06

 スライドした扉の向こう側。部屋の中では、貸し出すための衣服を見繕ため、クローゼットを漁る城戸の姿が見える。

「もう一つお願いがあるんだけど、聞いて貰える?」

 そう彼に声をかけると、城戸は作業をしていた一端手を止め、不思議そうに一華の方へと視線を向けた。

「何ですか?」

 また変なお願いは勘弁してくださいよ。城戸の目はそう訴えている。

「車、出して貰えたりしないかなぁって」

「車?」

「実はね……」

 言いにくそうに顔を伏せながら一華が話したのはこんな話だ。

 一応、彼女自身、資格として運転免許というものは所持はしている。自分の車としてコンパクトな車種ではあるが、施設の駐車スペースも保有はしていた。しかし、彼女自身お世辞にも運転が上手いとは言えない。一年の殆どをこの施設で生活しているため、滅多に使用されることの無い乗用車を運転する機会と言えば、指を折って数えられる程度。メンテナンスのため定期的に動かさないことは分かっては居るが、それは整備スタッフに任せてしまっている。そのため、愛車は生活品を購入するための移動にしか使われることがなく、限られた道でしか長距離を運転した事が無かった。

「今回は自分で行ったことの無い場所になりそうだから、長距離の運転になると自信がなくて……」

 言葉にすれば連想されるのは最悪なパターンだ。こういう時、弱い自分が出てきてしまい嫌になると一華は頭を抱える。だが、一人で遠出をするならまだしも、同伴者を伴っての外出となると感じる責任は非常に重い。それに不安を抱えながらハンドルを握る勇気など、彼女には持てそうになかった。

「そいういう事なら仕方ないですねぇ」

 少しだけ呆れたような声。恐る恐る顔を上げ城戸の様子を盗み見れば、いつも通りの人懐こい笑顔を浮かべながら、彼は任せて下さいと胸を叩いた。

「いつも隙が無い一華さんの珍しい一面が見られたことですし、いいですよ。ドライバーとして、僕も同伴しましょう」

「本当? 助かるわ!」

 得られた同伴者の存在が一華の抱える不安を軽減させる。「着替えるから外で待っていて下さい」と部屋を追い出される際、「私も着替えてくるから」と城戸に伝え、待ち合わせ場所をネアンの部屋の前に設定すると、彼女は先程より少し軽い足取りで自分の部屋へと急いだ。


 針が円を描くように回るアナログ時計。一華がこの部屋から出て行って、長針の示す目盛りは既に、十の区切りを三つほど移動している。短針に至っては何周回ったのか数えるのを止めてしまった。

「一華……まだかなぁ……」

 ただ待つのはつまらない。それも、この後楽しいことが待っているのなら尚更だと。自分の意思でこの部屋を出るという選択肢。それを与えられていないことに疑問すら持たないネアンは、ただ待ち人が閉ざされた扉を開けてくれることを素直に待ち続けていた。

 規則正しく刻まれるリズムに眠気を伴い始めた頃だ。

「ネアン、入るわよ」

 漸く聞こえてきた待ち人の声。船をこぎ出した意識が現実へと引き戻され、ネアンは勢いよく顔を上げると急いで部屋の入り口へと移動する。

「一華!」

 開かれた向こう側の空間。そこに立っているのは二人の人物だった。

「どう言う……事?」

 一人はネアンの待っていた人物である一華である。別れる前と変わったのは格好くらいで、それ以外の変化は特に無い。

「城戸……さん?」

 もう一人は一華の隣に立つ一人の男性で、一応、ネアンも知っては居る人物。この施設のスタッフの中では比較的親しい存在ではあるが、何故彼が彼女と共に来たのかは分からなかった。

「私が頼んだの。一緒に来て欲しいって」

 そう言って身体をずらし城戸に場所を譲ると、入れ替わるようにして衣服と靴を持った城戸がネアンの前に立つ。

「長距離の運転になりそうだからって、一華サンに頼まれたんだよ。もしかして、お邪魔だったかなぁ?」

 少しだけ意地の悪い言い方は狡い。ネアンはそう思いはしたものの、状況が分かると素直に頷き差し出された物を受け取った。

「じゃあ、三人で出掛けることになったって事だね?」

 それに対し一華は頷く事で答えを返す。

「さぁ、急いで着替えて! 早くしないと外に行く時間が無くなっちゃうわよ!」

 急かされるように部屋に押し込まれると再び閉ざされる扉。手渡された衣服は動きやすそうなラフなデザインの組み合わせで、シンプルなデザインのTシャツに、良い感じで草臥れたデニム。アウターは柔らかい素材のカーキのパーカーで着心地が良い。流石にソックスは無かったから自前の物で間に合わせる。

