第15話 巡り合う人たち

 十月に入り、まだ暑さが少し残っていた環境は一転して、やや肌寒さを感じるようにもなっていた。


 特急電車が大きな音を立てて通過する阪急芦屋川駅に、一台の車がやって来た。


「では、私はここで失礼致します」


 車を運転していたのは御影清良……ではなく他の使用人であった。


 今日は純との約束で粟生に向かう予定だったのだが、対して一蔵は地元テレビ局から取材を受けていて神戸に行かなければならない。清良も同乗して芦屋川駅まで向かい、そこから別々に行動するということである。


「すまないな、私も行くことができれば良いのだが……」


 清良は駅から電車に乗り、一蔵はそのまま車で向かう。珍しく別行動となる彼女に、一蔵が心配そうに声をかける。


「今回は仕方の無いことです。私は大丈夫ですよ、無事に用を済ませて参ります」


 清良は最後に、運転席に座っている使用人に声をかけた。


「芦屋様を頼みますよ」


「分かりました、御影さん」


 車はまるで清良を惜しむようにゆっくりと走っていたが、しばらくすると速度が上がって見えなくなった。


 辺りにはあまり人もおらず、誰かが券売機を操作する音が駅の外まで聞こえていた。これから電車に乗るということで、清良はやはりスーツ姿だった。


「さて、あの方たちも協力して頂ければ良いのですが……」


 清良は純や紫音と協力して、川田製作所を止めることと連続殺人事件の手がかりを掴むこと、その両方を行わなければいけない。電話をした時は否定する素振りは見せなかったが、実際に向こうがどのような対応をするのかが分からない。


「とはいえ、ここで心配するのは余計ですかね」


 清良は気を取り直して、駅の方に向かった。




 一方その頃、純は清良と会うのを前にとある場所に向かっていた。


「そういや、本格的に探偵やり始めてから会ってねえな……何か申し訳ない」


 粟生からほんの少し電車に乗り、小野で下車した。駅の東口を出ると何台かタクシーが停まっており、店もあちこちに点在している。


 純にとっては馴染みのある景色で、こちらに吹く風が安心を運んできた。


「もう半年か」


 彼が会おうとしているのは、探偵を目指すきっかけになった恩師だった。自分を支えてくれた父と、「あの人」にはいくら感謝しても足りないように感じる。


「今も元気に、やってるかな……?」


 純は線路に沿って北に歩き、思い出の場所を目指した。そう、思い出の喫茶店に。




「ここだな」


 住宅街の一角に、それは突然現れた。


 喫茶店「タツナミソウ」。店名が日本の花であるが、中は西洋風の喫茶店なのは相変わらず合っていないような気がするが、マスターはこの名前を気に入り30年も使い続けているため、何やら様になっているような気がする。


