第8話「コミックアンソロジー」
特に夢を見ることもなく、目覚めたのは正午頃。
失恋して落ち込んでいても、お腹は空くので、昼食のために外出することにした僕は、適当な服に手早く着替えて、慎重に玄関のドアを開けた。
さすがにこのタイミングでアズミと蜂合わせたくはない。
昨日、アズミの声で『あんなこと』しちゃったもんだから、蜂合わせたら、どんな顔したらいいのかわからない。
いや、今までアズミで1回もそういうことしたことないかって言われたら、そんなわけないんだけど。
でも空想でするのと、本物の声を聞いてするのとではわけが違う……
って、んなことどうでもいいや、さっさと出かけよう。
運よく……というか、当たり前というか、今日はアズミと蜂合わせることなく、外に出ることができた。
改めて、自分の家を眺めてみるが、日本全国どこにでもありそうな、2LDKの平凡な2階建てアパートである。
僕が赤ちゃんの頃からずっとこのアパートに住み続けている。
ママンは元ヤンキーだから両親と折り合いが悪いのか、両親と不仲だからヤンキーになったのか、とにかく、実家はわりとすぐ近くにあるのに別居していて、僕が祖父母に会うのは、盆と正月の年2回だけである。
そのおかげで、アズミと隣の部屋に住めているわけだが、そのせいで精神にダメージを負う日が来ようとは、夢にも思っていなかったな。
こんなどこにでもあるアパートで、アズミと『るみさん』は何かハレンチなことを……もちろん今でも耳に残っている、アズミの「あああああっ!!」
「いやいやいや!」
僕は卑猥な妄想を振り払うように首を振り、自転車に乗った。
今日はハンバーガーでも食べたい気分だから、ハンバーガー屋へ向けて、自転車を漕ぎ始めた。
僕の住むY県
他の人がどう思っているかは知らないが、僕は気に入っている、人が多くなくて、静かで快適なわりには、チェーン店がいっぱいあって便利だから。
コンビニなんか、こんなにたくさんあってどうするんだって思うぐらいあるし、多すぎて、年に何軒かは必ず潰れる、でも毎年必ず、新しく何軒かオープンする、ゾンビかよ、コンビニじゃなくて、ゾンビニだよ……って、つまらねえな。
ちなみに、僕が自分の住む県を『Y県』と表記してしまうのは、中学生の頃、ついうっかり
鴎外いわく『Y県の世』だったのも今は昔、現代では特に世間の
閑話休題、ハンバーガー屋に着く前に、僕はつい、本屋に入ってしまった。
空腹を満たすよりも優先してしまうほど、僕は本が好きだ。
周りの人たちは若者らしく、ネット動画とかゲームが好きだけど、僕はなぜか本、それも電子書籍じゃなくて、昔ながらの紙の本が好きだった。
だから本屋には暇さえあれば通っていた。
本屋に入ると、まずは文庫本のコーナーに行く。
もちろん、棚に並んでいる文庫本、すべてを買えるわけもないけれど、本のタイトルを眺めたり、手に取ってパラパラとめくったりするだけで、僕には充分楽しかった。
そうやって、しばらく文庫本の棚を眺め、次に買う本を品定めしたあと、いい加減、ハンバーガー屋に行こうと思い、通路を歩いていた僕の目にこんな文字が飛び込んできた。
『レズビアン風俗コミックアンソロジー』
それは表紙が見えるように本棚に置かれていた本のタイトルだった。
正直『レズビアン風俗』も『コミックアンソロジー』も意味はさっぱりわからない。
わからないけれど、多分いやらしい本なんだろうなということは表紙から察しがついたし、何より昨日の今日で『レズビアン』を冠した本と目が合ってしまったのである。
正直、運命を感じた。
なんとなく、これを買って読めば、昨日、アズミが『るみさん』と、具体的に何をしていたのかがわかるような気がした。
僕は『レズビアン風俗コミックアンソロジー』を手に取ってみた。
袋に入っていたから立ち読みすることはできなかったが、表紙から、魔力を感じた。
表紙に描かれている、薄着の女性が「迷える若者よ、悩みから解放されたくば、この本を買え。ゴー・ウェスト! ヤング・マン!!(若者よ! 西部へ行け!!)」と言っているような気がした。「私を買うことこそが、お前の『マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)』だ!」と。
僕は不思議な魅力を感じた『レズビアン風俗コミックアンソロジー』の裏表紙に書かれている価格を見てみた。
900円+税、つまり990円だった。
買える。
でもこれを買ってしまったら、今日は昼食抜きである。
それはさすがに困る……
「ありがとうございましたー!」
「ハウアッ!!」
気がついたら、僕は『レズビアン風俗コミックアンソロジー』を手に持った状態で、本屋の外に出ていた。
もちろん万引きなどしていない、財布の中にはちゃんとお釣りの10円とレシートが入っている。
食欲よりも、知的好奇心の方が
断じてスケベ心などで買ったのではない!
知的好奇心で買ったのだ!!
「ハァ……今日は昼食抜きか……」
「あれ? 赤井くんじゃないか」
自業自得の行為に落胆する僕に、話しかけてくる声があった。
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