やってはいけないことを、やりたくなる男の話
向井みの
第1話 みきお
やってはいけないと言われると、どうしてもやりたくなる。俺はそういう病気にかかっている。
今日も図書館で見た張り紙に「CDはとてもデリケートです、丁重に扱いましょう。熱いところが苦手です」と書いてあるのを見て、ついカンカンに熱したフライパンの上にCDを乗せる想像をしてしまい、どうしてもやりたくなった。
一度やりたくなると、我慢が何より辛い。欲求が喉の奥で熱を帯び、心が渇いてしょうがなかった。結果俺は中古品売り場でどうでもいいアイドルのCDを安く買い、大急ぎで家に帰って欲求を満たした。熱したフライパンの上で不穏な音を立てるCDを見つめながら、動悸がおさまりつつある胸をそっと撫で下ろしたのである。
勘違いしないでほしい、俺だってこんなことやりたくない。悪いのはもちろん俺だが、好き好んで馬鹿をやっているわけじゃないんだ。
初めてこの欲求が現れたのは、4歳の時だった。当時共働きで忙しい両親にほっとかれがちだった俺は、居間の畳の上で無意味に転がっていることが多かった。その日もそうしていると、ちゃぶ台からはみ出すマッチの箱が下から見えた。なぜかそれから目が離せなくなった俺は、初めての欲求にごくりと唾を飲み込んだ。台所に立つ母親がたてる包丁の音がやけに大きく耳にこびりついたのを覚えている。マッチはもっと幼児の頃、何かわからず手を触れたところを父に取り上げられ「危険だから絶対に触ってはいけないぞ」と強く言われていたものだ。幼い俺の頭の中で「絶対に」と「触ってはいけないぞ」の言葉が頭の中に何度も響き渡り、不自然な胸の高鳴りを覚えた。欲求になんの耐性もなかった俺は(なんせ初めてだったし)、気が付くと身を起こし、マッチの箱に手に取り中身を一本出していた。
「うわあ!」
見よう見まねで火を起こしてみると、当たり前だがマッチの頭に火がついた。そうなるのは薄々わかっていたはずなのに、俺はビビッてマッチをそのまま畳に放ってしまったのだ。
「みきお!!なにしてんのあんた!!」
俺の情けない声に居間を覗いた母親が叫び声をあげる、畳に落ちたマッチはすぐに燃え広がることはなかったが、確実に火は燃えたままである。
しかしさすが、母は強い。彼女はすぐに桶に水をためると、火に勢いよく水をかけ消火した。そもそも大した火種でなかったために、あっけなく火は消え居間はそこらじゅうが水に濡れた。放心する俺の頭を、母親は空になった桶で容赦なく引っぱたいた。俺は鼻水と涙を垂れ流しながら「ごめんなさいもうしません」と謝った。
それが今、このありさまである。俺は焼け焦げたCDをフライパンごとゴミ袋に放り込んだ。齢26になっても、俺は欲求に逆らえずにいた。今日なんて、家の中でできることでかつ人に迷惑がかからなかっただけ随分マシである。長年欲求と付き合ってわかったことは、欲求は想像力と連動して生まれているということだ。ただ人に「あのボタン押しちゃダメだよ」と言われただけで無条件に欲求が現れるわけではない。ボタンを押したらどんなことが起こるのか、自分はどうなるのか、そこに想像力が搔き立てられて初めて欲求に火がつくのである。
だから俺は、ひたすらよそ見をせずに生きてきた。余計なものを見て想像力が働いたら最後、燃えるような欲求に耐えなくてはならない。人付き合いも最小限に、万が一犯罪の道へ誘ってくる輩と関わったら、欲求に耐えきれずひた走ってしまうかもしれない。赤の警戒色は俺にルールを破らせようとするから嫌いだ。
子供の頃、大人たちは欲求のために問題行動を繰り返す俺に「両親が共働きで構わないから寂しくて、大人の気を引くためにいたずらをするんだろう」という分析を下した。初めは俺もそうかもしれないとその分析を受け入れていたが、今は違うと考えている。そういう、理屈にのっとって現れるものではないような気がしてならないのだ。この身に起きることは、自分にしかわからない。きっと、病気なのだろう。どんな病名がつくかなど知ったことではないが、4歳の俺に発症し今もなお蝕む病気だ。病気になるのに理由なんかない、癌や白血病にかかるのだって結局明確な理由など無いのだ。それと同じだ。
病気と解釈してからは、いくらか気持ちが楽になった。むやみに自分の生い立ちを分析しなくてよくなったし、それに大人になった今、子供の時と違い誰も無遠慮に分析してこない。
俺はただ、この欲求とうまく付き合っていく方法を探し続けるだけだ。
水道の蛇口を捻り、コップに注ぐ。そのままシンクの前に立って水を飲み干した。冬が始まり、冷たくなった水道水は俺の火照った喉を冷やしならが身体を満たしていく。欲求に負けた証である忌々しい使用済みのフライパンを捨ててしまった。明日近くのホームセンターへ出向いて、また一番安いのを買おう。
つづく
やってはいけないことを、やりたくなる男の話 向井みの @mumukai30
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