09
「……ええ、凄い綺麗ね、本当に」
私は今、一体何を考えたのだろう。
馬鹿馬鹿しい、どうかしている。過ぎった考えを否定するために伏せる瞼。ネアンと言う存在が居る所が天国と呼ばれる場所だなんて、笑えない冗談にも程があると。過ぎった考えを振り切るように軽く頭を振って気持ちを切り替えると、一華はゆっくりとネアンの元へと歩み寄る。
「此処にはさ……色んな色が溢れてるんだね」
「え?」
背丈の分だけ開く身長差。相手が長身のため、自然と一華が見上げる格好になってしまうのは致し方ない。自分よりも高い男は今、彼女の隣に立ち、透き通る程の青空を仰ぎ見ている。
「僕の居る部屋には無い色ばっかりだ」
そう語る横顔が寂しそうで。今にも泣き出してしまいそうに見えて、かける言葉を見つけることが出来ない。
「一華はさ、いつだってこの色を眺める事が出来るんだなぁ」
無い物ねだり…無い物ねだり。
空へと真っ直ぐに伸ばされたのは何も掴めない両の平と白い腕。
「僕も欲しいな……この色」
心臓が軋む。『込み上げてくる感情の名前を知っているか?』。誰かがそう囁いた気はしたが、それに気付いてはいけないと必死に塞ぐ耳。気付いてはいけない。流されてはいけない。ソレに対して感情を抱くことはしてはいけない。まるで呪いのように繰り返される言葉。
「僕、忘れないよ。今日見たもの」
一際大きな雲が日光を遮る。創り出された陰りは光のトーンを下げ、煽られた不安に心がざわついてしまうのが嫌で仕方ない。
「一華と城戸さん。二人と此処に来たこと、この場所に居た時間のことは、ずっと僕だけの宝物だから」
罪と罰。その言葉が一華に重くのし掛かる。
闇から伸びる、血に塗れた鈍色の鎖。それが身体にまとわりつく感覚に感じる焦り。探究心と引き換えに失ったものは一体何だ、と。禁忌を犯し手に入れた可能性という名の小さな芽。それは一体、どんな色の花を咲かせるのだろうか。
「でも……ソレはきっと碌な色を映さない」
閉ざされた視界に広がるのは漆黒の闇。
「だからもう少し、此処に居ても良いかな? もう少しこの光景を見ていたい。……しっかりと記憶に留めておきたいから」
余りにも純粋すぎる気持ちの欠片が、透明な硝子の刃の様に心臓を抉る。
「そうだね。もう少し、こうしていようか」
言葉の出ない一華に変わって、城戸がネアンの言葉に対して口を開く。
「ありがとう、二人とも」
再び触れる右手の感触。何時の間にか再び繋がれたのは互いの手だ。
「一緒に居られて良かった」
その言葉が何かを予兆する言葉のように聞こえ、一気に熱くなる目頭。握られた手の感触を確かめるように指に力を篭めれば、それに応えるようにして依り強く結ばれる互いの手。
「僕に色をくれて、ありがと。一華」
その言葉は狡い。ネアンに気付かれぬよう、一華は込み上げてくる感情の渦を必死に押さえ込む。大丈夫、大丈夫だと繰り返しながら。
夢のような時間が一瞬で終わりを迎えてしまうのは、繰り返される日常の方が圧倒的に多の時間を支配するからなのだろう。
白い壁と青白い室内灯。無機質な質感の機材に囲まれた空間で、いつも通りの一日が始まる。机の上に重ねられる書類には、先日行った実験結果と、これから行われるテストの概要がまとめられており、作業の合間にそれらを確認しながら淡々とこなしていくタスク。
「こっちはここにセットすればいいんだっけ?」
「そう。そしたらこれを分離機にかけて頂戴」
「了解」
採取したデータは即座に端末で入力される。蓄積される大量のデータは、書き込まれたプログラムによって様々な処理を施され、はじき出された予測結果が表示されるディスプレイ。その内容を手元のレポートに書き込みながら、一華は溜息を吐いた。
「アナログは効率が悪いって、また厭味を言われるのかしら」
