第22話 私は可愛いお姫様

 クリスマスの夜。佐渡満が連続殺人事件に巻き込まれてから、およそ一日が経過した。


 赤石純は探偵事務所で一人考え事をしていた。外部からの音を完全に遮断し、頭を抱えながらこれからどうするべきかを考える。


「赤石さん?」


 御影清良と喫茶店で話している最中に頭の中に浮かんできた、経験したことの無い映像。トイレの床に広がる血と、そこから出てきた謎の人物の存在。


「うーん……」


「赤石さん、ちょっと」


 あれは一体誰だったのだろうか。そして、自分の失っている記憶の全貌は……


「無視しないで下さいよ、赤石さんっ!」


 ふと、紫音の声で純は現実に引き戻された。見上げると、彼女は少し機嫌の悪そうな表情をしていた。


「ああすまねえ、ちょっと考え事をしてた」


「すまねえじゃないですよ。こんな時に一体何を考えてたんですか?」


 大したことじゃない。いつもの純ならそう誤魔化したかもしれないが、今の彼は違った。


「御影さんと会った時に、記憶がちょっとだけ戻ったんだよ」


 今まで純は紫音に助けられ、二人で事件を解決させてきた。だから隠し事はせずに、二人で真実に向き合っていきたい。


「えっ、記憶が……!?」


「そうだ。小野東高校で誰かが襲われて、殺される所を見た」


 驚きで目を丸くする紫音に、純は頭を捻りながら詳細を説明していく。


「俺は学校の廊下からトイレに向かっていた。すると床から血が流れていて、個室から誰かが出てくるのを見た。多分放課後……だったと思う」


 自分の説明が的確かは分からなかったが、彼女は数回頷きながら話をメモしていた。


「実は赤石さんが外出している間、斉藤さんが来たんです。もしかすると美術部顧問の緑川先生が、当時のことを知っているかもしれないと教えて頂きました」


「そうか。小野東高校に行けば何か分かるかもな……」


 そうと決まれば早く動かないといけない。このまま犯人を放置してしまうと、次にいつ誰が殺されるかは分からないからだ。


「明日の朝、深山は空いてるか?」


 純は椅子から立ち上がってそう聞き、紫音はもちろんですと答えた。


「行きましょう、小野東高校に!」


 運の良いことに今は冬休みの期間、生徒がいないので特別な用事が無ければ先生と話す時間は作れるだろう。


 白石先生に美術部について聞き、純の記憶にあった被害者は誰なのかを明らかにする。


「ああ、必ずここで事件を解決させるぞ!」


 二人は課せられたミッションをしっかりと頭に刻み、一休みして明日になるのを待った。




 次の日の朝、電車に乗った二人は市場駅で下車した。


「着きましたね。えっと、小野東高校は……」


「こっちだ、はぐれるなよ」


 この歳で迷子になんてならないのに、と紫音は不満そうな表情をしながら純の後を追った。


 相変わらずここは人気が無く、車の音と僅かな風の音以外は本当に何も聞こえてこない。学校が休みであることから、先生や生徒の声も無い。


「事前に連絡くらいは入れておくべきでしたかね」


 駅から高校はすぐだった。純は何も言わずに門を開け……られるはずもなく、インターホンを押して職員の返答を待った。


「すみません、卒業生の赤石です。東先生に用事があって来ました」


「東、先生?」


 かつての純の担任だろうか。その名前を聞くと向こうも納得した様子で、しばらくすると走ってきた男性の手によって門が開けられた。


「久しぶりやなぁ、赤石」


 純はその男性と共に校舎の中に向かう。紫音も入って良いか一瞬迷ったが、恐る恐る学校の門を潜った。


「深山、この人は高二の時の担任の東悠斗あずまゆうと先生だ」


