり取りをしていたのは彼女とだったのか。


「いえ……私はここで待っています」


 私がいても邪魔になるだけなので、と言いかけてぐっと堪える。


「分かった……じゃあちょっと行ってくるわ」


 純は紫音に向けて手を振り、最低限の装備で清良との待ち合わせ場所に向かった。そして、彼女は事務所の中で一人となる。




「よし、そろそろ良いかな……」


 彼が完全にいなくなったことを確認し、紫音はこっそり本棚を探り始めた。


「小野東高校の資料、何か残ってないかな?」


 遼磨の言っていたことが正しければ、満が殺害されてしまった理由は小野東高校にあるのかもしれない。純は記憶を失っているが、当時の資料が残っていれば何かヒントが見つかる可能性もある。


「ん、これって……!」


 少し埃を被った辞書や小説の山をかき分けると、紫音の求めていた物が見つかった。それは純が保管していた高校の卒業アルバムだ。


「ちゃんと残してたんだな、こういうの」


 最近見た形跡は無かった。純自身も存在を忘れていたのか、それともあまり見たくなくて避けていたのか。


 アルバムをテーブルに置き、紫音は静かにそれを開く。


「赤石さんは……変わってないな」


 クラス写真には純の姿もあった。イベントに参加したり、教室内で友達と遊んでいる姿も収められている。


 そして、アルバムには各部活を紹介するコーナーもある。


「あれ、佐渡さんはいない……?」


 美術部の写真には部長であるはずの満がいなかった。葵の顔は分からないが……ここには写っていない可能性もある。


 そしてそこには、嬉しそうな顔でピースをする真澄の姿もあった。


「でも部員多いな、ここから探るのは難しいかも……」


 ざっと数えても部員の数は十人以上いる。今から聞き込みを始めて、連絡に応じる者は何人いるだろうか。


「でも、やるしかなさそう……ん?」


 そこで紫音は現実に引き戻された。誰かが事務所のドアをコンコンとノックする音が聞こえてきたからだ。


 慌ててアルバムを戻そうとしたが、ふと彼女の動きが止まった。


「赤石さんじゃ、ない?」


 純はドアをノックなんてしない。だとすると来ているのは新しい依頼人か、もしくは……


「紫音ちゃん、いるの?」


「やっぱり!」


 紫音は急ぎ足で玄関に向かいドアを開けた、すると、そこには案の定真澄が立っていた。


「斉藤さん、こんにちは」


今日の彼女は以前純と神戸に行った際に購入したトレンチコートを羽織っており、薄いピンク色のバッグを持っている。


「こんにちは、また来ちゃった」


 笑顔で手を振られた紫音はお辞儀をして、彼女を事務所の中に案内した。




 一方その頃、純は粟生駅の前で電車が来るのを待っていた。


「おっ、多分あれだな」


 十分程待っていると折り返しの電車がやって来た。恐らく、あそこには清良が乗っていることだろう。


 そして、彼女は今度こそ乗り間違えをせずに純の前に現れた。


「お待たせしました、赤石さん」


「お久しぶりです……」


 スーツを着た清良を連れ、純は駅から最も近いカフェに足を踏み入れた。周りから一際浮いているミント色の建物で、中では数名の客が会話をしている。


「ここにしましょうか」


 二人でメニューを開いて注文する物を決める。元々ここでお腹を満たす予定は無いので、飲み物だけを決めて店員を呼ぶ。


「ホットコーヒーをお願いします」


「私はキューピットで」


 注文を受けて店員は頷いた。だが、聞き慣れない単語に純は目を丸くする。


「き、キューピット……?」


 どんな飲み物なのか想像もつかなかった。もしかすると、最近の流行というか映えというかそういうものに特化したメニューなのだろうか。


「カルピスをコーラで割ったものです。昔は喫茶店の定番メニューだったそうですよ」


清良は小さく笑いながらそう言った。ここでもしばらく待っていると、二人の飲み物が到着する。


「では早速、本題に入りましょうか……」


 清良は純の方をはっきりと見つめる。彼女の目的はキューピットでも、喫茶店でもない。


「また連続殺人事件が起こってしまったのですね。それも、犯人が死亡したはずの……」




「聞いたよ、また殺人事件が起こったんでしょ?」


 そして事務所でも、真澄が事件について紫音に聞いていた。


「はい、以前こちらにも依頼に来ていた佐渡さんとその息子さんが……」


「私も驚いたわ、佐渡先輩には美術部でもお世話になっていたから」


 やはり彼女は満のことを知っていた。そういえば、真澄なら同じ美術部の葵についても何か知っているかもしれない。


「斉藤さん、一つ聞きたいことがあるんですけど良いですか?」


 真澄は静かに頷いてこちらに歩み寄ってきた。紫音は先程まで見ていたアルバムを取り出し、美術部の写真をゆっくり指差す。


「これは赤石さんの卒業アルバムです。ここに竹田葵さんは写っていますか?」


「ああこれね、私も持ってるけど……」


 紫音は彼女の顔を覗き込んで次の言葉を待った。だが、真澄は申し訳なさそうな表情で首を横に振った。


「ここに葵はいないわ。亡くなったのが一年の時で、この写真が撮られたのが、確か二年の終わりだったから」


 満がいない理由も、恐らくすでに引退していたからだろう。真澄は悲しそうな顔をしていたが、同時にどこか当時を懐かしむような様子も見られた。


「斉藤さん。当時の小野東高校で何があったのか、貴方の知っていることを教えてくれませんか?」


 紫音は思い切ってそう聞いた。どうして、という表情で真澄はこちらを見つめている。


「事件解決には小野東高校で何があったのかを知るべきだと思うんです。でも私たちがいくら調べても、その時の情報だけがぽっかりと抜け落ちています。赤石さんもその時の記憶を失っていますし……」