 赤石探偵事務所に似た落ち着きのある外観で、どこか近寄り難い雰囲気もある。


「うっす、おばちゃんいる?」


 しかし純は何も迷わず、まるで実家に帰る時のように店に入った。


「ん、純か。しばらく見ん間に、身長伸びたか?」


「まさか、この歳にもなって伸びないよ」


 奥から出てきた女性が、まさに純の会いたかった人だ。六十代くらいで気の強そうな顔をしており、しかし笑顔は誰よりも暖かい人。


 純は「おばちゃん」と呼んでいる喫茶店のマスター、野崎だった。


「おかえり、純」


 彼女は以前と変わらずに、優しく純を迎え入れてくれた。




 野崎が今も覚えているのは、高校入学を控えて純が楽しそうな表情で店に入って来た時のことだった。


「おばちゃん、四月から小野東に行くことになったぞ!」


 彼は小学校の頃からこのタツナミソウに通っており、野崎とは以前から親しかった。


「おお、それは良かったなあ」


 二人はカウンターを挟んで向かい合い、時間を忘れたように話した。


「高校に入って、何かしたいことは?」


 きっとこの少年は何も考えていないだろうと思いながら、野崎は純に聞いた。


「せやな……まずは思い切り遊んで、暇な時間は勉強したりとか」


「おいおい、普通逆やろ」


 野崎にとっても純が定期的に来てくれるのは嬉しかったし、彼がもしタツナミソウを「もう一つの家」のように思ってくれているのなら、これ以上のことは無かった。


「あとはあれだ、恋もしたい」


 純が唐突に出した話題に、野崎は目を丸くした。


「あれま、急やね」


 少し驚きはしたが、純ももう年頃なので気にするのも当然だろうか。


「どんな子が良いとかある?」


 他がどうなのかは知らないが、純は割と自分に何でも相談してくれる。この質問に大した意味は無い、野崎は少しだけ興味があって聞いただけだ。


「そうやな。同い年やけど大人みたいに綺麗で、甘やかしてくれる人……とか?」


 目を逸らしながら純は答えた……だがそこまで深く考えた様子ではない。


「そっか、出会えるとええな」


 そうか、もう純は高校生なのか。自分は特に変化も無く今まで過ごしてきたが、今からでも新しいことに挑戦できるだろうか。


「うん。高校生になったら、色んな事頑張るぞ!」


 純が次に来た時は、その新しいことを自慢してやろう。そう思っていたが彼はしばらくこの店に来ることが無く、結局新たな目標も作らずに終わってしまった。


 それどころか、彼は何らかの事情で記憶を失ったということを知ってしまった。




 彼が店に戻ってきたのは、そこから一年以上後だった気がする。


「おじゃまします……」


 彼らしくもない、少し頼りなくも感じる声が聞こえた。


「いらっしゃい、純」


「あの、久しぶり……おばちゃん」


 純は自分のことを全て忘れていたわけではなかったようで、安心した。だがその表情を見ると、自分にどう接していいか分からないのではないかと思った。


「思い出なんて、また作ったらええよ」


「えっ?」


 野崎がふと呟くと、純は驚いた様子だった。


「これからが長くて、楽しいんやから。私のことは気にするな、少年」


 そして、野崎はコーヒーの入ったカップをカウンターに置いた。


 カップは純専用の物で、彼と初めて会った日から。そして、今この瞬間までずっと大切に使い続けていた。


「ありがとう。じゃあ、いただきます」


 砂糖も加えて程よい甘さになったそのコーヒーを、純はゆっくりと飲み始めた。


「おばちゃん、またここに来て良い?」


「もちろん」


 彼がどんな悩みを抱えていたのか、またどんな経緯で記憶を失ってしまったのかは分からない。だが、今を必死に生きている彼をこれからも支えていきたい。


 野崎はそう感じて、手を振って去る彼を笑顔で見送った。




「俺、どうすれば良いのかなあ」


 純が明確に、将来の悩みを明かしたのは彼が高校を卒業した時のことだった。


「何で悩んでるん?」


 そんな時も、野崎は優しい表情で聞いた。


「いやさ、スポーツするにしても俺は中途半端だし。みんながやってないすごーいことをやりたいなって思ったけど、それが何か分からない」


 彼は動き続けるこの世の中で、流されないような仕事をやりたいと言ってきたのだ。


「じゃあさ、私が以前なりたかったけど、断念した仕事でもええかな?」


「……取り敢えず、何かだけ聞きたい」


 突然のことではあったが、純は頷いて野崎に近付いた。


「探偵。私は子供の頃、カッコよく事件を解決する探偵になりたかったんやわ」


 純はしばらくの沈黙があった後、少しだけ笑った。


「想像できねえ、おばちゃんが探偵やってるとこ!」


「失礼な、これでも昔は美人やったんや……!」


 ただ、その夢は純の心にも響いた様子であった。


「そうだな。今俺は自分のことすら分かんねえけど、親父やおばちゃん、それに真澄や周りの人たちにたくさん助けられた。みんなに助けられたから、今度は俺が誰かを助ける番なのかもな」


