陸亀と【黒騎士】
「簡単なことだ。ひっくり返してしまえばいい」
何とも簡単そうに言い切った【黒騎士】を、ザッシュは思わずぽかんとした顔で見つめた。
「え? いや? あれ? え、えっと……今、【黒騎士】の旦那はひっくり返すって言ったのか? 陸亀を?」
混乱しているのか、何やらぶつぶつと呟きつつ【黒騎士】と陸亀を何度も見比べる。
「うむ、確かにそう言ったぞ。陸亀は体に比して四肢や首が短いので、一度ひっくり返してしまえば二度と自力では起き上がれん。つまりひっくり返してしまえば、後は死ぬまで放置すればいい」
「い、いや、そ、そうかもしれないけどよ……」
「何だ、おまえは知らんのか? 亀の中には、ひっくり返っても首を器用に使って自力で起き上がるやつもいるのだぞ。だが、陸亀はそれができない。ならば、ひっくり返してしまえばこちらの勝ちだ」
「いや、だから……問題はそこじゃなくてだな……」
一体、目の前のこの男──ザッシュは【黒騎士】が女性だとは思ってもいない──は、どうやってあの巨体をひっくり返すつもりなのか。
「まあ、見ているがいい。すぐにけりをつけてやろう」
そう言い残し、【黒騎士】は愛用のハルバードを手にゆっくりと陸亀に近づいていった。
小さなモノが近づいてくる。
そのことに、それ──人間たちが陸亀と呼ぶ存在はすぐに気づいた。
だが、陸亀は特にその小さなモノに注意を払うことはなかった。なぜなら、それは陸亀にとってはあまりにも小さく無害としか思えなかったからだ。
陸亀は旺盛な食欲を持つが、それはあまりにも小さすぎて食欲の対象にすらならない。だから、陸亀はそれを無視することにした。
目の前に存在する巨木を一齧りで噛み折り、そのままぼりぼりと咀嚼していく。こちらの方が近づいてくる小さなモノより、余程食べごたえがあるというものだ。
「ふむ、相変わらず陸亀というやつは、こちらを無視するのだな」
小さなモノが何やら囀ったようだが、陸亀は気にもしない。する価値もない。
「では、無視できなくさせてやろう」
小さなモノ──【黒騎士】が、腰を落として手にしたハルバードを大きく後ろへと引くように構えた。
そして腰の捻転を最大に活かし、ハルバードが地面と水平に振られる。
陽光を受けたハルバードの巨大な斧刃が流星のような光の尾を引き、陸亀の前脚と激突する。
金属同士を打ち合わせたような硬質な音が、森林地帯の中に響いた。同時に、その硬質な音を掻き消すように、おおおおおおおんという轟音も。
それは、陸亀の咆哮だ。
ハルバードの刃が深々と陸亀の前脚に食い込んでいた。陸亀の四肢は竜ほどではないものの硬い鱗に覆われており、その硬度は鋼以上でそんじょそこらの剣や矢では鱗を貫くことはできない。
だが、【黒騎士】が振るったハルバードはその鱗を砕き、その奥に秘されていた陸亀の肉にまで刃を届かせたのだ。
だが。
その傷は、人間で言えば蚊に刺された程度だ。次第に痒みを覚えて不快に思うものの、決して痛みを感じさせるものではない。
陸亀は痛みに対して鈍感なのか、竜でさえ激痛を感じた【黒騎士】の攻撃を受けても、その程度でしかなかった。
現に先程陸亀が上げた咆哮は、痛みによるものではなく自分の周囲をうろちょろする小さなモノを不快に思ったからである。
陸亀の巨大な眼が、ぎょろりと自分を不快にさせる小さなモノへと向けられた。
「どうだ? これでもう私を無視できまい?」
ハルバードの石突きで激しく地面を打ち、【黒騎士】が誇るように胸を張る。
「さて、ここからが本番だ。覚悟はいいか、陸亀よ?」
再びハルバードを構えながら、【黒騎士】はそう宣言した。
空を斬り裂く音が、何度も何度も森の中を駆け抜けた。
そしてその音の合間に、何かを斬り裂く音が交じる。
音の正体は、【黒騎士】が振るうハルバード。そして、そのハルバードが陸亀の前脚を傷つける音だ。
今も振るわれたハルバードが陸亀の鱗を叩き割り、周囲に陸亀の体液を撒き散らす。
陸亀の前脚から滴る体液は、周囲の地面をぬかるませるほど。だが、それでも陸亀にしてみれば、それほどの深手ではない。
自分の周囲を跳び回り、ちくちくと針を刺してくる羽虫を追い払わんと、陸亀がその巨体を持ち上げる。後脚を支えとし、僅かながらもその巨体を持ち上げたのだ。
そして、巨岩のような前脚を鬱陶しい羽虫──【黒騎士】に向かって振り下ろす。
まるで、空が崩れて落ちてきたかのような怒涛の崩落。
その崩落を、【黒騎士】は全身鎧を纏っているとは思えぬ身軽さで易々と躱した。
そして、陸亀の前脚が生じさせた衝撃に微塵も揺るぐことなく、更にハルバードを振るう。
漆黒の刃が再び陸亀の肉を抉る。そこから噴き出したどす黒い陸亀の血液が、【黒騎士】の漆黒の鎧を汚す。
陸亀の血液を全身に浴びつつハルバードを振り回す【黒騎士】の姿は、禍々しくおぞましい悪鬼のようで、少し離れた所から【黒騎士】と陸亀の戦いを見ていたザッシュは、その体を知らずぶるぶると震わせていた。
「あ、あいつは本当に人間なのかよ……?」
まるで、漆黒の悪魔が踊り狂っているかのように、ザッシュには見えてしまう。
