02
ランチタイムが近くなると店は徐々に忙しくなり始める。それもそのはずで、此処は飲食店なのだ。ピークよりも三十分程早くバイトのメンバーが入り、これから起こるであろう慌ただしさにスタンバイし備える。本来ならこの場所も、他の客に譲ってあげるのが礼儀というものなのだろうが、不思議なことにそれは免除されていた。特別扱いと言えばそうなのかも知れない。
「お早う御座います」
ドアベルの音と同時に店内に響くのは、バイトスタッフの明るい声だ。
「お早う、ジェーン」
その音に気付いた店長は奥の厨房から顔だけを出しそう答える。
「今日は一人か? リディアはどうした」
「あの子、ちょっと遅れるって。店長、マイクは?」
「連絡が来ていないな。どうせいつも通り遅刻だろう?」
普段から聞き慣れたやり取りに耳を傾けながら響かせるタイプ音。
「こんにちは、ランドルフさん」
「やあ、こんにちは、ジェーン」
顔を上げるとコーヒーポットをもった可愛らしい女性が立っている。明るめのオレンジの髪をアップにし、大きなぱっちりとした目が印象的な活発そうな女の子。笑顔がとても可愛くて、鼻の上にあるそばかすがチャームポイントだ。
「今日もお仕事?」
「そうだよ。仕事をしないとジェーンに会いに来れないだろう?」
聞かれた質問にそう答えてやれば、ジェーンは口元に手を当ててからからと笑う。
「そうやっていつも女の子を口説いてるの? やらしー!」
「ちょっ! 違うよ!! ジェーン!!」
「あっははは! 冗談よ! 必死になって否定しちゃって、ランドルフさんかーわいい!」
随分と年下にからかわれているが嫌な気はしない。
「ジェーンも人が悪い」
「だって、ランドルフさん大好きだもん、あたし」
空になりそうなコーヒーカップを催促する手。残った中身を片付けるとそっとそれを彼女に手渡す。
「今度は何を書いてるの?」
「何てことは無いさ。ただの推理小説だよ」
「推理小説?」
湯気を立てるカップが机に戻されると、ジェーンはポットを机の上に置いて向かいの席に腰を下ろした。
「そうだよ」
「どんなお話?」
目を輝かせてこちらを見る少女。彼女は自分で判る数少ない自分の著書の読者である。
「そうだね。それじゃあ、ほんの少しだけ内容を教えてあげようか」
キーの上に乗せていた手をそっと机の上に乗せると薄い液晶のモニタから顔を上げる。
「今回の話はね……」
ジェーンは笑顔を浮かべながら話に耳を傾ける。だが、彼女は勤務中だ。これから忙しくなるのだから余りのんびりはしていられない。案の定、ドアベルの音が鳴り響く。無意識に視線を向けるとビジネスバックを小脇に抱えたサラリーマンが一人、適当な席に座り息を吐いている姿が目に止まった。
「あー……お客さんだー……」
ジェーンの口から零れる小さな溜息。
「これから面白くなるところなのになぁ…」
「仕方ないよ。仕事中だろ? 俺とはいつでも話せるんだから、まずはやるべき事を先に片付けておいで」
そう言って指を指すと、少しだけ頬を膨らませた彼女が渋々頷く。
「判った。それじゃあ、後で絶対続き聞かせてよ!」
「判ってるよ」
それでも少しばかり不満そうに立ち上がった彼女は、コーヒーの入ったポット持ちカウンターの向こう側へと姿を消す。
「それじゃあ、今のウチに……」
途切れてしまった会話の変わりにと、再び再開させる作業。賑やかになっていく店内の音に耳を傾けながら、目の前にある電子機器にデータを打ち込んでいく。ディスプレイに表示された文字に連動するかのように、軽やかなタイプ音が小気味よく響いた。
タイピングの速度がリズムに乗ってきた頃である。
「………お?」
無意識に伸ばしたカップに口を付けると、いつの間にか中身が空になっていたことに気が付いた。
「空っぽだ」
一度モニタから目を離し辺りに視線を配らせるが、バイトのメンバーは忙しそうに店内を行ったり来たり。店長に至っては厨房から出てくる気配が全く無い。
「……困ったなぁ」