 紫音は歩いている二人から視線を向けられてふと何かに気付いた。純が二年生の時とは、つまり……


「記憶を失った俺の面倒を見てくれた先生だよ。東先生、この子は俺の相棒の深山紫音っていいます」


「ああ、以前言っていた探偵の相棒か。よろしく」


 悠斗は笑顔を浮かべながらこちらに手を伸ばしてきた。その手を彼女は恥ずかしがりながらも、ゆっくりと握る。


「よろしくお願いします」




 しばらく歩くと純たちは校舎に辿り着いた。やはり中は人が少なく静かな雰囲気で、日の光が入らない場所は薄暗くて怖さも感じる。


 そう、それはまるで純の記憶にあった光景のようだった。


「そういえば赤石さん、探偵のことを他の人にも話してるんですね」


 少しでも話題を作ろうと、紫音が重い口を開いて純に聞いた。


「まあな、少しでも宣伝になればと思って……」


「久しぶりに連絡を取った時はビックリしたわ。あの赤石君が行列の絶えない探偵事務所を経営してるって聞いたから」


悠斗は完全に純の口車に乗せられていた。本当にそうだったら良かったのに、と彼女は苦笑いを浮かべる。


「今回はどうしてここに来たんや、冬休み中で誰もおらんのに?」


 純は廊下で立ち止まって、どう言おうかしばらく迷った末に口を開いた。


「俺が一年生だった頃、ここの近くの神社で竹田葵さんが殺されましたよね。その犯人を捕まえるために、情報を集めている所なんです」


「そうか、赤石は記憶が無かったからな……」


 悠斗は事件のことを聞くと険しい顔をした。純や真澄だけでなく、殺された葵の担任をしていたのも彼だったからだ。


「俺の見た限りだと、事件の前まで竹田に怪しい様子は見られなかった。当日も普通に下校していたが、夜になって竹田が家に帰ってこないと保護者から連絡があり、すぐに警察に通報した」


 東は一年生の教室の方を向いた。今は休業中なので誰もいないが、それはかつて葵が所属していたクラスだ。


 後悔と悲しみの感情を向けながら、彼は教室のドアに触れる。


「でももう遅かった。もしあの時の彼女が何かに悩まされていたんやとしたら、これは気付かなかった俺のせいや」


 そして東はこちらの方に向き直り、純の手をしっかりと握った。


「頼む、犯人を見つけ出して竹田の無念を晴らしてくれんか」


 純は力を込めて彼の手を握り返した。断るはずがない、元からそのために来たのだから。


「もちろんです、俺に任せて下さい」


「赤石……!」


 自然と何かに背中を押されて出てきたその言葉は、嘘でも冗談でもなかった。


「……」


 無言でその場を眺めていた紫音も何か言い返すことはせず、純の言葉を聞いて静かに頷いた。




 悠斗が職員室の前に着いた時、紫音はメモ帳を開いて彼に聞いた。


「すみません、ここに美術の緑川先生はいらっしゃいますか?」


「ああ。聞きたいことがあるなら、今から呼んでこよか?」


 もしかしたら別の学校に行ったのかもしれないと思ったが、運の良いことに彼は今でも美術の教師を担当しているようだった。


 悠斗は快く頷き、職員室にいる緑川を呼びに行った。


「もしかして、美術部について聞くつもりか?」


 彼の戻りを待っている間に、純が紫音に歩み寄って聞いてきた。


「はい。あの人なら何か分かるかもって、斉藤さんが教えてくれたんです」


 職員室を覗き込むと、悠斗は緑川らしき人物に向かって何かを話していた。だが彼は椅子に座っているため顔が見えない。


 しばらくするとその人物が立ち上がり、ドアが静かに開いた。


「こんにちは、私に何か尋ね事かな?」


 隣にいる悠斗と比べると明らかに細身で、淡々とした喋り方をする無表情な男性。美術部といえば個性の強そうな先生を連想させられるが、今の彼にそんな印象はあまり無かった。


