覆水盆に返らず

鹿島 茜

第1話

 今日はとてもいい天気だ。水面から差し込む陽光がまぶしい。僕は駅までの道を歩きながら、上を見て目を細めた。ここは、海の底だ。

 人類が水中呼吸法を開発し、海や川の中で暮らすようになってから四百年以上が過ぎた。夏になると暑すぎる陸地で生活する人間は激減し、海沿いや川沿いに近い人ほど水中生活を選択するようになった。大きな大陸の中程、水の少ない場所に住む人との断絶は大きくなったが、不思議と戦争になることはなかった。あまりにも生活形式が異なりすぎて、「水の人」と「陸の人」は互いに興味を持つことが少なくなった。

 僕は、水の人だ。陸地でいう伊豆半島の沖合いにある深水ふかみという街に住んでいる。僕の五代前の先祖は水中呼吸法の開発に携わった研究者で、ノーベル賞を受賞したと聞いている。ノーベル賞は主に陸の人が喜ぶものなので、僕は歴史の教科書とニュースでしかその存在は知らない。水の人にとっての名誉ある賞はマイヨール賞という。マイヨールとは実在した素潜り名人の名前だ。まだ水中呼吸法が開発されていない頃に、勇敢にも深い素潜りに挑戦した偉人を記念して、水関連で大きな研究成果を出した人がもらえる賞。僕自身マイヨール賞がほしいわけでもないのだが、我が家は代々水中呼吸法の研究をしている家系なので、僕も深水大学大学院で研究員をしている。水中呼吸法の研究には陸地での呼吸法との比較が重要なので、よく陸地へ出かけて陸地の学会に出席する。

 水陸両用列車に揺られて東京の本郷へ向かい、東大前で降りると、改築されたばかりの真っ赤な門に出会う。いつ見ても趣味が悪いと思うが、長い歴史のある大学なので変化することは難しいのだろう。陸の人は赤いものが好きなようだ。神社仏閣にも赤い色が多く見える。水の人は青を好む傾向にある。やはり青空を映した海の色が好きだからだろう。僕はいつもの真っ赤な門を通って、キャンパス内に入った。古くさくて壊れそうな建物もあれば、いかにも数年前に建てましたといった大ビルもある。そのうちのひとつに入り、指定された大教室へ向かう。



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