無駄は出来るだけ省きたい。そんな風に考える人間も多い中で、彼女は珍しく記録をアナログ方式で残すタイプの人間だった。その理由は二つある。一つは、文字を書くというプロセスを組むことによって、彼女の思考が効率良く整理されるため。もう一つは、彼女が母国語を好み、それを使って記録を付けることを好むためだ。
「これを初めから英語で打ち込めば、確かに作業時間は大分短縮されるって分かっては居るんだけど……」
それでも止めることの出来ない癖。ペンを使い、紙の上に文字を書く。ただそれだけの行動が、一華は何故か好きで堪らないと感じてしまう。
「忘れたくないのかしら。日本語を」
そう言葉にすると、自然と表情が和らぐ。複雑な漢字に五十音の平仮名と片仮名。これ程複雑に文字を操ることを煩わしいと思われても、矢張りそれが好きだと思うのは、一華が日本人という人種だからだろう。
「おーい、タチバナー!」
レポートの半分ほど文字を書いたところでかけられる声。顔を上げ声の主を探せば、奥の部屋から上司が自分の名前を呼んでいる姿が目に止まった。
「今行きます!」
過ぎるのは嫌な予感。だが、それは気のせいだと首を振ると、一華は急いで上司の下へと急いだ。
「失礼します」
開け放たれたドアの前で立ち止まり、一礼してから室内へと足を踏み入れる。
「要件は?」
手で示された指示は『扉を閉めろ』というもの。それが何を意味するのかと言えば、この話は余り人に聞かれたくないものであるという事だった。小さく頷き後ろ手に扉を閉めると、上司は一度深く息を吐き出した後、重い口を開き彼女にこう告げた。
「最後にもう一度だけ、テストを行うことになった」
言いながら手渡される書類。それを受けとると、彼女は軽く目それらに通していく。
「君の創ったN-0687はとても優れているのは判ってはいる。だからこそ、最後にもう一度だけテストを行い、最高のデータを記録したいと。上からの指示だ」
嫌な予感はどうやら当たったようだ。いつか訪れると覚悟していた事が、少しずつ現実として形を作り始める。目の前で話す上司の言葉など碌に耳に入ってこない。視線を落とした先に広がる真っ白だった筈の紙。その上に機械的に印字されている文字の塊が、奇妙にのたうち回りながら視界の中で奇妙に踊り出す。
「気持ちが悪い」
込み上げる吐き気を必死で堪えながら、一華は書類に記載されている文字をひたすらに追い続ける。脳が考えることを止めろと拒む。情報をこれ以上入れるなと身体は訴える。
「……………というわけだが……聞いているのか? ミス・タチバナ」
「……あ…」
名を呼ばれ顔を上げようと動いたところで突然襲われた立ち眩み。目の前の光景がぐにゃりと湾曲し身体が大きく傾いて倒れた。
「……や…………」
言葉を紡ごうと口は動くのに声が出せない。
「ミス・タチバナ! 大丈夫か!!」
意識の外で誰かの叫ぶ声が聞こえる。
「………! …………!!」
でも……今は、何も……考えたくない……。
「全てをシャットアウトしてしまえ。
そうすれば楽になれるから」
次の瞬間、彼女の意識はブラックアウト。
薄れ行く意識の中、耳元で何かがそう囁いた気がした。
「一華……遅いなぁ……」
真っ白な部屋の中。開かない扉に手を当ててネアンは小さく呟く。
「何かあったのかな?」
一華がこの部屋に訪れないことなど、今までだって普通にあったはずだ。しかし、ここ最近は、毎日彼女がこの部屋を訪れてくれる。それが当たり前になってしまっているため、来てくれないことは余計に寂しいと感じてしまう。
もちろん、施設には他にも沢山人が居るのだ。自分がだけが、彼女に優先されるとは考えにくい。
「それでも……」
毎日自分に付き合ってくれる時間を設けてくれると言う事は、自分は彼女にとって特別な存在である思って良いのだろうか。そんな淡い期待を抱いてしまう。それは違う、そう考えるのは良くないと否定しても、そうあって欲しいと無意識に思う願い。だからこそ、彼女がこの扉を開いてくれることを、今か今かと心待ちにしている。
