整体師と小説家

向井みの

第1話 二人の生活

第一話 二人の生活


 朝起きると、リビングに蚊取り線香が設置されていた。細い煙を立ち昇らせるそれは、カーテンやソファと接触しないようにとの配慮があってか、部屋のど真ん中にひっそりと置かれている。マモルはリビングに入った瞬間、同居人が3年目の禁煙をついに破ったのかと疑ったが、蚊取り線香を見つけて違ったと胸を撫でおろした。たばこの匂いは苦手だ。その点、蚊取り線香はたばこと線香の中間のような匂いがする。

 マモルはあくびをしながら蚊取り線香の傍にしゃがみ込んだ。渦巻き状の緑の本体が3分の1程度燃え尽きている。同居人がこれを設置してから、そこまで時間は経っていないらしい。同居人が何を考えて置いたのかはわからない。本当なら今すぐ火を消して窓を開けて換気したいのだが、万が一執筆に関わる何かしらの試みだとしたら勝手な真似はご法度だ。

人は火というものを夢中に見てしまう生き物らしい、マモルはしゃがんだまま頬杖をして、煙を発する赤い点を見つめ続けた。なんだか眠くなってきた、サカキさんが朝ごはん食べるまでソファで寝ちゃおうかな。

「おい、おはよう」

うとうとし始めたところで、背後からマモルの同居人、サカキが声をかけてきた。目をしばたたかせて振り向く。

「おはようサカキさん。これなに?びっくりしたよ」

長身に上下真っ黒のスウェットを身に着けたサカキは、マグカップを片手に立っていた。仕事中にしかかけない眼鏡をかけっぱなしでいるのは、まだ執筆が終わっていないということだろうか。

「なにって、蚊取り線香だろうが。夜中にハエがいたんだよ、許せねぇだろ」

「普通閉め切ったマンションの部屋で蚊取り線香は焚かないでしょ。換気していい?」

「虫ときたら蚊取り線香に決まってるんだよ。虫入らないようにしろよ」

マモルはリビングの窓を開け放ち、同時に天気を確認した。朝7時現在、天気は薄曇りだが、朝特有のみずみずしい青空が眩しい。

「サカキさん、執筆の調子どう?今コーヒー淹れるよ」

「進捗は悪くない。想定よりやや遅れてるくらいだ、まあそれはいつものことだが。コーヒー?インスタントでかまわない」

「俺が飲むついでだから」

そう言って、マモルはぶつぶつ喋るサカキの手からマグカップをとり、台所に向かった。

二人の朝は今日も順調だ。夜通し仕事した小説家のサカキと、早寝早起きで今日も仕事場に出かける整体師のマモルの二人暮らし。付き合って5年、同棲して3年目である。



 サカキと住む自宅マンションを出て、駐車場から自転車に乗った。仕事場まで自転車で30分ほど、平日でも一日約一時間の運動になるこの通勤法をマモルは気に入っていた。10月の空気は夏の勢いが少し和らいだ程度に暑いが、吹く風は爽やかだ。

 マモルが働く整体院は、街のショッピングモールの中にある。一階は食料品内場、マモルの職場『整体院・ほぐし屋』は二階のフロアの端っこにひっそり存在する。そのショッピングモールはどこかさびれた空気が漂うが、地元の人間に長く親しまれている商業施設で、整体院がある場所としては珍しいかもしれない。しかしここにあると、腰痛膝痛に悩む老人以外にも買い物に来た主婦や運動部に所属している中高生など、多くの人が立ち寄りやすく集客には申し分ないのだ。マモルは専門学校を卒業してから今に至るまでずっとこの整体院で働いている。30歳になった今、職場では中堅整体師の地位を築き、後輩の指導を任されることも増えた今日この頃だ。同業者の中にはこの年齢になると独立を考える者が一定数いるが、この職場が気に入っておりかつ将来にさした野望の無いマモルにそんな気概はなかった。気軽なゲイ2人暮らし、子供ができるわけでもないし、暮らしていければ十分だよ。

 職場について、仕事着に着替える。医療ドラマで見る麻酔師が着ているような濃紺の服だ。たまに病院と整体の区別のつかない年配の客に、看護師や医者と間違えられることがあるから、もっとカジュアルな服装にできないものかと常々思っている。淡々と開店準備を進めながら、頭は自宅にいる恋人のことを考えていた。サカキさん、無事〆切に間に合うといいけど・・。



 マモルが淹れてくれたコーヒーは、毎日飲んでいるインスタントコーヒーより遥かに香り高かったが、サカキには少し苦かった。〆切前の徹夜明けにはちょうどいいかと、砂糖も牛乳も足さずに少しずつすする。満腹になると眠気を誘うため、朝食は食パンの半分とマモルが作ったレタスときゅうりのサラダを適当に食べた。人間は生野菜が苦手であると、古代の哲学者が何かが定義していた気がする。サカキは空を睨みながらレタスを咀嚼した。