「あっ。凄い」

 幾ら体格が近いとは言え、サイズがピッタリ合うかは賭けではあった。だが、その心配は杞憂に終わり、奇跡的にフィットしたのは衣服だけではなく靴も同じだ。

「お待たせ!」

 軽くノックして外側から開いて貰うスライドドア。廊下に立つ二人が驚くのも無理は無い。

「着心地はどう?」

 先に口を開いたのは一華の方だ。

「全然問題無い! 凄く動きやすいよ、凄いねー!」

 そう言って軽く飛び跳ね喜ぶ姿はまるで子供のようだと笑ってしまう。

「良かった。違和感が有ったらどうしようかと冷や冷やしたよ」

 心底安心したと胸を撫で下ろした城戸が、駐車場に向かって先に歩き出す。

「時間は有限! 早く行って楽しい思い出を沢山作りましょう!」

 そう言われると、退屈を感じて部屋で拗ねていた気持ちなんて軽く吹き飛んでしまうから不思議だ。

「行こう! 一華」

 柔らかい温かさが触れ、こっちだよと引っ張られる。それに驚いた一華の足が、一歩ずつ前へと進み始めた。

「今日は、いーっぱい楽しもうね!」

 やりたいことは簡単に思いつかない。それでも、与えられた僅かな自由に心が躍るのだろう。ネアンの足取りがいつも以上に軽い。

「楽しそうね」

「楽しいよ。一華と一緒にお出かけだもの」

 何処までも純粋な存在だと一華は思った。こうやって心から精一杯喜んで貰えるのなら、無理を通した自分の苦労も報われる。そう思うと、自然と顔が緩むのが自分でも判ってしまう。

 だが、そんな楽しい気持ちと寄り添うように、重苦しい罪悪感というものも確かに存在はしていた。日常から少し外れたイベントが楽しいと感じてしまうのは、当たり前なのだと。目の前で楽しそうに城戸の後を追うネアンを見ていると思う。生まれてからずっとこの研究施設以外の世界を知らないのだから、当然と言えば当然の事なのだが、それ故に、己が何故この世界に存在しているのか、これから先何が待ち構えているのかということを考えると、どうしても気が重くなる。

 何も知らずこのまま消えてしまう近い未来の時がいつ訪れるのか、恐ろしくて仕方が無いと。

「着いたよー」

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか駐車場に着いてしまったらしい。何台か前に停められた車体から聞こえてきたのは、ドアロックが解除される音だ。

「これ?」

 先に愛車の元に到着していた城戸の前に立つと、彼の愛車に驚き意外だと付け加える。

「4DW?」

「そうですよ」

 普段、施設内でしか交流が無いため、城戸のプライベートがどういうものなのかを一華は知らない。見た目と感じたのは確かなギャップ。

「貴方、意外にもアウトドアな趣味があるのね」

 車種だけでそう断定するのはどうかとも思いはしたが、それを否定すること無く城戸は笑いながら答えた。

「だって、ずっとこんな堅っ苦しい場所に閉じこもってたら息が詰まるでしょう? そういう時ゆっくりと外の空気を吸いたくなったりするんです。だから、コレ」

「ああ。なるほど」

 この辺りは、女性と男性で欲しいと思う刺激が異なるらしい。女性の場合、ショッピングや友人との談笑などを好むのに対し、男性はというといかに有意義に自分の時間を使うかに重点が置かれるようだ。それならばこのタイプの車を所有していても納得が出来る。

「さぁ、どうぞ」

 後部座席に二人。運転席側にネアンが、助手席側に一華が座ったことを確認すると、城戸は軽く口笛を吹きエンジンをかける。

「それじゃあ、行きますか」

 慣れた手つきで操作されるギア。サイドブレーキを解除し、クラッチをゆっくり離しながらギアをシフトさせると、車はゆっくりと進み出した。

「で、どこに向かえば良いんです?」

「どこって……そうね」

 尋ねられた目的地。確かな場所を質問者に伝えることは一華にとって難易度が高い。何故なら、ネアンが見たいと願った風景の情報は、雑誌のページには記載されていなかったからだ。

「景色が綺麗な場所って知らない? 出来れば、広い草原とかそういう景色が楽しめる所」

「草原……うーん……そうですねぇ」

 城戸と一華の二人がそんなやりとりを交わしている傍で、本日の主役であるネアンはと言うと、窓から吹き込む風に気持ちよさそうに目を細めていた。

「うわぁ……」

 目の前で流れゆく景色。それは確かに色を持った世界の一部。毎日見ている白い壁とは違い、その場その場で形や色を変える変化が純粋に楽しくて仕方ない。そんなネアンの表情は、終始嬉しそうだ。

「凄いよ、一華! ホントに凄い!」

「気に入った?」

「うん! とっても!」

 明確な目的地が未だ定まらないことに焦りを感じながら、一華はネアンの様子を盗み見る。当の本人は今あるものが楽しくて、周りの様子を気にする余裕なんてないらしい。「どこに行くの?」「何をするの?」などと言った質問は無く、ただ、ただ、一人で外の景色を楽しんでは、「凄い、楽しい!」を繰り返していた。

「それじゃあ、ちょっと寄り道しながらとっておきの場所に行きます?」

「そんな場所あるの?」

「期待に添えられるかは分からないですが、一応は、ね」

 結局、自分では目的地を決める事が出来なかった一華は、城戸の提案に素直に甘える事にして頷いた。

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