 野崎は安心した様子で、純に一つ付け加えた。


「純は抜けてるところもあるから探偵になった最初の頃は辛いかもしれない。けど安心し、シャーロック・ホームズのようになれなくてもええ。あんたはあんたにとって、最高の探偵になればええよ」


 そう言って野崎はホームズ等のミステリー本を、参考までにと貸してくれた。その日から、純がこの小さな町で探偵を目指す日々が始まったのだった。


「ありがとう、おばちゃん」




「俺さ、探偵の相棒ができたんだ」


 そして、現代に戻る。純は誰もいない喫茶店で椅子に座り、カウンターの向こうにいる野崎と話していた。


「良かったやんか。で、肝心の仕事の方はどうなったん?」


 今までの純であれば、「全然だよ」とか「やることが多くて」という、どちらかと言うと後ろ向きの言葉を並べていたことだろう。だがこれからを信じて、純は敢えてこう答えた。


「今はそいつと一緒に、連続殺人事件の解決を目指してる。俺たちはどうにか情報を集めて犯人と戦いたい」


 もう、純は迷わなかった。その姿は、野崎の目にも輝いて映った。


「そうか。これからも頑張りな、純」


 野崎はそう言った後、しばらく黙ったまま何も言わなかった。そして、思い切って純に告げた。


「私、来週辺りにこの店を閉めようと思っていてね」


「えっ……何でいきなり!?」


 野崎の発言に、純は声が少し裏返ってしまった。


「もう客がいないからさ。ここだけじゃない、粟生線の沿線はもう人がいないんや」


 野崎は純の後ろにある、テーブル席に目をやった、純以外に客は一人も座っておらず、日陰になっていることもあり暗い雰囲気を放っている。


「それに、タツナミソウを閉めた後は何か、この町のためになることをしたい。いつまでも、同じことばっかり続けていくのも何だかねえ」


 純はどう答えたら良いのか分からなかったが、野崎の判断を尊重しようと思った。


「俺は、おばちゃんのやることなら全力で応援する。それで、今までの恩返しができるのか分からないけどな」


 きっと明るくて優しい野崎なら、ここを退いてもみんなから愛される人になれるだろう。純はそう思って、彼女の背中を押した。


「来週、またここにおいで。私が淹れる最後のコーヒー、飲ませてあげる。」


 純が店を去ろうとした時、野崎はそう言った。


「分かった。その時には、俺の相棒も連れて来て良いか?」


「もちろん、ええよ」


 野崎が頷いたのを確認し、純はタツナミソウを出ていった。


「ごちそうさま」




「さて、私も何をするか考えようかね」


 純の飲んでいたカップは、もう使い始めてから十年と少しは経つだろうか。色は褪せていたが、今まで大切に使ってきたためヒビも存在しない。


「これと、新しいマグカップを純に」


 野崎は棚から新しく手に入れたマグカップを取り出し、丁寧にラッピングされた箱に入れた。これは純が最後に来た時、プレゼントとして渡そうと思っている。


「これ見たら、純はきっと泣くやろうな」


 彼女は店を閉める寂しい気持ちと、閉めた後に新たな一歩を踏み出したい気持ちの両方があった。


 外の木は葉が赤く染まり秋を告げていた。




「おっ、深山か」


 探偵事務所の前まで戻ると、そこには紫音が立っていた。


「こんにちは。どこかに行ってたんですか?」


「ちょっと個人的な用事で、小野までな」


 とはいえ、この後に清良が来るのでまた粟生駅までとんぼ返りしなければいけない。ここに一度戻ってきた理由は、荷物を置くためと紫音に会うためだ。


「今日は御影さんが来る。四時くらいに着くはずだから、駅で待っておこう」


 清良は初めてのはずなので、一応駅で待ってあげた方が良いだろうと純は判断した。


「分かりました。では行きましょう」


 紫音も同行して駅に向かったが、しばらく歩いた後にとあることに気付いた。


「鍵、かけましたか?」


「あっ、やべ!」


 父の吾郎も今は家におらず、完全に探偵事務所には誰もいない。こんな時期なのに鍵をかけずに外出するのは不用心だ。