 〆切を破らないのに必要なのは、仕事部屋と寝室を分けることだ。約6畳の仕事部屋は、デスクトップPCを構えたデスクと壁を覆う本棚以外は、大量の本と漫画が埋め尽くしている。格好つけて言えば書斎と呼べるのかもしれないが、床にいくつものタワーを形成する本たちを几帳面な人間が見たら卒倒するに違いない。本タワーの他に、科学や宇宙にまつわる雑誌が床にくたりと横たわっている。デスクトップPCは、長らく安物のノートパソコンで仕事をしていたサカキに「ノートパソコンだと画面を見下ろす姿勢になって、首に負担がかかるから」とマモルが整体師らしいアドバイスをして買ったものだ。

『進捗どうですか』

デスクに置きっぱなしにしていたスマートフォンが震え、担当編集からのメッセージが画面に浮かび上がる。サカキは舌打ちをしてスマートフォンの電源を切り、デスクに向かった。

〆切まであと4時間、瞑想する僧のようにゆっくりと深呼吸する。頭の中は物語を組み上げながら、いつもの声が響いていた。

書け、書け、書け。


 ハエがいる。執筆を再開して約一時間半、肩を怒らせてPCに向かうサカキの神経を逆なでるように、ハエの羽音が鳴っている。昨夜リビングにいたのと同じハエだろうか、はじめは執筆に集中していたサカキだが、ハエの姿が視界をチラつき始めたあたりで我慢の限界を迎えた。わざわざ蚊取り線香まで焚いたというのに、生き残るとは何事だ。結局物理攻撃が一番だとサカキは知っている。近くにあったノートを手に取り、愚かにもデスクの端にとまったハエ目がけてひと思いに振り下ろした。油断していたのか蚊取り線香で弱っていたのか、ハエはいとも簡単に仕留めることができた。嫌な気分でノートを持ち上げると、つぶれたハエが机を汚していた。サカキはしばらくその哀れな姿を見つめ続けた。つぶれたハエを見つめ続けると、段々それが宇宙空間を漂う壊れた小型宇宙船と変化していく。エンジンは止まって、暗い宇宙を彷徨うしかない宇宙船、誰もその行方を見届ける者はいない。目を細めて夢想し、くつくつと笑うと、ハエの死骸を片すことなく再び執筆に戻った。今回も間に合いそうだ。



「じゃあ早川ちゃん、俺もう上がるから明日の予約チェックお願いね」

「はーい、お疲れ様でーす」

後輩整体師に声をかけ、職場を後にする。昼休みにスマホをチェックし、サカキが無事〆切に間に合ったのは知っている。今頃仮眠を終えて風呂に入っているところかな、お風呂で寝ちゃわないといいけど。今夜は久しぶりに一緒に寝れるし晩御飯も一緒だ。〆切前の一週間はサカキが昼夜を問わず執筆に追われるせいで、起床時間が合わないばかりだったのだ。整体師として医学に明るいマモルとしては、〆切の度に生活習慣が乱れるのは身体のために避けて欲しい一心だが、小説家というのは時間を決めて動くのがとことん苦手らしい。

とにかく今夜は恋人を労いたい。正直修羅場を乗り越えたサカキ本人より、マモルの方が喜んでいる。自転車に乗る前にスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。

『今夜晩飯どうします?サカキさん食べたいもんある?』

ほどなくしてメッセージが返ってきた。

『つかれたからうどんが食いたい。あともう眠い』

眠たそうな顔で自分を出迎える恋人の姿を想像し、マモルはにやけながら自転車に跨った。



 夕食を終え、そろそろ寝ようという時間。サカキはリビングの床でうつ伏せになり、マモルが覆いかぶさるように背後に回る気配を感じ、気だるげな声を上げた。

「なあ、眠いから今日はいいよ」

「だめだめ、肩も首もがちがちだよ。ほぐさないと」

仕事を終えて、風呂にも入って満腹で、今すぐベッドに潜り込みたい。だが、マモルが嬉々として自分の肩や背中をほぐすのを見ると、無下にもできない。それにマモルの施術は、確かに長時間の執筆で凝った身体を癒すもので、結局サカキは脱力してマモルの好きにさせることにした。

「ふ、まだちょっと蚊取り線香の匂いする」

背中を指圧しながら、マモルが言う。サカキは今朝マモルが火を消し、リビングの隅にどかした蚊取り線香を細目で見た。今になって考えると、ハエが一匹出たからって蚊取り線香を焚くなんて馬鹿げてるなと、修羅場でおかしくなった己の行動に苦笑した。


「明日の休み、どこか行くか」

「いいよ、サカキさん疲れてるでしょ。俺は久しぶりに晩飯一緒できただけで十分だから。好きなだけ寝てよ」

5分ほどでマモルの施術は終わり、2人は念願のベッドに潜り込んでいた。寝室の過半数を占める巨大なダブルベッドに並んで身体を沈める。サカキは〆切前の荒れた生活でマモルが寂しがることを知っているからか、〆切後になると毎回少し優しくなる。いつもは休日も部屋に引きこもって本を読み漁るような人なのに。マモルはその優しさを、心地よい眠気の中で存分に味わった。

 ほどなくして、サカキの寝息が聞こえてきた。それを聞き、ようやくマモルも眠りについた。二人の生活は順調だ。これから先も順調なはずである。

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整体師と小説家 向井みの @mumukai30

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