ハッピーバースデイにさよならを
三上優記
俺が死ぬ日、君の生まれた日
随分長く寝ていた気がする。時計は午後の7時を回っていた。会社の皆はおそらくまだ仕事中だろう。物作りは往々にして時間がかかる。皆の作品たちはどうなってるかと思ったところで、病室のドアが数回ノックされた。
「失礼します、岩田さん。面会人の青野さんが来ていらっしゃいます」
「あぁ、すみません。通して下さい」
「……本来この時間の面会は禁止なのですが、特別ですからね」
「わ、分かってます。本当にすみません。あの、明日来る予定の、沼宮君の面会許可は下りましたか?」
「ええ。彼の方は既に許可が下りているので大丈夫ですよ――では青野さんを呼んできますね」
看護師さんが去って数分後、病室のドアから、アキが姿を現した。くしゃくしゃの白髪がどこか懐かしい。その手にはビニール袋をいくつか提げている。
「アキ、久しぶり。元気そうで何よりだ」
「君も、ね。ガンっていう割には元気そうじゃん。ひとまず安心したよ。あ、この前頼まれたもの、持ってきたよ」
テーブルの上にアキが白い箱を置いた。中に入っていたのは、美味しそうなチョコレートケーキ。蝋燭もちゃんとある。完璧だ。
「助かる。ありがとう。わざわざ買いに行かせて悪いな。そこにある財布からお金持っていっていいから」
「何言ってるの、病人からお金取るわけないでしょ。しかしこんな状態だっていうのに、ぬーさんの誕生日を祝うなんてね。君らしいというか何というか」
「誕生日にわざわざここまで来てくれるっていうんだ、手土産の1つもないのはよくないだろ? 本当はまた前みたいにパーティーでも開きたいんだけどな。流石にここじゃ無理だから」
そりゃそうでしょと笑いながら、アキは別の袋を開けると、ヒマワリの鉢植えを取り出し、ケーキの箱の隣に置いた。
「お見舞いに何かお花を持っていこうと思った時に、かっちに合う花はなんだろうなーと思ったらヒマワリだったんだよね。ちなみにこれ、プリザーブドフラワー? っていう枯れない花だから、手入れしなくても大丈夫だよ。直射日光とお水にだけは気をつけてね」
「へぇ、枯れないヒマワリか。いいな。ありがとう。気持ちも明るくなりそうだ」
そうでしょ、とアキが屈託なく笑った。白い病室の中で、明るい黄色が咲く。
「……皆はどうだ? 上手くやれているか?」
「もちろん。制作も順調さ。……皆君のこと心配してるよ。早く元気になるといいね」
「そうか。……ごめん」
「なんで君が謝るの」
「会社が傾いている時に社長が倒れているんじゃ話にならない。皆苦しい時なのに、俺だけ休んでいるんだから」
昨日入った話ではこの4半期での収益を合わせても、まだ黒字まで届いていないようだった。他社に水をあけられている苦しい状況が依然続いている。
「嘘言わないでよ。新作の指示を出しているの、知らないとでも思ったの? 病人は休むのが仕事だよ。お願いだから無理はしないで」
テーブルの上のスマホに視線が刺さった。アキの震え声が俺の胸を抉る。
「この状況を作り出した原因は俺だ。俺の責任だ。……だから俺が何とかする。そう決めているんだ。現に新作に関するアイデアはいくつかある。せめて来年までには良い風に乗せてやらないとな。……こんな状況でサクに社長を継がせるわけにはいかない」
俺は唇を噛んだ。無理難題を引き受けてくれた愛弟子に、こんな形で報いたくはない。アキにそんな顔をしてほしくない。
「君の気持ちは分かるよ。でもね、どうか重荷を負いすぎないで、無理はしないで。君の責任は僕らの責任でもあるんだから。何かあったらすぐに言って。もう隠したりしないでね」
「あぁ。……ありがとう」