それなのに……今日はまだ待ち人の姿がこの部屋に現れる気配は無い。
「……寂しいよ……一華……」
閉ざされた空間で手に入れられるのは、大好きな存在と過ごす小さな時間だけ。それでも、それが有るからこそ頑張っていられる。それが有るから生きていけるんだと。
それは他のどんな物よりも大きな意味を持ち、あらゆる事に対しての糧になっているからこそ、ソレを奪われると途端に目の前が暗くなってしまう。
寂しさが積もる。触れた指先からは人の温もりではなく施設の持つ、無機質な冷たさだけしか感じられないことが嫌で仕方が無い。
「一華……早く……」
閉ざされた視界に広がるのは闇。足音は未だ聞こえてこない。
「早くしないと……もう……」
カウントダウンが静かに始まる。いつか来る終わりは、確実に近付きつつあった。
目が覚めたら白い布がふわりと揺れていた。
「目が覚めたかい?」
「ドク……ター……?」
声のする方に顔だけを向けると、白衣を着た金髪の男性が困ったように笑いながらこちらを見ている事に気付いた。
「医務局ですか?」
「そうだよ」
彼はこの部屋を管理するヴォルフ・クレーデンという男で、歳に似合わず童顔のため、年相応に見えるようにと蓄えた口髭があまり似合っていない。それがアンバランスでいつも可笑しいと感じてしまう。
「私……」
「倒れたんだよ。リンゲン所長のオフィスでね」
軽く一華の腕に触れた後、ヴォルフはサイドボードに置かれていたカルテを手に取りペンを走らせる。
「過労か? 働き過ぎも考えものだな」
カルテの表面を滑るペンのボール。罫線で区切られた枠の中にある程度言葉を書き込んでから動きを止めたそれは、油性のインクから伸びる塊を絡め取るようにして紙面から離され、寝かすようにしてその上へと乗せられる。
「頑張るなとは言いたくないが、体調管理はもう少ししっかりとした方が良いと私は思うぞ。取り敢えず薬を出しておくから、指定された時間に飲むことだね」
健康管理がなっていない。そう言われて一華は驚く。
「……ええ。分かったわ」
正直に言えば予想外だった。それなりに体調管理はしっかりしている方だと思っていたし、ここ数年はこのように倒れたことなど一度も無いのだ。急に倒れて意識を失うだなんて、微塵も考えはしなかった。
ならば何故だ? と。
ただ、その答えは朧気に分かってはいるのだ。それでも、ソレを理解したら駄目だと目を閉ざし耳を塞ぐ。
「ごめんなさい。邪魔をしたわね」
一華はゆっくりと起き上がると軽く頭を振って気持ちを切り替える。
「構わんさ」
ベッドから足を下ろし、床の上に揃えられたヒールへとつま先を滑り込ませるとると、ベッドの縁に捕まりながら立ち上がる。未だ軽い目眩は残っているようで、平衡感覚が上手く掴めない。それでも、仕事は待ってくれない。不安定によろけながらも、覚束ない足で医務室から出て行くべく部屋の出入り口に向かって歩き始めた時だ。
「ああ、そうだ。一華」
「何?」
医務室の扉まで後数歩。背後からヴォルフに呼び止められ止めた足。
「その……聞いたんだが、余り入れ込まないことが大事だと思うぞ。刻には割り切らねばならない時もある。それは忘れるなよ」
「…………」
手渡された薬と意味を含んだ言葉。それに対して己の考えを返すことをせず、一華は医務室の扉を開き部屋を出る。小さな稼働音を立てながらスライドして開いた扉は、数秒後ゆっくりと閉じてしまった。
「………まだまだ若いな、彼女も」
部屋に残されたのはドクターのヴォルフのみ。彼は手を胸の前で組むと、身体を椅子の背もたれに預けて小さく溜息を吐いた。
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