「お久しぶりです……って、俺のことは覚えてませんよね」


「よく覚えているよ。授業中に居眠りばかりしていた、画伯の赤石君だろう?」


 言い方が少し面白かったので紫音は思わず吹き出してしまった。とはいえ、彼と会った目的はそれではない。


「初めまして、赤石さんと探偵の仕事をしている深山紫音です」


 紫音がそう言ってお辞儀をすると、悠斗からある程度の話は聞いていたらしい緑川は頷いて、職員室の横にある階段を上り始めた。


「君は美術部について聞きたいらしいね。それじゃあ、早速三階の美術室に案内するよ」


「えっ……あ、はい!」


 緑川の手には鍵が握られている。紫音たちは階段を駆け上がる彼を慌てて追いかけ、美術室に向かった。




「ここが美術部だよ……まあ、今は誰もいないけどね」


 階段を上がってしばらく歩くと、奥に美術室が見えてきた。


「美術室、ここが……」


 壁には部員が描いた絵がいくつか飾ってある。どれも高校生が描いたとは思えない程綺麗で表現力が高く、一目見ただけでその迫力に圧倒される。


「凄いですね、情熱が伝わってきます」


「ああ、しっかり見たのは俺も初めてかもしれない」


 純と紫音が立ち止まって絵を眺めているのを見て、緑川は思わず笑みが漏れた。


「良いだろう、みんな部員たちの自信作だ」


 彼の表情はほんの少し柔らかくなった。しばらくすると二人は絵から離れ、美術室の窓に視線を移した。


 中は普通の教室よりも広く、鍵を開けた緑川の手によって電気が点けられた。


「廊下で話すのも申し訳ないから、好きな席に座ってくれ」


 少し古い校舎だからか、腰を下ろすと冷たい風が一瞬吹き抜けるような感覚に陥った。純と紫音は並んで座り、彼らの前に緑川が座って向き合う形になる。


「ありがとうございます……」


「それで、君たちが聞きたいのは一年だった頃の竹田についてかい?」


 彼の声が少し低くなる。表情はあまり動いてないはずなのに、辺りには緊張感が漂う。


「彼女は入部した一年の中でも特に真面目な子だった。当時部長だった佐渡とも仲が良く、いつかは彼女の後を追いかけて部長になるのではないか、とも言われていたね」


 緑川はそう言って目を細め、明後日の方向を向いた。誰も使っていない蛇口から一滴の水が零れ落ちる。


「竹田が亡くなったという知らせを聞いた時は衝撃だったね。それから間も無いうちに佐渡も事件に巻き込まれてしまい、学校は一時騒然となったよ」


「佐渡さんが……事件に?」


 紫音が首を傾げると緑川はそこで言葉に詰まってしまう。しばらく沈黙した後、彼は思い切って口を開いた。


「体育の教諭だった白石が学校のトイレで殺害された。その後犯人が彼の首を切断し、佐渡の家の前に遺棄したのさ」


 首を切断して遺棄した。紫音が目を見開いて恐怖に震える中、純はそれとは別の言葉に衝撃を受けていた。


 トイレで殺害された。すると、彼の失った記憶は……


「まさか、俺が見たのは白石先生の殺害現場なのか」


 欠けていた記憶が少しずつ繋がっていく。だが、あのトイレで誰が出て来たかはいつまでも思い出せなかった。


「くそっ、もう少しなのに……!」


 その姿を頭から引き出そうとすると眩暈がする。まるで、身体が思い出すのを拒否しているようだった。


「気分が悪いのか?」


「ええ、当時のことが少しだけ蘇ってきました」


 緑川の言葉に純は細々とした声で答える。今は真冬のはずなのに、彼の額からは汗が噴き出していた。




 一通り美術部について聞き終わった後、純たちは一階の体育館横に移動した。


「事件がきっかけで美術部も寂しくなっちゃったからね、悲しいものだよ」


 体育館ではバスケ部が練習をしていた。誰も歩いていない寂しい校舎に、軽快なボールの音が響き渡る。


「確か昔は十人ちょっといましたよね。それが今では……」


「数人だ。正直、いつ廃部になってもおかしくないだろう」


 緑川はそう言って、わざとらしくポケットに手を突っ込んだ。