悪魔が振るう凶刃が、陸亀の前脚をどんどん深く傷つけていき、いつの間にかその太く逞しい前脚からは白い骨が覗いているほどだ。
当然、ここまでくると陸亀も無視できないほどの痛みを感じている。痛みによる苦悶の咆哮を上げつつ、生命の危機を感じた陸亀は本能的に逃亡を選択した。
だが、陸亀の歩みはとても遅い。しかも、脚の一本に深手を負っているとなると尚更だ。
「ふははははは! 随分と弱ってきたようだな。この時を待っていたぞ!」
いくら陸亀が強靭な生命力を有しているとはいえ、生き物には変わりない。その体から大量の血液が流れ出れば、生命の灯はどんどん小さくなっていく。
血液を急激に失い、明らかに弱った陸亀を見て、【黒騎士】は突然手にしていたハルバードを放り捨てた。
「く、【黒騎士】の旦那……? え、得物を放り出して一体何を……?」
「見ていれば分かる」
巨体を引きずるようにして逃亡する陸亀に、【黒騎士】は無警戒に近づく。
そして。
そして、その甲羅のとある一点に片手を置いたかと思えば、そのままするりと陸亀の巨体の下へと潜り込んだ。
「だ、旦那……?」
【黒騎士】の行動の意味が理解できず、ザッシュが間抜けな声を零す。
そして、そのザッシュの目と口がどんどん大きく開かれていった。
なぜならば、巨大な陸亀の体が徐々に浮き上がっていったのだ。
「ま、まさか…………あ、あの旦那が持ち上げて……?」
ザッシュが信じられないのも無理はない。陸亀の体はまさに巨大であり、その大きさはちょっとした家ほどもある。当然、重量だってそれ相応なのだ。
なのに、その陸亀の体が徐々に浮き上がっていく。
どれだけ怪力無双の人間だって、たった一人で陸亀を持ち上げられるはずがない。それが常識であり、正しい認識だろう。
だが、今、ザッシュの目の前で、その常識と認識が覆ろうとしていた。
「うおおおおおおおおおおおおおおりゃああああああああああああああああああっ!!」
陸亀の下より、鋭い気合の声が響く。
その声と同時に、陸亀の巨体が一気に傾き、そのままくるりとひっくり返った。
「あ、あの旦那…………本当に陸亀をひっくり返しやがった……」
呆然としたザッシュのその呟きは、陸亀がひっくり返る轟音にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。
「……………………本当にこれ、【黒騎士】が一人でやったのかよ?」
「間違いないらしいぜ? ザッシュがその瞬間を目撃したそうだ」
目の前に広がる光景を実際に目にしても、到底信じられるものではない──と、その場に集まっている組合の勇者たちは誰もがそう思った。
彼ら組合の勇者たちが集まっているのは、巨大な遺骸の前。そう、【黒騎士】が倒した陸亀の遺骸の前であった。
ひっくり返った陸亀の巨体。その巨体の腹の部分が無残に破壊されている。
もちろん、【黒騎士】の仕業である。
ひっくり返ったら自力では起き上がれない陸亀は、そのまま放っておけば死を迎えるだけ。
だが、それには数日以上の時間がかかるだろう。陸亀の生命力は強靭であり、飲まず食わずでも十日やそこらでは死ぬことはない。
自らを縛る呪いを祓うため先を急ぐ【黒騎士】は、陸亀の生命力が尽きるのを待つつもりなどさらさらなく、その露わになった腹を愛用のハルバードで叩き割ることで止めとしたのだ。
もちろん、陸亀の腹は決して柔らかくはない。確かに甲羅に比べればいくらかは柔らかいが、それでも相当な硬さを誇る。
だが【黒騎士】は陸亀の腹を何事でもないかのように叩き割り、その内側に秘された肉や内臓を蹂躙してあっさりと止めを刺したのだ。
そんな陸亀の遺骸を前にして、集まった組合の勇者たちは誰もが開いた口が塞がらない。
彼らはこれからこの陸亀の遺骸を解体し、肉や骨、鱗や甲羅といった素材を回収するために組合に雇われた者たちである。
なんせ、陸亀は巨体だ。それを解体しようと思えば、一人や二人では何日かかるか分かったものではない。そこで、組合は所属している勇者たちで手の空いている者に報酬を出し、陸亀の解体を行うことにしたのだ。
このまま陸亀の遺骸を放置しておくと、血の臭いや肉の臭いが他の強力な魔獣を引き寄せてしまうかもしれない。それに、陸亀の各種素材はかなり貴重であり、組合が放っておくわけがない。
陸亀の素材の所有権は、当然ながら倒した【黒騎士】にある。だが、彼女は陸亀の素材に一切興味がなく、同時に巨大な陸亀を解体するのを面倒だと思ったため、その権利を全て組合に正当な価格で売り払っていた。
もっとも、珍味と評判の陸亀の肉だけは、一部をしっかりと自分の物として確保していたが。
「さて、ぼさっとしていても仕事は終わらねえな」
「全くだ。そろそろ解体も始まるみたいだし、俺たちも仕事するか」
「そのために雇われたんだしな」
「組合の勇者」たちは、互いに肩を竦ませると、巨大な骸へと向かって歩き出した。
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