「そんなのいいって。だって、友達でしょ? 君の責任を一緒に背負うくらいなんてことないよ」
……ごめん、でもありがとう。アキにはいつも我儘ばかり言って、心配かけちまってるな。
「だから、ガンが治ったら……いや、本当は今からでも休んで欲しいけど……ちゃんと養生してね。君たちは、1度言ったらテコでも動かないんだから」
「あぁ。分かった」
「だって、君は――――まだ生きることを諦めてないでしょ?」
彼の瞳の向こうで、ネオンライトの夜景が輝く。
「当たり前だ」
俺は不敵に笑った。
「せっかく社長を譲るんだし、しばらく面倒事は弟子に押しつけておくぜ。ガンが治ったら再び現場に戻るよ。まだ33だ。やりたいことは死ぬほどある」
「へぇ。それは嬉しいね。また昔みたいにメガホンを取ってくれるの。君が現場なんて会社の黎明期以来じゃない。楽しみが増えちゃったなぁ」
……こんなとこで死ぬ訳にはいかない。仲間がいる。待っている人がいる。輝ける場所がまだある。まだまだ俺たちは道半ばだ。
「会社も俺も、死んでたまるか。まだ終わらせないぞ」
俺の隣で、ヒマワリが頷くように大きく揺れた。サイドテーブルの上のマックブックを見る。そこには今まで集めた、この難病とされる胆管ガンの治療に関する情報が入っている。まだ治験段階のものも多いけれど……きっと試す価値はある。
唐突に輝いていたネオンライトが遠く途絶える。病室の蛍光灯が力を失くし、薄暗い闇が俺を包んだ。
ステージ3、生存率約30%。エコー画像に映る陰影をバックに言われた言葉を思い出す。
……上等だ。分の悪い賭けには慣れている。起業してからずっと、勝ち目のない賭けに勝ってきた。今までとの違いなんて、賭けの対象が自分ってことだけだ。
映写機は回り続け、物語は流れ続ける。始まったそれを巻き戻すことは出来ない。フィルムは止まれない。ネガに焼き付いたものは誤魔化せない。スタジオでは今日も、会社の仲間たちが汗を流しながら、フィルムに魂を焼きつけている。
その光景を思い浮かべていると、映画を作る時1番最初に買った8ミリカメラと、高校時代の部室の光景が脳裏に過った。カメラを抱えて俺の絵を覗き込むたけぽん。その様子を本を片手に微笑ましく見守るぬーさん。
「この映画の最後はハッピーエンドがふさわしい。ストーリーの中の大きな問題は、解決されるためにあるんだ」
「その言葉、明日来る誰かさんにそっくりだね」
アキの言葉と共に、パチパチと病室の電気が元に戻った。夜景の光が帰ってくる。
「そうだな。今日も1人缶詰で、新作の脚本を書いている誰かさんに。……ぬーさん、絶対今頃くしゃみしてるぞ」
「明日も残念ながら仕事だろうね。君との面会時間以外はいつもの缶詰部屋に籠っていると思うよ。ぶっちゃけ、明日が自分の誕生日ってことも忘れてると思う」
「そうか。ならサプライズだな! 驚かせてやろう。その代わり、2ヶ月後の俺の誕生日の時はここにきて祝ってもらう」
「ふふふ、そうだね。その時は僕もこれたら来るよ。たけぽんも、サクも、しげちーも、皆を呼んで」
やった、と拳を握る。けれど振り上げた腕の角度が悪かったのか、点滴の針がより深くに刺さってチクリと痛みを覚えた。
「同い年なのにあいつらだけ歳を取っていくのは嫌だ。ぬーさんはまだしも、いつまでたっても子どもっぽいたけぽんに先輩面されるなんて、たまったもんじゃない。
――――俺だって一緒に歳をとる。今までも、これからもだ」
俺だけいなくなるもんか。
「君たちは幼馴染だもんね、いいねぇ。青春だね。……はぁ、1人年上だとこういう時寂しいね」