「一体犯人は、何を考えてたんでしょうね」


 紫音は純たちと、そして自分自身に問いかけた。空は思わず怖くなる程澄み切っており、一つの雲も無い。


「僕がもっとしっかりしていれば、結果は変わったかもしれないな……」


 悠斗の言葉が頭に浮かんだ。事件で大きな傷を負ってしまったのは、彼も同じだったのだと思い知らされる。


「おっといけない、こんなのじゃ彼と同じだ」


 その後緑川は我に返ってこちらに笑いかけた。だが、その表情は明らかに無理をしているように見えた。


「君たちはこれからどうする?」


「集めた情報を一旦まとめるつもりです。美術部の部員でコンタクトをとれる人がいれば、改めて当時のことについて聞いてみます」


 純はもう少しここにいたかった。小野東高校には彼にとって目を背けたい記憶も、楽しかった思い出も両方ある。


「ありがとうございました、また何かあったら連絡させて下さい」


 だがいつまでも留まっていられない。彼らは緑川に手を振られながら、校舎を後にした。




 純と紫音が市場駅に戻ると、もう時刻は十二時前になっていた。


「赤石さんがトイレで見た血は、体育教師の白石先生のものだったんですね……」


 電車の発車までしばらく時間はあった。紫音は駅のベンチに腰を下ろして、隣に座っている純に話を切り出した。


「ああ、これで佐渡さんと竹田さんが先生にいたずらを計画していたこととも繋がった、わけだが……」


 だが誰が事件を起こしたかはまだ分からない。紫音はその後を聞かなくても、彼の言いたかったことが伝わった。


「美術部が事件に関わっていることは確定と見て良いと思います。しかし今どこにいるか分からない十人近くの部員を見つけ出して、話を聞くことは……」


「この数日では難しいな。せめてもう一つくらい手がかりを見つけて、怪しい奴を絞り出すことができれば……」


 そこで必要な情報をまとめていたメモをもう一度見直していた時、突然純の電話が鳴った。


「ん、このタイミングで誰だ?」


 番号に見覚えは無い。無視するわけにもいかないので、彼は首を傾げながらもすぐに着信に応じる。


「はい、赤石です」


 どうせ間違いかいたずらの類の電話だろう。隣にいた紫音もそう思いながら黙っていたが、次の瞬間に純の顔色が変わった。


「え、はい。こちらこそ初めまして!」


「……!?」


 相手は初対面らしいが、純は大きな声を上げて何度もお辞儀をしていた。


「今からですか、はい。いえ大丈夫ですよ、すぐに向かいます!」


 新しい依頼者なのか、もしくは警察の関係者か。紫音は相手が誰なのか分からないまま、純の電話が切れるのを待った。


「ありがとうございます、それでは失礼します……」


「何方からの電話ですか、赤石さん?」


 だが純に電話をかけてきたのは、紫音の予想とは大きく異なる人物だった。


「日岡……瀬名さんのお母さんだった。伝えたいことがあるから、今から長田区にある家まで来てくれないかって」


 純も突然のことで戸惑っている様子だった。長田区、というと粟生とは反対方向になるのだろうか。


 その時アナウンスが鳴り、新開地行きの電車が静かにやって来た。


「長田……ってこの電車じゃないですか!?」


「ああ、取り敢えずこれに乗って向かうぞ!」


 純たち以外に誰も利用客はいなかったようで、二人が慌てて駆け込むと扉がすぐに閉まって電車は走り出した。


「はあ、今日は慌ただしいな……」


 伝えたいこととは何だったのだろう。せめてそれくらいは聞いた方が良かったのかもしれない。純は座席にもたれかかりながら、半分開いた窓をゆっくりと閉めた。




「悪いな、ここまで付き合ってもらって」


 純はふと紫音の方を向く。電車は既に鈴蘭台を出発し、瀬名の実家がある長田はもうすぐの所だった。


「今更何を言ってるんですか。日岡さんのご家族とお話ができるというのに、私が留守番しているわけにはいきませんよ」


「まあ、そうだけどさ……」


