05

「え……ええ」

 目の前の相手は、既にこの後の時間を期待して心を躍らせてしまっている。早く、早くと急かされ一華は漸く覚悟を決めた。

「その前に。少し待っててもらえるかしら」

「え?」

 直ぐにでも出かけられる。そう思ったいたネアンが分かりやすく驚いてみせる。

「何で?」

「貴方、こんな格好で行くつもり?」

 そう言って困った様に笑う一華の言葉に、ネアンは意味が分からないと首を傾げた。こんな格好と言われても、身につけている衣服は本日取り替えられたばかりの新しい物だ。毎日代わり映えのしない同じデザインではあるが、汚れがあると言うわけではない。確かに、面倒臭くてそのままにしてあった寝癖が残ってはいるが、顔は洗ったし歯も磨いた。人と会う最低限の条件は満たしているはずだと目で訴える。

「そうじゃないの」

 彼がそう疑問に思う事は分かっているのだろう。一華は眉を下げながら笑うと、こう言葉を続けた。

「この服は制服みたいなものでしょう? 外を歩くには、もっと動きやすい服の方が都合はいいの。私も外に行くときはこの白衣を脱いでから出かけるわ。だから、貴方も服を着替えた方が良いんじゃないかと思って」

 尤もらしい理由付け。本当は、配給されている衣服で出歩こうとすると、施設内外で都合が悪いからというのが本音である。だがそれをネアンに説明する必要は無い。

「うーん……でも、服はいつも、朝渡されるから……」

「そうね」

 だからこそ待ってと伝えたの。綺麗に弧を描き作った微笑み。

「貴方に会う服を私が選んできてあげる。直ぐ戻ってくるから、それまでここで待っていてくれる?」

 ここはお姉さんに任せなさい。そんな風に指示を出すと、一華の綺麗な手がネアンへと差し出された。

「ほら、指切りげんまん」

 約束事はお決まりの儀式で。ネアンが一華と出会ってから、何度も繰り返されてきたその動作。

「判った。待ってる」

 一華の透き通った声が室内に響く。「ゆびきりげんまん。嘘付いたら針千本……」という意味がどういうものなのか、ネアンは知らない。最後の言葉で離れる小指を名残惜しそうに追いながら、躱された約束を守るべく頷いた後、ネアンは大人しくベッドに戻り腰掛けた。

「それじゃあ。行ってくるわね」

 相変わらずこの施設には人気が無い。研究員は各自、実験棟や自分のオフィスに籠もり作業にいそしんでいるため仕方無い話ではあるのだが。偶にすれ違うスタッフも、交わす言葉は必要最低限のもの。軽い会釈と報告を済ませれば、足早にその場を立ち去ってしまう。

 廊下を進む度響くヒールの音。元々はこの形をした靴を履くことは嫌いだったはずなのに、はき続けて早何年になるのだろう。ふとそんなことを考えてしまう。

「実験体と外出するなんて初めての事だわ」

 それもそのはずである。今まで、実験体に外出の許可が下りた事など、野外に設置された実験施設に移動する事を除いて一度足りとも無いのだ。今回、申請が許可されたのは例外も良いところ。前例のない試みをよしとしない人間など、この施設には五万と居るはずだ。

 それでも一華は行動を起こした。始めから自由など無い人形が望んだ、小さな願いを叶えるためにと。

「それにしても……」

 服を用意するとは言ってみたものの、それを調達するのは少し難易度が高いと抱える頭。

「実験体の衣服は全て同じものが用意されているから、普通の服なんて……無いわよねぇ……」

 一華の言葉通り、実験体用の衣服は始めから決められた物が用意されている。それは、収容個体全てが、この施設から出る事を一切考慮はされていないためだった。当然、彼等の私服なんて物は、始めから用意されているはずもないことなど、彼女だって分かってはいる。

 自分の服は貸し出せない。性別も体格も違うのだ、そもそも身につけること自体が不可能である。ならば、近い町まで出て服を調達するのが妥当な手段ではあるが、それだと往復で時間がかかり外出自体が出来なくなってしまう可能性が高い。どうしようか悩みながら廊下を歩いていると、耳に届く明るい声。

「一華サン!」

 顔を上げれば、廊下の角で大きく手を振る男性の姿が目に止まった。

「城戸君?」

 一華に向かって手を振っているのは城戸と言う男性で。一華よりも数年遅くこの研究機関にやってきたスタッフの内の一人だった。

「珍しいですね、考え事ですか?」

 人懐こい性格の城戸は、同郷である一華に親近感を強く抱いているようで。こうやって一華の姿を見つけると、いつも嬉しそうに駆け寄り話しかけてくれる。

「そう言えば……貴方、結構身長があってしっかりした体つきしてるわよね?」

 彼女の言う通り、城戸という男は日本人にしては珍しく高身長だった。研究員として働いてはいものの健康には気を使っているらしく、よくジムに通ってトレーニングをしているのを見たことが有る。

「どうしたんですか?」

 思い出そうと辿る記憶の糸。以前メディカルチェックの時に見せて貰った身体データの数値は、殆どネアンと変わらない。外見的には城戸の方が細身に見えるが、体を鍛えている分筋肉量はそれなりにあったはずだと。