 純は何週目かも忘れたが、今来た道を引き返していった。




「私は少々天然なところがあるため、こんな時も初めて乗る路線で迷う。そんなことを考えている方々が、どこかにいらっしゃるのではありませんか?」


 清良は周りに人がいないことを確認し、何やら独り言を話し始めた。


「しかし、私にはそんな心配はありません。私は芦屋様に使える、究極にして完璧なメイドですからね!」


 清良は少し心配だったが、新開地で粟生線の電車に無事乗ることができ、粟生に向かっていた。道中はトンネルや山道を通ることも多かったため、意外と退屈はしなかった。


「私は何事においても絶対に失敗しない、芦屋様のために任された仕事は完璧にやり遂げて見せますよ……!」


 電車は市場駅に停車、そして小野、葉多を通って粟生に着く。この調子だと粟生に到着するのは三時半頃…予定通りだ。


「さて、粟生はどのような場所なのですかね」


 もちろん清良は粟生に行くことが初めてなので、少し楽しみにもしていた。長閑な景色と、住宅街が合わさった町を電車は通り過ぎてゆく。


 市場を発車し電車の自動放送が喋り始めた。


「次は、小野、小野です……」


 しかしこの時の清良は、自身が乗車している電車が粟生行きだと信じて疑わなかった。




「……この電車は、小野止まりです」


「はあっ!?」


 そう、この電車は普通小野行き。つまり小野駅で折り返すため、ギリギリ粟生に行かない電車に乗ってしまったのである。


「粟生方面はお乗り換え下さい」


「いや、そこまで行くのならせめて粟生まで走って欲しいです!」


 英語放送の「The next stop is Ono terminal.」が追い打ちをかける。電車は無情にも小野で止まり、清良は降ろされてしまった。


「完璧だと、思ったのに……」


 周辺住民や、学生と思しき人も何人か降りている。近くに学校があるのだろうか。時刻表を見たが、粟生行きは三十分後と確認して清良は落ち込んだ。


「どこで待てと言うのですか。三十分待ちを乗り換えとは呼びませんよ、神戸電鉄さん」


 調べてみると、小野駅から探偵事務所まで徒歩四十分のようだ。良い天気なのだし、歩いても問題は無いだろう。


「別に私は乗り間違えたということではありません。


 そもそも新開地にいた時点で小野行きはすぐに発車、粟生行きは三十分後だったので、それなら景色を楽しんで小野から歩こうという計算だったのですよ。粟生行きが一時間に一本であることも理解してましたし、時間を狙って乗らないと大きく待たされることも承知の上です。それを踏まえた上で、私は粟生行きではなく敢えて小野行きに……」


 延々と呟いても待つか歩くしかない、秋なので気候が良かったのは不幸中の幸いである。


 清良は諦めてICカードを改札に押し付けた。


「くうっ、こんなはずでは!」


 西口から外に出て、探偵事務所までの長い道のりが待っている。


 恐らくこのような間違いは無いとは思いますが、皆さんも粟生線に乗車する際は誤乗に気を付けましょう。




 清良が乗り間違えたとは知らずに、紫音は粟生駅の前に辿り着いた。現在の時間は三時四十五分、本来であれば粟生行きが到着するまであと十五分である。


「よし、鍵かけてきたわ」


 紫音が一足先に着いたが、純がすぐに合流した。


「しかし、深山はどう答える気だ? 御影さんと協力することについて、イエスかノーか」


 そういえば、今まで明確な結論は出していなかったような気がする。川田製作所を倒したいという、清良と一蔵の依頼について。


「出された依頼は探偵として引き受けるつもりです。ですが問題は、彼らがその裏に何を考えているかですよ」


 以前も紫音が言っていたが、わざわざ芦屋財閥が協力を持ち掛けていたということは、純たちでしかできない何かがあるという可能性が高い。向こうも連続殺人事件について知っているようだったので、その関連の目的だろうか。


