第2話

「卒業おめでとうございます」

「それはおめでとうと思ってる顔じゃないよ」

「そりゃこんなに仕事残されたらね」

 僕は明日から自分が座る予定のデスクに積み上げられた大量の書類を見ながらため息をついた。

 小さな控室の窓ガラスに打ち付ける雨音が僕の憂鬱をさらに加速させる。

「これは次代のフロアリーダーが越えるべき最初の壁だよ」

「先代の壁よりも明らかに高くなってますよね」

「いやあ先月には終わってる予定だったんだけどねえ」

 力なく笑う秋山さんは黒のシャツとスラックスの上に群青色のエプロンをつけている。

 僕が一年生の頃からバイトしているレストランのフロア担当の制服だ。もちろん僕も同じ格好をしているが、秋山さんほど着こなせている気がしない。

 一年上の先輩の秋山さんはフロアリーダーであり、このレストランの看板だった。

「全部処理して卒業してくださいねって言ったのに」

「ごめんごめん。つい寂しくなっちゃってさ」

「寂しくってなんですか」

「だってこうすれば神野くん、この書類が全部無くなるまで私のこと憶えててくれるでしょ?」

 彼女のセリフに僕の心臓は悔しいくらいに飛び跳ねてしまう。どうして秋山さんはこんなことをさらりと言ってしまえるのだろうか。

 僕は結局この三年間、一度も伝えることができなかったのに。

「……忘れませんよ、こんなダメダメな先輩」

「不名誉すぎるから忘れてもらった方がいいかもねこれは」

 秋山さんはからからと楽しそうに笑う。

 その声で雨音が薄れたせいか、僕の憂鬱も少し晴れた。

「あーあ、また人生のステージが変わっちゃうなあ」

「ステージ?」

 僕が訊き返すと、秋山さんは小さく頷く。

「そう。私は明日大学生を卒業して、これからは社会人。今までも小学生になって、中学生になって、高校生になって、大学生になってきた。人は生きていくうちにそうやって人生のステージが変わってくんだろうなあって思うの」

「コース料理みたいですね」

「言い得て妙だね」

 秋山さんは、パチン、と鳴らした指を僕に向ける。強く同意を示すときに彼女がよくやる癖だ。

「そのステージが変わるたびに思うの。あーあ今まで一生懸命このステージ頑張ってきたのに、また一からやり直しかーって」

「続いていくものもあるでしょう」

「でも新しく作らなきゃいけないものが多すぎるよ。人間関係も、生活習慣も、時間やお金の使い方も。もしかしたら自分だって」

 時間が経てば生きる環境が変わる。それに適応して変化していくことが生きていくことなのだと僕も思う。

 それでも、せめて僕の前では変わらないでほしいなと思った。

「……秋山さん、働き始めても一緒にご飯行きましょうね」

 ここで出会った僕が一緒にいれば、どれだけ変わっても戻って来られるんじゃないかと思うんだ。

「社会人というステージの厳しさを先に見に行って報告してください。後輩の僕が備えられるようにね、先輩」

「こういう時ばっかり先輩扱いするんだもんなあ」

 秋山さんはきっちりと纏められた頭を指先で掻きながら苦笑する。

「いいよ。優しい先輩が先に行って見てきてあげよう」

 そう言ってまた彼女は笑顔の種類を変えた。

 腕を組んで胸を張り『頼れる先輩』を全身で表現する。僕はそんな彼女を見て少し笑った。

「雨、やまないねえ」

 僕は書類の山の向こうにある窓を見遣る。雨は一向に止む気配はない。

「傘持ってきましたか?」

「もちろん忘れちゃったよ」

「なんで偉そうなんですか」

 絶え間ない雨音を聞いていると、なんだかこの部屋に閉じ込められてしまったような気持ちになる。

 秋山さんとならそれでもいいかもしれないとも思ったが、その結末がハッピーエンドになるかと訊かれると自信を持って頷くことはできない。

 だから僕は、この部屋から彼女を送り出すことに決めた。

「……傘、貸してあげますよ」

「え、いいの? さすが神野くん!」

 僕が折り畳み傘を差し出すと秋山さんはまた笑顔を咲かせる。

 黒い傘が僕の手から彼女の手に移ったことを確認して、僕は口を開いた。

「そういえば言い忘れてたことがあります」

「言い忘れてたこと?」

 まだだ。まだ終わりじゃない。

 僕のこの気持ちは次のステージへ持ち越しだ。

「卒業おめでとうございます」

「……うん、ありがとう」

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