 真澄は何も言わずに頷いていた。彼女が何を考えているのかは、紫音には分からない。


「だから教えて下さい。竹田さんや佐渡さんのことや、事件の前後に起きたことも……」


 それでも彼女は今思いつく言葉を探り出し、勇気を出して真澄に聞いた。断られることも覚悟して、ぎゅっと目を瞑る。


 それから何秒か経って、紫音は恐る恐る目を開ける。


「警察の人にもそんなことを聞かれたわね。でも、大したことは知らないわよ?」


「構いません、私は少しでも真実に近付きたいんです」


 言い終わった後、紫音はふと窓の方に視線を移した。今頃、純は清良と会ってどこかで話をしているところだろうか。


「分かったわ。じゃあまず、どこから話そうかな……」


 真澄が当時のことを語り始める。紫音は再び彼女の方を見て話を聞く態勢になった。




「葵は真面目で勉強熱心な子だった……と思うわ。実際私も一緒にいたのは半年くらいだったけど、あの子は部長だった佐渡先輩のことを誰よりも尊敬していた」


初めて部活を見学した時に知り合い、そこから仲良くなったとまではいかないが、美術部での活動を一緒に取り組んだと真澄は話した。


「けれど佐渡先輩にはちょっと悪い一面があった。先生やクラスメイトにいたずらをして、その写真をこっそり撮影していたらしいの」


「えっ、あの佐渡さんが!?」


 信じられないことだった。でも当時の満の写真を見ると、やはり昔は少し不良だったのかもしれないと紫音は解釈した。


「うん。葵は誰かに殺される直前に、佐渡先輩と二人で協力して、いたずらで体育の白石先生に大怪我を負わせようとしたみたい」


 あくまで噂なんだけどね、と真澄は付け加える。しかし、事件の手がかりを探る紫音にとっては重要な情報だった。


「美術部のことについては顧問の緑川先生に聞くと良いわ。今も高校にいるかはちょっと分からないけど……」


「分かりました、緑川さんですね」


 紫音はメモ帳を持ち、緑川という名前と美術部の顧問である旨を書き記した。今は辞めているかもしれないという注意書きも加えておく。


「赤石さんが記憶を失ったのは、竹田さんが殺された後ですか?」


 言葉が出てくる前に、真澄ははっきりと頷いた。紫音は口にしようか迷ったが、吾郎から託された情報を彼女に伝える。


「赤石さんのお父さんが言っていたんです。当時、あの人は誰かに追い詰められて飛び降りたのではないかと」


 途切れていた情報が繋がっていく。純が記憶を失ったのは恐らく偶然ではない。


「もしかすると赤石さんは竹田さんの殺害現場を見てしまい、それがきっかけで犯人に命を狙われていたのかもしれません」


 紫音はクラス写真を見た。そこにはクラスメイトと一緒に笑顔で写っている純の姿があったが、どこか浮かない顔をしているようにも見えた。




 気付けばもう日が落ち始めていた。今の時刻は五時、季節は冬だからか辺りが暗くなるのが早い。


「そうなのですね、事務所に依頼をされた方が……」


 純たち二人はかれこれ一時間は話していたような気がする。テーブルに目線を下ろすと、空になったキューピットのグラスが淡い光を放っていた。