「そうね。貴方が一番近いかもしれない」

 無意識に動く腕。一華の白い手が城戸の腕に触れる。体のラインを辿るように肩をなぞり、弾力を確かめようと指で鷲津噛むと、驚いた城戸が小さく藻掻いた。

「わっ! ちょっ……何するんですか! 一華サン!!」

 何を考えているのか分からず感じる恐怖。怯えるようにして距離を取ろうと後ずさる城戸に対し、驚かせたことを軽く謝る一華が口を開く。

「城戸君。頼みがあるんだけど」

「え?」

 予想外の言葉に一瞬だけ面食らってしまう。悪意がないことを理解した城戸は、警戒を解き話を聞こうと耳を傾ける。そんな彼の様子に胸を撫で下ろすと、一華は彼に向かってこう話を切り出した。

「少しお願いしにくい話ではあるんだけど、服を貸してくれないかしら」

「え? 何で?」

「貴方が、彼に近い体格をしているから」

 研究者という物は何故こうも言葉が足りないのかと城戸は思う。突然言われた言葉に戸惑うことしかできず、どう返事を返せばいいのかを悩んでいると、一華は気が付いたように言葉を付け足した。

「彼って行っても、付き合っている男性とかそういうのじゃないのよ」

「はぁ?」

 益々意味が分からないと城戸は頭を抱える。目の前の彼女は時々よく分からないことを行ったりもするが、今日は一段と酷い。何を考えているのかが分からないと訴える抗議。

「そ、そりゃあ、一華サンのことは好きですし、僕が出来ることは協力したいとは思いますけど……その……誰だか分からない男相手に自分の服を貸すなんて、気持ち悪くて無理ですよ」

 そう彼女に伝えると、一華は不思議そうにこう返す。

「分からない相手なんかじゃないわ。だって、彼、この研究所に居るんですもの」

「だったら自分の服を使って下さいよ!」

 これだけ言葉を交わしても言っても、まだ上手く噛み合わないままの会話。ここで漸く、一華はこの切り出し方だと相手に伝わらないのだと言う事を理解する。

「ごめんごめん。彼っていうのは献体番号N-0687の事よ」

「え? N-0687?」

「そう」

 今度はきちんと。相手に伝わるように順序立てて事情を説明する。N-0687に外出許可が下りたこと。外出するためには彼の着ることが出来る服が必要であること。彼の服をどうしようか悩んでいるときに、城戸が声をかけてくれたこと。そして、彼と城戸の体格差が殆どないから、服を貸して欲しいんだと言う事を。そこまで説明してやっと事情が飲み込めた城戸は、大きな溜息を零しながらやれやれと首を横に振る。

「そういう事情なら良いですよ。……ってか、そういうことは始めっから言って下さい!」

「言わなきゃダメだった?」

「言われないと分かんないこともあるでしょうが!」

 何だかんだと優しい後輩。貸してくれるという服を取りに、二人して城戸の部屋へと向かって歩く。

「しかし、よく外出許可が下りましたね」

 それは純粋な疑問だろう。

「私自身も驚いているわ。まぁ、半ば強引に許可証を発行して貰ったとも言うけど」

 今更ながら自分が取った行動が可笑しいと。城戸という男と言葉を交わしたことで、感じていた緊張が解れたのか、一華は楽しそうに小さく笑い声を上げる。

「あっ。珍しい」

「何が?」

「一華サンがそうやって笑っている事がですよ」

 何を言っているのと相手を睨み付ければ、「ほら、そう言うとこですよ」と指される眉間の皺。

「一華サン、最近忙しそうだったから、ずーっと眉間に皺が寄ったまま。難しい顔して悩んでいたじゃないですか」

 自分では自覚がないことだけに、そんな風に言われて一華は驚く。

「まぁ、僕なんかが答えられるような単純な悩みじゃないとは思いますが、ここ最近の一華サン、ちょっと恐かったから」

「恐かった?」

「ええ。何か、近寄りがたいオーラってやつ? それがずーっと出てる感じで」

 思った以上にこの男は自分の事を良く見ているのかと驚くと同時に、そんな風に相手に感じさせてしまっていた自分の態度が恥ずかしいと一華は思う。

「ねぇ。私、そんなに恐い顔してたのかしら?」

 そう城戸に問いかければ、彼は意地悪そうに表情を崩しながら一言「ええ」とだけ答えた。

「嫌だ。そんなつもりじゃ……」

「まぁ、この仕事、色々と悩む事多かったりしますもんね。倫理的にも道徳的にも……迷いがないかって言われると微妙だとは思いますし」

 そうこうしているうちに、どうやら目的地に到着したようだ。

「ちょっと待ってて下さい。今、服取ってきますんで」

 そう言い残すと城戸はさっさと部屋に入っていってしまう。

「そうだ……車……」

 慌てて部屋の扉を叩くと、「開いてるんで入って来て良いですよ」という言葉が室内から聞こえてきた。

「あのね、城戸君」

「何ですか?」

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