グランツハイム4階層
流川あずは
グランツハイム4階層
402号室 米澤
窓からオレンジ色の光が入り込む、夕暮れ時。米澤麻衣は自分の部屋のノブをひねった。一日の仕事が終わり、今帰ってきたのだ。
ああ、今日も疲れた。どんくさい後輩のせいで仕事は増えるし、上司は上司で殺人的な量の仕事をこちらに回してくるし。後輩は仕方ないにしても、無計画に仕事を回してくる上司については無能と言わざるを得ない。本当に、嫌になる。
仕事でのイライラを引きずったまま、テレビをつけた。
『御覧ください、街は仮装をした若者たちであふれかえっています…』
画面いっぱいに、奇妙な恰好をした人々が映し出される。十月三十日、今日はハロウィーンだ。
猫耳程度の軽い仮装をしたアナウンサーは、浮かれ切った若者たちにインタビューをしている。手作りの衣装ですか、力作ですね、制作期間は三か月、今日の為に三か月も前から準備していたんですね…。
いい気なものだ。私なんて、そんなことをする時間もないのに。まぁ、あったとしてもこんな馬鹿馬鹿しい行事に参加することはないだろうが。
チャンネルを変えたが、どこも下らないハロウィーン特集やら、つまらないバラエティやらで、ろくなものがないのでテレビを消した。
とりあえず、シャワーを浴びることにした。浴びていると、少しは気持ちがすっきりしてくる。顔にあてて、目を閉じると、当たってくるお湯の感触がよく伝わってきて心地よかった。
浴室から出てしばらくすると、急に眩暈がしはじめた。休んでいても一向に良くならない。頭痛もする。風邪だろうか、しかし、あまりにも症状が急すぎる。
なにか悪い病気かもしれない。麻衣はふらふらとした足取りで玄関へと向う。
家の扉を開いたところで、なぜか酷い空腹を覚えた。しかもそれは、急速に膨れ上がっていく。同時に、何か大切なものを失っていくような感覚にとらわれた。
403号室 小畑
ぼたり、ぼたりと水滴の落ちる音がする。濡れたガラスのコップが、台所の小窓から入る月光に照らされて、しっとりとした輝きを放つ。
小畑勤は、一心不乱に目の前の肉に喰らいついていた。おさまらない空腹を満たすため、必死に。柔らかい肉を。
ふと、その柔らかさが、どこかで感じたことのあるもののような気がした。もう少しで思い出せそうだ。この感触。喰らいつくせば分かる気がした。貪欲で純粋な瞳を光らせて、獣のように貪る。全てを飲み込みたいような、避けがたく持て余した欲求を、目の前の肉に向ける。そうすることでしか紛らわせることのできない苦痛の前では、全ての事は些細だ。自分の行為の意味も、その肉の正体も。
最後に頭を喰おうと、その皮膚に触れた瞬間、柔らかさの正体が分かった。それはすっかり忘れていた、生まれてきた娘を初めて抱き上げた時の、愛おしい柔らかさであった。気づいてから目覚めるまでは、あっという間だった。
目の前には、恐怖と苦しみにゆがんだ我が子の顔がある。リビングの煌々とした明かりに照らされた娘の目には、大粒の涙が溜まっていた。触れた頬には赤黒い跡がしみのように付着し、辺りには吐き気がするほどの生臭さが漂う。部屋の端に置いてあった青いキャリーケースは、点々とした醜い模様を作っている。思い出される、笑顔が。
ああ、こんなことなら、知らないほうが良かった。自分の目前の肉の正体など。
自分の狂気よりもむしろ理性を呪いながら、変わり果てた娘を静かに食べ続けた。
理性を持った化物は、自ら狂気に身を浸す。溺れ沈み、全てが無に成ることを望みながら。
ガラスのコップは、朝日を浴びて笑うように輝いていた。
404号室 稲野
月光が照らす青白い頬は、美しく光っている。少年の手の中では、汚れた包丁が鈍く輝く。見下ろせば、目の色を変えた人型の化物が寄り集まっている。化物になっても、群れるという人間の習性だけは変わらないらしい。
少年はベランダから外の様子を眺めた。ある人間の死体に群がる化物を眺めて冷笑する。あっけなかったなぁ。もっと難しいと思ったのに、あんなに簡単だなんて。もっと早くにやっておけばよかった。しかし、あの怯えようといったら、みっともない。いつもは威張り散らしてるくせに、こんな時は逃げ腰になって。失望したよ。
でも、あの目に浮かんだ絶望の色は、本当に美しかった。汚物の塊みたいなあの男も、最後にはあんな綺麗なものをみせてくれた。そこだけは認めてやっても良い。
しかし、この騒動を起こした奴には感謝しないとな。こんな面白いものは、そうそう見られるものじゃない。あの男も始末できたし。
「ねぇ、どんな気分?父さん」
少年の父親は、化物に喰い荒らされて人の形を失っていく。
「もう死んでるから、感覚なんてないか」
少年はつまらなそうにそう言った。生きたまま化物に喰われる方が、面白そうだ。
「あーあ、あの目玉だけでも、刳り抜いとけばよかったなぁ」
包丁を弄びながら、少年はそう呟く。
あの目。あれをもう一度見るためにはどうしたら良いだろう。月明りの反射する包丁は、少年の目と同じくらい冷たく輝いた。
405号室 植村
屍のように、ただ生きているだけの男がいた。男は家を出ずに、ただ飯を食い、排泄し、寝る、という毎日を送っていた。カーテンは閉め切り、買い込んであった保存食で生きている。ネットショッピングを利用すれば、外に出ずとも食料を調達できる。金さえあれば。
その金は、尽き欠けていた。現に今、水道が止められている。こんな生活を続けられるわけがない。しかし今はまだ、生き続けられていた。
男はこんな自分の生に疑問を持ち始めた。俺に生きている価値はあるのだろうか。食料はまだまだ沢山ある。ペットボトルの水も。惰性でつづけた生きるという行為のタイムリミットを、ただただ伸ばすことに何の価値があるというのだろうか。
男の部屋の扉を叩く者はいない。俺がここで突然消えてしまっても、気付く人なんていやしないのだ。好きなものも無い。嫌いなものはたくさんある。でもそんな嫌いなものでさえ、俺なんかよりは価値がある。
急にいたたまれなくなって、男はタンスの奥に仕舞い込んだネクタイを取り出した。
扉を隔てた外側には、俺を拒絶するものばかりだろう。それならば。
男の部屋の扉についている、金色のドアノブだけが輝いていた。
外
気が付くと、アパートの入り口前に立っていた。「グランツハイム」。アパートの看板が朝日に照らされている。
生臭い。そう思って振り向くと、赤いべちゃっとした何かが落ちていた。よく見ると、黒い毛と白い骨が…これは、ヒト?
