四つ指の彼岸花
結包 翠
第1話 引き延ばされた命(一)
淫猥、暗殺、拷問、人攫い。治安の悪さを誘発する負の情念はぼうふらの如く蠢いて、いつの世も、表社会の隙間に潜んでいる。
悪意と復讐心の巣窟というのはどこにでもある。重ったい紫煙に満ちた裏路地に花街、廃寺、
そこには貴賤を問わず、怨情や欲望に目をぎらつかせた民が集う。つまり金になる場所だ。柘榴は幾度となく彼らの求めに応じては、金と引き換えに悪事に手を染めてきた。
「人の心を食い潰されて般若の如き辛苦を抱いているのなら、決して泣き寝入りするな。目には目を。俺に任せな。赤は縁起がいいだろう? 仇の血を噴き出させて、あんたらを笑顔にしてやるよ」
それが柘榴の言い分であった。
柘榴は一人旅をしていた。各地を巡りながら気ままに財布の紐を緩めているから、路銀はいつもすぐに尽きた。手持ちが少なくなると、柘榴は負の情念が集まる所を探し当て、そこに足を踏み入れた。そうしていくつか依頼をこなせば、懐が潤うのはあっという間だった。
数ある物騒な依頼の中で、柘榴が好んで請け負ったのは人殺しだった。客達も柘榴が近隣にやって来たと知るや否や、こぞって誰それを殺してくれと沸き立った。
尾のように背に流れる外ハネの髪に、隈の強い狐目。各地の要人を相手取り、荒事に長けた用心棒ごと哄笑の元に葬った元山賊、柘榴。その存在を知らぬ者など、裏の界隈にはいなかった。
多少高くついても、下手を打って返り討ちにされる可能性がある殺し屋より柘榴に頼みたい。そう願う人間は少なくなかった。闇の中は柘榴にとって心地良く、安らかな呼吸を許された唯一の世界であった。
ある日の夜。柘榴は布団の中で目を覚ました。ふあっと大きく欠伸をして目をこする。肺に滑る冷気は清く、さざなみのない湖面のように淑やかだった。鼻につく異臭がない空気を屋内で吸うのは、いつぶりだったか。
「……どこだ、ここ」
小声の寝言に近い柘榴の問いに応える声はなかった。元々返事を期待していなかった柘榴は、自力で居場所を特定しようと試みる。しかし寝ぼけた頭で得られるのは、やけに上等な布団の寝心地の良さくらいなものだった。
濃い眠気のせいで視界はぼんやりと霞んでいて、まるで役に立たない。
――酒が見知らぬ土地に俺を連れていったか?
柘榴は再びあくびを一つ放った。どうにも眠気が重い。酒を飲みすぎた時はいつもこれだ。目が覚めても、しばらくは頭がなかなか回らない。
――つっても、このまますぐ二度寝するのもな。
視界が溶けていても分かる程、夜闇はいまだ深い。朝の予兆すらない中途半端な時間に目覚めてしまった。
せっかく雨風が凌げる屋内にいるのだし、ここは大人しく寝ておけばいい。普段ならためらいなく寝るところだが、何故か妙に胸騒ぎがした。
「……」
柘榴は布団から腕を出し、袖をまくった。鳥肌が立っている。そこはかとなく感じる整然とした空気が、鳥肌の鍵になっているらしい。
整いすぎているのは訳あって苦手だ。だというのに、こんな場所で眠っていたのは何故なのか。経緯が丸々抜けている。
はっきり覚えているのは山際の夜道だ。夕暮れ時から酒場に入り浸り、名前も知らずに酒を酌み交わした飲んだくれ達と別れて外に出た。その時には日は落ちて、月が
でたらめな歌を空に聞かせながら、踊るような足取りで砂利道を歩いた。わざと人通りのない山際を選んでいた。
いかにも酔っ払いの悪ふざけといった風情で、手拭いを女人のように吹き流しにして、髪と顔を隠しながら右へ左へフラフラと歩いた。追い剥ぎ達が警戒せず、容易く仕留められる獲物だと勘違いするように。
闇の深い藪には大抵、下種がいる。御しきれない色欲と支配欲に狂って娘らを襲うような下種だ。それらは酔っぱらいが通れば金を奪い、ついでとばかりに殺して藪に捨てる。
来るなら早く来ればいいと思っていた。徒党を組んで娘を襲うような輩は一等嫌いだから、刀の錆に出来ればよし。もし運悪く殺されてしまったら、その時はその時だ。
この身に宿る命は、人としての性に逆らう事しかしやしない。年端も行かない子供の頃から他人の血にまみれてきた自分は、きっと骨の髄まで真っ赤っか。
「こんなものが欲しいなら、とっとと奪ってしまえばいい!」
闇に向かって吠え、腹から笑った。覚えているのはそこまでだ。意識が途切れる間際、頭でも打ったのか視界全体が赤くなった気はするが、何にせよこの部屋に辿り着いた記憶はない。
記憶を辿っている間に視界がやや鮮明になり始めた。辺りに視線を走らせる。壁も柱も煤汚れのないきちんとしたもので、棚の上は小綺麗に整っている。
布団から
金をつぎ込むのは博打や酒、花街の娼館くらいなもので、寝泊まりはいつも安宿で済ませている。背伸びして高級旅館の一室を借りた事もあったが、どうにも性に合わず、その日はろくに寝れなかった。
贅沢な宿というのは、建築物から掃除の一つに至るまで黄金の風を薫らせる質を提供し、客人に心尽くしのもてなしをする。それが肌に馴染まなかったのだ。
「あの」柘榴、と持て囃されるようになるまで、どれほどひもじい思いをした事か。丁寧な奉仕に慣れているはずがなく、気が浮ついてしまう。それに、あまりに充実した環境下にいると、己が培ってきた常識より上位の空気に巻かれるようで、疎外感を覚えるのだ。
そして何より念頭にあるのは、幸福な人間と揃う程に己を甘やかす事を許さない、罪の意識だった。
かつて自分は、殺してはいけない人を殺してしまった。唯一にして最大の罪悪感は、今も日々、心臓に重い痛みを走らせている。
「……」
自分に対する嫌悪感が、ふつふつと湧き上がるのを感じた。鋭く舌を打って、柘榴は考える事をやめた。
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