「その何かを知った上で、協力できるかを考えるつもりです」




「……店はありませんね」


 そして清良は、小野駅の西口から北上して探偵事務所に向かおうとしていた。東口とは異なり、こちらはロータリーを出ると何も無い。


 全く知らない場所なのも相まって、こちらに吹いてくる風が余所者を拒んでいるようにも感じられた。


「道は覚えました。まあ、良い運動にはなるでしょうね」


 比較的救いになったのが、駅を出ると道が分かりやすくて広く、さらに交通量が多いことだろうか。


「ここは、確か県道だったはずです」


 この辺りはJRと私鉄が並行しており、さらに県道は車の通りもある。やはりこう見ると、小野市や三木市は十分に発展の余地があると考えられる。


「あともう少し商業施設が増えれば、あともう少しアクセスが良ければ良いのですが。三田市と明暗を分けたのは、高速化と施設の充実度でしょうね」


 ニュータウンとして今までの良さを残しつつ、今の粟生線沿線は不十分な箇所を局所的に強化するべきだろうと考えられる。


 そんなことを考えているうちに、清良は七郷橋を渡っていた。これを通り過ぎると、探偵事務所はもう目の前だ。


「元気にしていますかね……お二人は」


 予想外のルートではあったが、約束の時間に着くことはできそうだ。




 そして、こちらは別の意味で予想外の事態に直面していた。


「あの人、来ないな」


「そうですね」


 四時に折り返しの電車がやって来たが、清良は降りてこなかった。彼女が連絡を忘れているため、二人は粟生に待ちぼうけの状態になっているのだ。


「すいません、福知山に行きたいんですけど」


 すると、純はおばあさんに声をかけられた。神戸電鉄か北条鉄道からの乗り換え客のようにも見えるが、純は丁寧に案内してあげることにした。


「まずは、ここからJRの加古川線に乗ります」


 紫音はそれを見つめ、清良がどうして来ないのか考えていた。


「遅れるのなら、せめて電話の一報くらいお願いしますよ……」




「綺麗な建物ですね」


 大きさとしては普通の二階建て住居よりも少し大きい程度だが、洋風にまとまったそのデザインは清良も美しいと思えた。


 中に人の気配は無かったが、ドアは開いていたので恐らく入っても大丈夫だろう。


「芦屋財閥の御影清良です。赤石さんと深山さんはいらっしゃいますか?」


 そう言ったのだが、答えはしばらくしても聞こえてこなかった。


「留守でしょうか」


 清良が首を傾げながら、奥に入ろうとしたその時だった。


「あら、いらっしゃい」


 階段から、一人の女性が降りてきたのだった。人形のような可愛らしい風貌で、長い黒髪と澄んだ青い目が特徴的だった。


「赤石さんの……奥さん?」


 特に何も考えずに、清良はそんなことを呟いてしまった。女性はきょとんとした顔になったが、やがて堪えきれずに笑い始めた。


「ふふっ、奥さんなんて……違うわよ、今はまだね」


 純たちが駅に行っている中、探偵事務所にいたのは真澄だった。


「私は斉藤真澄。純君とはそうね……ご近所さんっていう感じかな?」




「清良ちゃんっていうのね。紫音ちゃんと純君は今、粟生駅にいるわ」


 いつも純が探偵の仕事をしている部屋に、清良は案内された。後ろには本棚もあり、部屋は綺麗に掃除されていた。


「なるほど、私が乗り間違えたことに気付いてなかったのですね。すっかり連絡を忘れていました」


 清良は粟生駅に向かおうとしたが、真澄に制止された。


「待って。その前にちょっとだけ話さない?」


 真澄は椅子に座り、変わらない笑顔で清良のことをじっと見つめた。


 ちなみに今日の彼女はベージュの薄いコートを羽織っており、あまり広がりの無いブリーツスカートを穿いている。アクセントとして水色のリボンをヘアアクセサリーとして付けているが、紫音のものを参考にして買ったのは内緒である。