このリズムを崩したくない。そうは思いながらも喉を潤すものは欲しいと身体は訴えている。スタッフの誰かが気付いてくれることを祈りつつ店内の状況を伺うが、元々存在感の薄いボックス席だ。忙しさに追われたスタッフの注意を引くことは叶わなかった。
「はぁ……仕方無いか」
開いていたノートパソコン。それを静かに畳むと、かけていた眼鏡を外し席を立つ。目指す先は、誰も座る客の居ないカウンター。無人の椅子の上にあるテーブルには、飲食スペースの代わりに『おかわり自由』と打たれているプレート。その奥に中身が沢山残ったポットや空のグラスが置かれている。空になったカップを満たすためのものはこのポットの中に入っている。
「いらっしゃいませー」
店内に響くジェーンの声と、透き通ったベルの音。新しい客が来たことは分かったが、誰が訪れたかなんて余り興味は無い。
「あっ」
「え?」
だが、次の瞬間、身体に小さな衝撃が走り思わず蹌踉めいてしまった。
「うわっ!?」
遅れて何かが落ちる音が足下に響く。バランスを失ったことで空のカップが宙を舞いそうになる。手から離れていきそうになったカップを慌てて死守するとほっと胸を撫し、瞼を伏せ吐いた息。
「…………」
一体何事かと衝撃が走った左方向へと視線を向ければ、縦横無尽に跳ねる黒い癖の有る髪の毛が目に飛び込んできた。
「え?」
これが人の頭部だという事に気が付き下げる視線。
「あ」
足下には、ばらけてしまった沢山の紙。その他に何冊もの専門書とレポート用紙にノートパット。筆箱の中にあったはずのペンは、収納されていたペンケースから何本か外に旅に出てしまっているようだった。
「あー……悪いな」
漸く状況を理解する。前方不注意でぶつかってしまった相手は、どうやら学生らしい青年で。持っていたカップをカウンターに置くと、散らばってしまった荷物を集めるのを手伝うために腰を折り屈む。
「周りをよく見ていなかった。怪我はないかい?」
そう問いかけると、相手は無言で小さく頷いてみせる。
「そうか。なら良かった」
思った以上に荷物は多かった様だ。散らばってしまった本や紙の束を丁寧に拾い集めながら腕にまとめて乗せていくと、予想していた以上の重みが腕にのし掛かる。結構な質量のあるそれのタイトルを見てみると、主に電子工学や機械工学など、科学分野の専門誌ばかりだった。
「……あれ?」
しかし、そんな専門書の中でたった一冊だけ。他の本とは手触りが全く異なる本が紛れていることに気づき思わず出た声。指先に触れたそれは安っぽい紙などではなく綺麗に製本されたハードカバーで、とても見覚えのあるそれに思わず動きが止まってしまった。
「……これは」
「返せ!」
掴み上げた本を素早く奪い取られる。驚いて視線を向けると、罰の悪そうな表情を浮かべ唇を噛んでいる青年の姿が目に入る。
「今見たことは忘れてください!!」
何故頑なにその本の存在を隠そうとするのか。不思議に思いはしたが、耳まで真っ赤に染まった彼の態度を見て、恥ずかしがっているのだという事に気が付き納得する。
「それは……児童書だろう?」
そんなに長い間見た訳では無い。だが、その本のタイトルはハッキリと覚えている。
「っっ……」
それを指摘されたことで、青年は俯き顔を逸らす。益々居心地が悪いと。彼の放つ気配がそう物語っていた。
「別に、児童書を持っているからと言って何か言うつもりは無いよ」
確かに彼の持っていた本の数々を見ると、それは一際目立つ異物に映ってしまうだろう。だが、好きな物というのは誰にでもある。それを否定することは誰にも出来はしない。
「……可笑しいと笑いますか?」
「え?」
顔色を覗うように向けられる視線。まだ警戒は解かれないようでハッキリと物を伝えてくる気配は無いが、今確かに彼は「可笑しいと思うのか」と呟いた。
「いいや。可笑しくなんかないさ」
自然と和らぐ表情。
「本当に?」
「本当だとも」
本当にその本が好きなんだな。そう思うと、少し嬉しくなってしまった。
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