物語は生きているか

おもち

 

 先生のような人が自分に対して感情的に声を震わせるなんて、思いもしなかった。私は半人前にもなっていない編集者で、そんな私を先生はまるで実の孫のように可愛がってくれた。私がヘマをしても笑って励ましてくれる。何かが上手くいけば、些細なことでも褒めてくれた。先生は、決して優しいだけの、それだけの器ではない偉大な方だ。先生が書く小説はそのどれもが膨大な知識と経験と、確かな感性がないと書けないものばかり。この世界の全てを物語にできる人だと、私は本気で思っていた。そんな先生の肩が、今日は小さく震えていた。私は先生の側で立ち竦んだまま動けない。


「はじめから腑に落ちなかった。私達は何故、物語を創造するのか。創作は文化的に優れたものであると同時に、ただの娯楽だとも思っていたし、多能な人間の成せる表現の一種に過ぎないとも。私などは、その表現法を好むだけのありふれた存在だと」


私は自分の唇の震えを隠すことができなかったが、何とか言葉を絞り出した。


「先生が引退すると聞いてから、どうにかして引き留める方法を考えてきました。ところが先生は書くことをやめるどころか、私の知らないところで数え切れないほどの小説を今も書き続けておられます。私には…何が先生を追い詰めているのか、何が不満なのかが分かりません」


俯いていた先生はこの日はじめて、私と目を合わせた。


「君は今、編集者として私と向き合っているね。君の不器用ながらも熱心で前向きな姿勢は好きだが、今この一時だけ、君のその社会的立場を忘れてくれないか。今から私が君に話すことは、そんなちっぽけな次元の話ではないのだよ」


私が目を丸くしていると、先生は普段そうするように、椅子を寄こしてくれた。


「ごめんね。私も取り乱しているから気が付かなかった。さぁ座りなさい」


椅子に腰掛けてみると、いつもの居心地の良い先生との空間が少しだけ蘇った。


「君は自分で小説を書こうと思ったことはあるかい?」


「…いいえ。先生のことは尊敬していますし、憧れています。他の作家様も尊敬していますが、自分自身で何かを書きたいというのは、少なくとも今は」


「それがすでに間違えている。いいかい、君は物語を書きたいし、物語を創れるんだ。そのことに気が付いていないだけだ」


 先生は聡明な方で、人を不快にさせない話し方などもお手の物だった。それなのに、今日は私の意思を真っ向から否定している。私は先生の人柄をよく知っているから、その先の言葉に意味があると信じて先生を見つめた。


「今は私と君の関係上分かりやすいように小説と言ったが、物語だ。映画でも漫画でもいい、物語。君の頭の中に浮かぶ掴みどころのない妄想。いやむしろ、そちらの方がより近い。物語だよ」


 私が思い浮かべる物語。それは物語なんて、大層なものではない。ポンコツな私の仕事が捗るように時間を止める力を手に入れたいとか、目の前に甘いケーキをポンと出せるような、幼い子供でも思いつく魔法を使う自分を妄想する。その程度だ。


「そもそも、不思議には思わないか。人間は想像力豊かで、そんな人間には物語という表現法があってもいいとは思う。しかし、私達が生物として生きるためにその物語は、絶対的に必須ではない。それなのに、人間は頭の中で常に何かの世界を創り続けている。やめようとは思わず、物語を創りたいという確かな欲求が私達にはある」


それは先生のような作家としての欲求という意味合いではないことは、私にも分かった。


「私達は本来、同じ世界を共有しているんだ。この部屋にいる私達もそうだし、この国に住む人達もそう。この星に生きる全ての生き物もそう。それらは現実という目に見えるものだけではない。私達が私達の中に創造する物語は、全て繋がっている。私が書いた小説と、何処かの国で小さな子供が膨らませる妄想も、繋がっているんだよ」


「私と先生の物語も、繋がっていると?」


「そうだ。私はそれに気付いたが、もうあまり時間がない。私が一生かけて書き続けても、世界を繋ぐことなど出来はしない。それでも書き続けなければならない。誰かがやらねば。そして誰かが受け継がねば。頭の中にある物語を書き出して、確かに存在するものとして残さねばならない。だから、作家として小説を書くのはやめる。売り物にできる文章を整えている時間は、ないのだよ」







 先生の元を離れて、もう何十年も経つ。あれから私は職業柄、いくつもの物語に触れた。その中で見た世界は今確かに私の中にあって、それは私の中でまた別の世界を構築する。その世界に、また新たな物語が添えられていく。そして今、私はあのときの先生の言葉をこうして書いている。これも物語である。先生の物語であり、私の物語であり、これを読んでいるあなたの物語である。


 欲求というものは、生存本能だ。物語を創るという欲求は、私達を生かす。私達が生き続けるためには、私達が存在する世界を知覚しなければならない。今日までに滅んだものたちには、それができなかったのだ。

 先生は書き続けた。私はそれが意味のあることだと思っている。物語を小説という目に見える形で残すことが、私達にとって確かなものと不確かなものを繋ぐから。


 だから私はそれをこのようにここで書き残すし、これを読むあなたは、あなたの世界を確かなものとして繋ぐために、物語を創る。


 生きることは、物語だ。












数千年前に絶滅した人類が遺したとある手記より抜粋──


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