「しかし、赤石さんにも悪いですし……」


 清良はあまり長居したくなさそうだったが、真澄は構わず続けた。


「ねえ、清良ちゃんって可愛くない?」


 そう言って、清良の手を掴んでくる。


「えっ、私はそんな」


 清良は否定したが、ほんの少しだけ握る力が強くなった。


「良いでしょ、ほんのちょっとだけ話そうよ」


 顔も近付けられ、清良は突然のことで顔を赤くした。恥ずかしいのか、それとも……


「私、ちょっとあなたのこと気に入っちゃったわ」


「どうしてです? そんなあからさまに、私に何を求めているのですか?」


 警戒心が強まる、しかし真澄は止まらない。


「何も求めてないわ。言ったでしょ、少し楽しい話でもしようって」


 何だろう、目の前の女性とは今会ったばかりなのに。


「そこに想像が入ったなら……清良ちゃんは、私のことが好きなのよ」


 すぐに否定したかったが、清良はどんどん平衡感覚を失っていくような感覚に襲われた。ドキドキする……彼女の所作の一つ一つが美しく、暖かい。


「じゃあ、まずは貴方のことを知って仲良くなりましょうか。良いよね?」


 最初は「話したい」だったが、真澄は清良の反応を見て切り替えた。


「はい、分かりました」


 想像通り、清良は否定しなかった。


「清良ちゃんっておいくつ? 私より若そうに見えるけど」


「えっと、今年で二十二です」


 まずは適度に、うんうんと真澄は相槌を打った。


「私は純君と同じで二十四よ。清良ちゃんと比べたらお姉ちゃんではあるけど、そんなに緊張しなくても良いからね」


 そう言うと、清良の表情が僅かだが緩んでいくのが見えた。


「きっちりとした格好だけど、それはいつも?」


 真澄は次に、清良がスーツを着ていることが気になった。とはいえ、これは普通に気になったから聞いたのである。


「はい、あまり仕事着以外のものは着ません」


「ええ……何だかもったいないなあ」


 メイドの服を仕事着に数えて良いかは分からないが、私服については本当にあまり着ないのだ。真澄は少し驚いたが、すぐに今までの笑顔に戻った。


「可愛いなあ。強い清良ちゃんも素敵だけど、髪を伸ばしても綺麗だろうしどっちが良いのかなあ」


 気付けば、二人の距離は徐々に近くなっていた。だが先程までの警戒心は無くなっているどころか、少し近付かれることを嬉しく感じ始めたのだ。


「どうして、私が強いと?」


 まるで、心が読まれているような感覚に襲われた。でも不思議と、そういうのも悪くないと思ってしまう。


「体のラインを見れば分かるわよ。スポーツか……あるいは格闘技をやってるのかなって」


 可愛らしく首を傾げて、こちらを引き寄せるかのような視線がどんどん刺さってくる。


「強い子も良い、だけどちょっと私は清良ちゃんのことが心配だわ」


 真澄は今までから一転して悲しそうな顔になる……すると思わずこちらまで涙が出てきてしまいそうだ。


「毎日辛いんでしょう? 必死に頑張ってるけど、それが報われるかどうか不安になっているのね。貴方の気持ち、私はよく分かるわ」


 ああ、真澄に理解されて歩み寄られている。嬉しい、もっともっと自分を知って欲しい。




「さっきのおばあちゃんは?」


「ちゃんとJRの方に案内したから大丈夫。しかし、御影さんから連絡も来てないのか?」


 純は駅の方から戻って来たが、まだ清良は着いていないようだった。


「行き違いになったら困るし、あと一便だけ待つか?」


 もしかしたら乗り遅れたという可能性もあるので、純は待った方が良いと考えた。しかし……


「赤石さん、次の電車まで四十分はありますよ」


 そうだ、ここは一時間に一本の世界なのだ。


「そうだった……面倒くさいなもう!」


 つい、今まで我慢していた本音が出てしまう。気の遠くなるような紫音の宣告は、純の耳にいつまでも響き渡った。