吐き気がした。げろげろと吐いた。一通り吐いて胃が空っぽになると、吐いたものの中に明らかな異物が混ざっていることに気づく。曖昧で不快な意識のまま、吐瀉物の中の異物をつまみ上げる。繊維質。黒い…髪の毛。
酷い頭痛がして、何かを思い出すことを拒む。私は、私は今まで何をしていた?
こんな光景、ありえない。ましてや私が。
「ねぇ、お姉さん」
子供の声がして、振り向く。そこには、色の白い、どこか神秘的な少年が立っていた。この子は確か、稲野さんの所の…。
「一つだけ、聞いても良いかな」
洗い立てのようなつややかな黒髪と、どこか妖艶とも言える微笑。この子、こんな感じだっただろうか。
「僕のお父さん、美味しかった?」
頭の奥で、何かが崩れ去る音を聞いた気がした。二人の後ろでは、グランツハイムの看板がぎらぎらと輝いていた。
屋上
多田克宏は、屋上からアパートの周りを見下ろしていた。十一月最初の朝日は、汚らしい血までも美しく照らし出す。
貯水槽の中には、緑色の小瓶が一つ、入っている。
まさか、ここまでの効果があるとは。いや、なかなかに面白い。
あの小瓶には、食欲増進剤が入っている。路地裏で妙な外国人が売っていた。仕事のストレスで食欲不振だったその頃、興味を抱いてはいたが怪しくて買う気にはなれなかった。
ある時通りかかったら、外国人はおらず、商品だけが置いてあった。フタもされておらず、野良猫がひっくり返してこぼれた。猫が舐めると、急に足取りがおぼつかなくなり、しばらくすると他の猫を襲い始めた。
それを見て、一本くすねてきたのだ。それが今、グランツハイムの貯水槽の中なのだ。
自然と笑みがこぼれる。理性が吹っ飛ぶほどの食欲に襲われる。ああ、何という非日常。何という娯楽。
平凡な毎日が実は一番の幸福だ、などと言うのは、一度でも非凡な出来事を味わったことのある者のみが言えることだ。平凡な日常しか経験したことのない奴が、「普通である」ことに対して感謝できるわけがない。同じことを繰り返すだけの人生の、何が楽しいのだろう。そう思っている奴が大半だ。しかしこれで、このアパートの奴らは平穏な日常とやらの大切さに気付けただろう。良かったじゃないか、日々感謝して生きられる。まぁ、死んじまった奴もいるけど。
同じ階の奴らはどうなったかな。隣の部屋の女は、会社の得意先で働いていた。仕事のできる女だが、生き残っているだろうか。あそこに小さく見える人、あの女に似ている気がする。
その隣には父子家庭の親子が住んでいた。旅行に行くとか、他の奴と話していた。咲とかいう中学生の娘が、やけに楽しそうにはしゃいでいたな。
親子といえば、その隣も父子家庭だった。母親が逃げたとか噂になっていたな。暴力的な男だったみたいだが、生き残れたかな。息子の方は、なんとなく、俺と同類な気がしたが。
まぁ、どいつも全く影響がないわけではないだろう。化け物のように人を喰った奴も、誰かに家族を喰われた奴も、薬で凶暴になったやつを殺した奴も、なにかしら抱えて生きていくことになる。
でも、それでいいと思うんだ。日常とは刑務所みたいなものだ。逃げ出すことはできないし、中は殺風景で面白みもない。でも、みんなは「無期懲役」なところを、このアパートの奴らは「仮釈放」できたんだ。特徴のない平穏よりも、個性的な悪夢の方が良い。そうに決まっているだろう。
さて。俺はそのつまらない「刑務所」に戻らなきゃならない。今日も仕事があるからな。多田は、401号室へと帰っていった。残された小瓶は、太陽の光できらきらと輝いていた。
グランツハイム4階層 流川あずは @annkomoti
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