 すると電車が大きなトンネルに入り、周りの景色が見えなくなる。


「私たちは今まで色んな依頼を解決してきました。決して楽なものばかりではありませんでしたし、これからもきっと辛いことがたくさんあると思います」


 辺りの景色は真っ暗で何も見えない、しかし目を閉じると蘇ってくる。


 今まで共に過ごしてきた日々のこと、そして助けてきた依頼者のこと。初めて会ってからまだ半年くらいしか経っていないはずなのに、随分と長い時間が過ぎたような気がする。


「それでも、きっと私たちなら乗り越えられます」


 最初の頃なら予想もつかなかったような紫音の言葉が、純の心に深く染み込んでいった。


「何か強くなったな、お前も」


 ようやく長いトンネルを通り過ぎて、徐々に長田の駅が近付いてきた。瀬名の母は改札口の所で待っていると言っていたが、もう到着しているのだろうか。


「よし、気を引き締めて行くぞ」


「はい!」


 ドアが開き、二人はすぐに電車を降りた。だが……




 その時、乗車する一人の男性とすれ違った。


「ん、あれは?」


 新開地行きに乗車しようとしていた男性……広野大和は、純たちの存在に気付いて振り返った。


 向こうは全く気付いていない様子で、そのままドアが閉まって電車は動き出した。


「まさか探偵コンビが来るとはね、アジトの場所を突き止めたわけじゃないだろうが……」


 大和は周りに聞こえないように呟きながら、ゆっくりと座席に腰かけた。


「ふふっ、面白くなってきたじゃないか」


 彼はいつもの警官の服装ではなく茶色のジャケットを羽織っており、手には大きな楽器ケースのような物が握られていた。




 駅の改札口で待っていると、約束通り瀬名の母らしき人物がこちらに歩み寄ってきた。


「探偵の赤石君と、深山さんですか?」


「はい、俺が赤石探偵事務所の赤石純で、こっちが助手の深山紫音です」


 助手という表現に紫音は思わず言い返そうとしたが、ぐっと堪えて目の前にいる女性にお辞儀をした。


「初めまして、私は瀬名の母の日岡琴乃ひおかことのです」


 彼女は瀬名と同じくモデルのような綺麗な容姿で、礼儀正しい人のように感じられた。


「どうも、よろしくお願いします」


純たちは琴乃に案内され、瀬名の実家であるマンションに向かっていた。道中、彼女は歩きながらこう聞いてきた。


「赤石さんにとって息子は……瀬名はどのような人でしたか?」


「そうですね、会う機会は少なかったですが……」


 真っ直ぐで真面目な人、でも少しだけ怖い人。色々な言葉を頭の中で整理して、純は思い切って答えた。


「パートナーのことをちゃんと想っている人だったと思います。初めて会った時は真澄さんの元カレだと誤解されましたけどね」


 それが彼女にとって満足の行く答えかは分からなかったが、琴乃は彼の言葉に少しだけ微笑んだ。


「そうですか、本当にあの子ったら」


 五分くらい歩いていると大きなマンションや家が立ち並ぶ住宅街に入った。その一角で、彼女はゆっくりと足を止める。


「ここが私と瀬名の家です。もう息子はいませんが……」


 それは立派な造りのマンションだった。洋風でどこか探偵事務所に似たレトロな外観だが、そこまで年数が経っているようにも見えない。


 エレベーターで上の階まで移動し、琴乃は鍵を持って奥の部屋まで歩いた。


「どうぞ中にお入り下さい」


「すみません、それではお邪魔します……」


 中も普通のマンションと比較すると広い方のように感じた。純たちは彼女に案内されるまま、リビングの椅子に座った。


「突然呼び出してごめんなさい、ここまで遠かったでしょ?」


 目の前に暖かいお茶が差し出される。純は琴乃に頭を下げた後、ゆっくりと啜り始めた。


「いえ、ちょうど用事があった帰りだったので」


「ところで、私たちに伝えたいことがあるというのは?」


 紫音の言葉に琴乃はしっかりと頷き、二人の前に座って静かに話し始めた。