「私は、とある人のために戦っています。けれど私がいなくても良いのではないか、私はあの人のお役に立てているのか分からないのです」


 芦屋財閥やらメイドやらと言うと困惑されるかも知れないと思ったので、清良はぼかして真澄に伝えた。


「良い子ね。そうやって悩んでいるのは、清良ちゃんが相手の人を愛している証拠。


 愛……ええ、愛なのよ」


 真澄は清良の頭を、ゆっくりと撫で始めた。


 ここまで優しくされて恥ずかしい。けれど、もう少しだけこうされたい。


「そんな風に相手を愛していれば、きっと貴方も愛される。互いに愛し合って、それは完全な愛になるのよ」


 真澄はそこで一旦清良から離れ、何やら向こうで作業を始めた。紅茶を用意しているのだ。


「教えて下さい。どうして見ず知らずの私に、こんなに優しくして下さるのですか?」


「貴方は純君に何かを求めてここに来た。だったら私がほんのちょっとだけ、頑張る貴方の力になれれば良いかなって思ったのよ」


 そして、真澄は紅茶の入ったカップを渡してきた。飲んでみると、良い匂いが心を落ち着けた。


「これで、力が湧いてきたかな?」


 真澄も同じく紅茶を飲んでいた。


 息を吹きかけて冷まし、飲むその姿も美しく感じてしまう。清良にはもう、真澄のことしか見えていなかった。


「まだ分かりませんが、何だか前には進めそうな気がします」


「そう、私も嬉しいな」


 互いに愛し合うことで、完全な愛となる。


 自分が一蔵のことを想っていれば、その愛は報われるはず。彼女にかけられた言葉の一つ一つが脳に刻まれて離れなかった。




「そろそろ、私は行ってきます」


 あまり待たせてはいけないので、この辺りで清良は粟生駅に行くことにした。


「ありがとうございました。私も、自分の気持ちを信じてやり遂げます」


 そして、短い時間ながらも自分の相談に乗ってくれた真澄に感謝の言葉を告げ、頭を下げた。


「言ったでしょ、清良ちゃんの力になりたいって。私は貴方のこと、好きよ。また困ったらいつでもおいで」


 斉藤真澄。同じ女性であるはずなのに、こんなに心が熱くなるのはどうしてだろう。もっと彼女を見たい、そして褒められたい。


「それと、純君には内緒よ。清良ちゃんのためにも、今話したことは二人だけの秘密にするの」


 真澄は清良の耳元で囁いた。


「できるよね?」


 彼女の頼みであれば、清良は断れなかった。


「はい……秘密にします」


「ありがとう。それじゃあ、またね」


 真澄は手を振って、駅に向かう清良を見送った。そして清良も手を振り返した。


「また会いましょう!」


 真澄は、今まであった人の中でも良い人だ。彼女は自分のことを想って支えてくれた。


 他の何も変わっていないはずなのに、清良の心には変化が生じた。




「大変申し訳ございません、遅れてしまいました。」


 そして、御影清良は三十分近く遅れて純たちの前に姿を現した。


「あれ、電車からじゃない!? 何かあったんですか?」


 電車で行くとの電話だったが、普通に彼女が徒歩で来たため純は困惑した。


「粟生行きと小野行きを間違えて乗車し、小野駅で降ろされました後に歩いてきました」


「噓やん……すみません」


 時間を間違えたのかと思っていたが、想像以上にとんでもないことをしていたようだ。純は少し彼女が可哀想に思えた。


「それはそれとして、連絡はした方が良いと思います。赤石さんは心配されてたんですよ?」


 遅れに関しては、今回は珍しく紫音が苦言を呈した。


「ごめんなさい、気を付けます」


 清良も言い訳をすることなく、改めて二人に頭を下げた。


「良いですよ。さて、遅くなりましたが行きましょうか」


 紫音もそれ以上は追及することなく、純と共に探偵事務所に歩き出した。


(何だか、深山さんは頼もしくなったような気がします。)