「何言ってるんだよ。年が違うくらいで仲間外れになんかしないよ。アキだって、サクだって、しげちーだって、皆で過ごした時間が青春なんだ。だいたい俺たちの中で1番年上なのはしげちーだろ」
「でもしげちーは厳密には違う会社の人じゃん? ここにいる人の中では僕が1番だもの。アラフォー1歩手前だから僕」
「そうか、俺も6年経てば40歳なのか。その時はどうなってるかな」
胆管ガンの5年後生存率、24.2%。ガンの再発率、約80%。手術が唯一の有効な治療方法。抗がん剤も放射線治療も、あの写真に映った影を消し去ってはくれない。
「多分僕みたいになってるよ。白髪が増えていくんだ」
「白髪かぁ。でも白髪って結構かっこいいと思う。だから俺は白髪が似合うおじさんになるぜ。実際アキだって結構似合ってると思う」
4か月後の再手術でも再発したら、40歳まで生きることはきっとできないだろう。白髪が生える前に、俺は死ぬ。
「そう? ありがとう。ならロマンスグレーのおじ様を目指そうかな?」
「いいじゃんいいじゃん! 40歳にしてモテ期到来するかもしれないぞ。結婚式開くんだったら呼んでくれよな」
「気が早いよ! まだ彼女もいなければ、思い当たる人もいないっていうのに」
全てが白に塗られた部屋の中で、俺だけ時間が止まっていく。アキはこの前39歳になった。たけぽんもおそらくなんの問題もなく、34になるだろう。そしてぬーさんも明日、1歳年をとる。幸せそうな笑みで、俺が頼んだケーキの蝋燭を吹き消してくれるはずだ。
その炎のように俺の命が消えていく中で、皆は何も変わったこともなく、生きていける。年を、とれる。この先ずっと、その数を1つ1つ増やしていける。
「いいじゃないか。……生きていれば、何だってできる。なんだって、起こりうるんだ」
俺はチョコレートケーキの箱を見下ろした。
「……生きているってことはな、凄いことなんだよ。年を取れるってことは本当に有難いことなんだ。こうなるとさ……そういうのがよく分かる」
子どもの頃は蝋燭が増えるのに心躍らせ、大人になれば誕生日という加齢イベントにウンザリし、やがて老人になると年を重ねること自体が一種の奇跡のようになっていく。そうやって増えていった蝋燭の数が、自分の歴史になって、思い出になって、自分の人生になる。俺の鼻をチョコレートケーキの甘い匂いが擽った。
明日と未来が折り重なって、自分の体と心の中に織り込まれていく。幾重にも織られたそれが、今と未来の自分になっていく。そうやって積み重なった甘くて切ない思い出たちが、最後死というほろ苦さでコーティングされて、俺の人生になる。
甘くて、苦くて、切ない。生きることってそういうことなんだ。
俺は目を閉じて、小さく笑った。……どうして大切なことが分かる時っていつも、それが零れ落ちそうな時なんだろうな。
「だから、いつになっても可能性を信じていいじゃないか。夢を見たっていいじゃないか。俺たちの仕事は皆に夢を見せることなんだから」
――例え、生き残れる見込みが殆どないとしても。窓の外から微かに雨の音が聞こえ始めた。夜の街を、降り注ぐ雨が濡らしていく。
「――――生きたい。生きていきたい。見たいものは沢山ある。作りたいものは山ほどある。人生いくらあっても足りないくらいに、世界は面白いもので満ちているんだ。俺はそれを見に行きたい。
知らない何かをこの世界に生み出していきたい。まだまだ新しいものを作り続けたいんだ。俺たちの作品を楽しみにしてくれる人が、沢山いる。俺たちの作品が、誰かの夢になる。……命の糧に、なるんだ」
作品の中に削り出した俺の命の結晶が、誰かの命になっていく。それは心の奥底に染み込んで、その人に力を与え続ける。その人たちの笑顔が、仲間たちの喜びが嬉しくて、俺は今も物を作り続けているんだ。