「深山と一緒に小野東高校について調べようと思います。失った記憶が何なのか、少し怖い所はありますけど……」


「大丈夫なのですか?」


 コーヒーはほんの少し残っていた。純がそれを飲み干すと、下に沈んでいた苦みが口の中に広がっていく。


「いつかは向き合わないといけないんです、以前の俺が逃げたものに」


 満の遺体がふと頭の中に浮かんでしまう。昨日まで幸せそうに毎日を過ごしていた人でさえ、一晩であのような変わり果てた姿になってしまった。


 純が自身の震える手を眺めていた、その時だった。


「う、あっ……!?」


 頭に鋭い痛みが走った。直後、今まで見たことの無い光景が浮かんできた。


「どうしました?」


 清良が心配そうな表情をする。そんな中でも、頭の中の映像は続いていく。


 それは学校の廊下だった。放課後になり、誰一人として歩いていない校舎の片隅にある古びたトイレ。


「大丈夫です、けど……」


 床には血が広がっている。個室のドアが開き、何者かが出てくる所で映像は止まった。


「これは、俺が忘れていた記憶?」


 誰かが襲われ、殺されている所かもしれない。困惑する清良に笑顔を向けるが、彼の全身からは汗が噴き出ていた。


「何か、思い出したのですか?」


「まだはっきりとは分かりませんが、でも……」


 少しだけ頭の痛みが治まってきた。既に喫茶店にいる客は純たち二人だけになっている。


「俺は高校の時に、誰かの殺害現場を見たのかもしれません」


 トイレの個室から出てきた人物が誰だったのかは、まだ純には思い出せなかった。




 その日の夜、紫音との話を終えた真澄は家に戻った。


「うふ、ふふふ、あはは……!」


 壁にもたれかかって彼女は笑い始めた。誰もいない薄暗い家で、不気味な笑い声だけが辺りに広がって反響する。


「馬鹿じゃないのあの子。真実に近付きたいとか何も知らないくせに偉そうに言っちゃってさ。死ぬかもしれないのにそれでも純のために頑張るとか本当に身の程を知らないっていうか哀れっていうか、可哀想過ぎて助けてあげる気も起きないなあ、どうやって本当のことを話して踏んづけて泣かせて殺してやろうかなあ」


 洗面所に向かって蛇口を捻った。ふと鏡を見ると、そこには誰よりもきれいで美しい自分の顔がある。


「でも刃物を向けた時、あの子がどんな顔で絶望するかは楽しみかもね。自分なら何でもできるって思い上がって、けど何もできなくて、そんな自分に死ぬ程後悔しても遅くて……うふふ、きっととびっきりの泣き顔を私に見せてくれるんだろうな……!」


 そこで真澄は何かに気付いた。自分が置いてある歯ブラシの横に、かつての同居人が使っていた歯ブラシが残っている。


「何これ。汚な、要らないや」


 彼女はそれを素早く捨てた。視界に入らないようにゴミ箱に深く押し込んで、その他にも彼の私物が残ってないか探り始める。


「またお掃除しなくちゃな、純もいつかここに住むわけだし」


 二人きりのお城に異物は必要無い。真澄はまるで何かに取り憑かれたように棚を掻き分け始めた。




 続く

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