 紫音とは初めて顔を合わせてから二ヶ月経つが、その間に何かがあったのだろうか。清良は彼女が凛々しい顔つきになったように感じた。




 純たちが探偵事務所に着くと、鍵は閉まっていた。


「よし、それじゃあ入りますよ」


 純が鍵を取り出して開けようとする中、清良はとある人物の姿が消えていることに気付いた。


「真澄さんはどこに……?」


 てっきり近所だと聞いたので、純か紫音が留守番を頼んだのだと勝手に思っていた。不審に思っているのが顔に出ていたのか、隣の紫音が声をかけた。


「どうかされましたか?」


「あ、いえ」


 とはいえ秘密にして欲しいと言われているので、清良は黙って事務所の中に入った。


(まあ、大したことではありませんね。)


 心に残る違和感を、清良は静かに振り払った。




「今回は、わざわざ粟生まで足を運んで下さりありがとうございます」


 席に座った時、まず清良が言われたのはそんな言葉だった。


「いえいえ。依頼を受けるかどうかはお決めになりましたか?」


 意外にも、その質問に対して二人は首を横に振った。清良は驚いたが、すぐに純が付け加えた。


「聞きたいことがあります。その答えを確かめて、ここで俺たちは判断します」


 清良は無言で頷いた後、話を聞く姿勢になった。


「俺たちが聞きたかったのは、芦屋さんや御影さんが何を考えているかについてです」


 純は少し早かったが本題に入った。


「川田製作所についても早急に手を打たなければいけないはずです。でも、それだけではないはず」


 紫音も純に続いてそう言い、二人で核心に迫る。


「芦屋財閥の、本当の目的は何ですか?」


 しばらくの静寂が、事務所の部屋を包んだ。もしかしたら正直に話してくれないかもしれないと心配していたが、清良は優しい口調で純たちに話した。


「そういえば、はっきり話していませんでしたね。私は赤石探偵事務所と関わり、小野市で発生している連続殺人事件を解決することを目的としています」




 案外、純が予想していたことは的中していたのだった。


「深山さんが話した通り、川田製作所も我々にとっては脅威です。しかし、それ以上にこの殺人事件は分からない」


 恐らくは単独で動き、徐々に犠牲者を増やしながらも底が見えない何者かの影。どこにいるかも知らない脅威というものは、想像以上に恐ろしいと清良は感じている。


「形の見える敵よりも、形の見えない敵に後ろを取られることが怖いのです」


 しかし、そこで紫音は少し疑問に感じたことがあった。


「どうして、御影さんがこの事件を解決したいと思うのですか?」


 清良は返答に困った。今までなら、小野市の開発のために殺人事件が起きるのは邪魔だからと答えていた。


 だが川田製作所との戦いを始めてから、清良も変わったところがあった。


「この地域に屋敷を構える芦屋財閥。芦屋様は、感謝の気持ちとして地域を助ける事業をしたいと仰っていました。ならば私はそれに寄り添うのが役目です」


 最後に、自分のありのままの思いを伝えた。


「私は芦屋様と、今を必死に生きている兵庫県のために戦います」


 その答えが果たして正解だったのかは分からなかったが……純と紫音は互いに見つめ合い、そして頷いた。


「分かりました。とはいえ、今の俺たちも分からないことだらけですが」


 純は芦屋財閥と協力し、町を守る決断をした。


「力の私、知識の探偵さん。我々で力を合わせれば、誰よりも強いと思いますよ」


 清良がそう言うと、紫音は笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。


「何だか良いですね、それ。では、これからよろしくお願いします」


 紫音は清良と、握手を交わしたのだった。


「こちらこそ、足手まといにならぬように努力します」


 こうして赤石探偵事務所と芦屋財閥は、ようやく正式に協力関係となった。彼らがどういった道を歩むか、それはこれから次第であろう。


「さあ、勝負だぜ。名前も知らない犯人野郎め」


 純は二人の握手を見ながら、日が落ち始める空に向かって呟いた。




 続く

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