「警察の方からお話を聞いた時、私は胸が塞がるような思いでした。あの子が殺人事件を起こして、自殺するなんて有り得ない。これは絶対に何かの間違いだと」


 悲しみが混じった声だったが、絶対にという言葉に彼女は力を込めていた。


「だから瀬名の無実が証明された時、私は嬉しかった。息子はもう帰ってきませんが、これで犯人を捕まえることができれば、瀬名も……」


 ハンカチで目を拭いた後、琴乃は向こうの部屋の方を向いた。そこには瀬名の写真と私物が丁寧に置かれていた。


「瀬名が亡くなった日、私のもとに一件の電話が来ました。あの時はただ珍しいなと思っただけだったのですが、今思えばあの子は殺されることを分かっていて、最後に私と話したかったのかもしれません」


「日岡さんの、最後のメッセージ……」


 恐らく、紫音がコンビニで瀬名と会った後に電話をかけたのだろう。真犯人に殺人犯の格好をさせられ、殺される直前に。


「今回はその内容をお伝えしたいと思って連絡しました。事件解決に役立つかは分かりませんが……」


「ありがとうございます!」


 紫音は咄嗟にメモ帳を開いた。通話の内容を事細かく、丁寧に書き記していく。




 それは瀬名が死亡した日の夕方のことだった。夕飯の支度をしようと思っていた琴乃に、一件の電話がかかってきた。


「ん、瀬名から?」


 何かあったのだろうか。彼女は首を傾げながらもすぐに電話に出た。


「もしもし、お母さん。今ちょっとだけ良いかな?」


「うん、突然どうしたの?」


 母である琴乃には分かった。彼は元気の無さそうな声をしていて、きっと何かに悩んで連絡をしてきたのだろうと。


「何だかこっちでの生活がうまくいかなくてさ。一旦そっちに帰って、お母さんの顔を見たいなって思って」


 うまくいかないとはどういう意味だろう。彼女は気になって瀬名に聞き返した。


「真澄さんと喧嘩しちゃったの?」


「そうじゃないよ。そういうのじゃないんだけど、ちょっと疲れちゃったんだよ」


 ああ、喧嘩をしてしまったんだなと琴乃は察した。最初は気が合っていても、しばらくすると性格が合わなくてぶつかり合いになることは珍しくない。


「母さん。たとえ僕がどうなっても、母さんは僕の味方でいてくれる?」


「当たり前じゃない。離れていても、私はいつだって瀬名のお母さんなんだから」


 考えるまでもなく即答だった。彼の身に何があったかまでは分からなかったが、向こうでほっと息を吐いたのが聞こえてきた。


「困ったらいつでも戻っておいで、私にできることがあれば力になるから」


 それと彼女さんとは仲良くねと伝えた後、琴乃は電話を切った。




「なるほど、彼は何かに悩んでいたと……」


 紫音は一通りのやり取りを書き終えた後、メモ帳を静かに閉じた。


「それ以外には何か仰っていませんでしたか、これからどこかに行くとか?」


「いいえ何も。私もまさかこんなことになるとは思っていなかったので」


 琴乃は残念そうな表情で首を横に振った。もう少し何か情報があればと思ったが、直前の会話を知ることができただけでも純たちは嬉しかった。


 後は自分の力で真相を暴いてみせる、瀬名の思いを無駄にしないためにも。


「分かりました、貴重な情報をありがとうございます」


 その後二人は瀬名の写真の前で手を合わせた。直接話す機会は少なかったが、彼は純にとっても、紫音にとっても大切な人だった。


「日岡さん。貴方に罪を押し付けようとした犯人は、私たちが必ず見つけ出します……」


 事件が起きて後悔をしてしまった人、それでも前に進もうとしている人。今日純たちが出会った人たちの中にも、様々な受け止め方があった。


「だから待っててくれ、日岡さん」


 だからこそ、探偵はそんな人たちの思いを背負って戦っていきたい。


 紫音と純は瀬名の写真にそれぞれ言葉をかけ、最後に琴乃にお礼を言ってマンションを後にした。




 続く

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