時間が長ければ長いほど、そういう人がもっと増えていく。……だから、こんな所で終わりたくない。
――――生きて、いたい。生きていたいんだ。どうか、どうかまだ、夢を見させてほしい。
「そうだね。なら僕は夢を見続けるよ。アラフォーになっても、ね。周りの人がもし、年甲斐もないって笑ったら、でもかっちがそう言ったんだって言うことにする」
「あぁ、それでいいぜ。俺だって、夢を見続ける気満々だから」
雲の切れ間から覗く、微かに、本当に微かに灯っている月の光を見上げた。祈るように、両手を握りしめた。胸に押し当てた手首に、微かに心臓の拍動が伝わってくる。微かに、けれど確実に伝わってくる、命のリズム。夜風に吹かれて、ヒマワリが揺れる。
「うん。――――僕はかっちを信じるよ」
その声に俺はアキの方へ振り向いたが、彼は微笑んで、それ以上何も言わなかった。夜景を反射した雨の光が、両目に映り込んでいる。2、3回ほど大きく瞬きをした彼は、腰に両手をあてると、少し意地悪な笑みを浮かべた。
「だって……ケーキ代、返してくれるんだよね?」
「あ、やっぱり払った方がいい?」
「いや、なんで本気にするの。冗談だよ、冗談」
「なんだよー。でも良かった。今財布ピンチだから、ちょっと貸しにしておいてくれ」
「分かった。じゃあ1つ貸し、ね。何かあったら君にお願いするから、そのつもりで」
「あぁ。なんでも、とは言えないけど、ある程度の無茶振りは許容するぜ」
「うん、分かった。――――だから早く治して、帰ってきてね」
その穏やかな声が、俺の心に沁みわたっていく。
「……あぁ。ケーキ代、返しに行くよ」
俺は力強く頷いた。諦めたりなんかしない。必ず、帰ってくる。痩せて骨ばった手を固く握りしめ、誓い直した。
「明日のサプライズ、上手くといいね」
「もちろん、上手くやってみせるさ。箱、どこかに隠しておかないとな。あぁ、看護師さんに頼んで、奥から出してもらおうかな? なぁアキ、ナースステーションにケーキ置いても大丈夫だと思うか?」
「どうだろう、聞いてみるんだね。ダメならちゃんと引き下がってよ? 変に食い下がったりしないでよね」
「流石にここまで来てそんな真似するか。頑固なのは認めるけど、お世話になってる人にそこまで強くは出ないよ。ダメなら諦めて布か何かで隠して、ここに置いておく。……ぬーさん、鋭いからなぁ。バレないといいけど」
その時、病室のドアがコンコンとノックされた。
「すみませんが、そろそろ……」
互いに顔を見合わせる。時計はもうすぐ8時を指そうとしていた。
「……もう、行かないとね」
「そうだな。でも話はまだまだあるから、ラインする」
「あはは、社長はお喋りが好きだね。分かった。明日のサプライズの結果も伝えてね」
「もちろんだ。ぬーさんの驚いた顔、写真に撮って送ってやるよ」
「うん。よろしく。……それじゃあ、またね」
アキが手を振ってここから去っていく。俺はそれを見送ると、ベッドの中に潜り込んだ。
降りしきる雨は止むことなく、街を潤し続けている。まるで散りばめられた宝石の欠片のように、世界は今日も輝いていた。
きっと、明日は上手くいく。漠然とそう信じられる温かさが部屋に満ちていた。静けさが戻ってきたせいか、再び俺を強い眠気が襲ってくる。もう寝るか、明日ちゃんと起きられるようにね。彼はどんな顔をするだろうか? 期待と楽しみで胸を一杯にしながら目を閉じた。
ハッピーバースデイにさよならを 三上優記 @Canopus1776
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