お父さん

Gacy

お父さん

 ほんの少しだけ開いた窓から生温かい湿った空気が部屋のなかに流れ込んだ。煙草と排気ガスと生ごみの入り混じった臭い。部屋に敷かれた万年床からも人の脂臭さが鼻をついた。


 山積みになった汚れた皿とグラスがキッチンを占領し,床には何が入っているのかわからないコンビニ袋が口をきつく縛られいくつも転がっていた。


 ガチャガチャと金属が不快な音をたててから,ギィィィと建付けの悪い木製のドアが開いた。激しく飛び散る水の音と軋む床の音が玄関脇からした。若い頃は誰もが振り返ったであろう,やけに派手な化粧をした女がだるそうにひび割れた鏡の前で洋服を直していた。



「ねぇ……わたし,これから仕事だから」



 茶色く変色した布団の中から,白髪頭のやつれた中年男が顔を出した。ひどく具合が悪そうな男は頭をもたげて女を確認すると,うんざりした表情で視線を落とした。



「ああ……いってらっしゃい……」



 男は虚ろな目で女の尻を追うと,そのまま崩れるように布団に戻った。



「今日は朝までだから……」



 女は鏡に鼻が着きそうなくらい顔を近づけて化粧を直すと,使い込まれた高級バッグを片手に踵の削れたピンヒールを履いて部屋を出た。


 女は真っ暗な道を少し歩いて大通りに出いると,街灯の下に立ち流れてくる車のライトに視線を向けた。五分ほどしてお目当ての車が視界に入ると,そっと片手を挙げ自分の存在をアピールした。車は減速しながらハザードランプを付けて停まり,自動でドアが開くと同時に女は慣れたように身体を滑り込ませた。



「あら……運転手さん,ご無沙汰ね。元気でやってた?」



「ええ,いつもありがとうございます。これからお仕事ですか」



「うん,そう。運転手さんも一度お店に来てよ」



「ありがとうございます。一度行ってみたいのですが,貧乏暮らしの僕みたいなのは余裕がないのと,なにより場違いかと」



「なに言ってんのよ,サービスするから」



 女は毎回こうやってタクシー運転手の顔写真と名前を見ながら,営業トークでお店までの十分間を潰していた。



「でも,お客さん。そろそろ出産も近いんじゃないですか? 前回お乗せしたときはもう8カ月だって……」



「あ……そうそう。よく覚えてるね? 来月あたりじゃないかな?」



「大変ですね。そんな時までお仕事されるなんて」



「まぁね……稼がないとね……。これも仕事だから……」



 お店では大きなお腹で接客をしていると,たいていの男は気を使ってくれた。なかにはお腹を触らせてくれだの,お腹に耳を付けて音を聞きたがる男もいた。そしてほとんどの客が,まるで挨拶のように「母乳を飲ませてくれ」と言ってきた。


 女は笑いながら「お父さんになってくれたら母乳飲み放題だよ」と言って,毎回同じことを繰り返す男たちのくだらない要求をかわした。


 客たちも笑って応えたが,目の前で大きなお腹で煙草を咥え,強いアルコールをあおるようにして朝まで飲み続ける女を心のどこかで侮辱していた。



「ねぇ……知ってる? あの子,以前いた街でもお腹大きいまま接客してたらしいよ……」



「あの子,もう何人も子供を堕ろしてるって噂よ……」



「あの子,子供が何人もいるらしいんだけど,父親は全員違うし,そもそも父親がわかる子供のほうが少ないらしいよ……」



「あの子,何度も出産してるのに一人も子供が家にいないらしいよ。みんな父親に連れて行かれちゃうみたい……」



 お店の女たちは常に同僚の陰口に華を咲かせ,太客の前では媚びた笑いと露骨に開けた胸元で自分を売り込んでいた。


 暗い店内では安いアルコールが高級ワインのような値段で提供され,近所の中華料理屋のチャーハンが十倍もの値段でテーブルに並んだ。


 そんな毎日を過ごしていくうちに女のお腹ははち切れそうなくらい大きくなり,いつ出産してもおかしくない状態になっていた。


 お店も店内で出産されたり急に救急車を呼ぶことを嫌がり,出産予定日の一週間前から女の出勤を禁止した。それでも女はギリギリまで働きたいと言っていたが,お店の頑なな態度に諦めて自分の部屋に閉じこもって過ごした。


 予定日が過ぎて三日後に,女は誰の助けも借りずに自分の部屋で出産をした。ビニールシートを敷いた上で汚れた布団に横たわり,脚を大きく広げ,タオルを口に咥えてほんの数十分で小さな男の子を汚い布団の上に産み落とした。


 なにもできずに横たわっていた中年男は,緊張したまま目の前に転がる真っ赤な肌の赤ちゃんを黙って見ていた。男の表情は硬く,汚い部屋のなかで出産できることに驚いていた。


 小さなベトベトに濡れた肉塊のような赤ちゃんが産声を上げ,小さな手足を動かした。その様子は男にとっては衝撃で,自分の家の跡取りを産むために雇った女が自分の目の前で出産することまでは想像できていなかった。そもそも出産一カ月前から同居するという契約も理解できずにいた。



「くっそ……何度やっても慣れねぇな……でも,よかった。男で。ほら,女だったらそこいらに転がってる袋が増えてたよ……」



 ゆっくりと這うようにして赤ちゃんを取り上げると,そのままコンビニ袋に入れてしっかりと封をした。そしてそのコンビニ袋に入れられた赤ちゃんを布団の端で緊張している男に放り投げた。



「はい……八二〇〇〇グラムのお父さんの誕生です。じゃあ,人に見られないようにして,そいつを持ってさっさと消えてね。これで契約は完了だから」



 コンビニ袋から体温が伝わってくると,男はどうしてよいのかわからないまま両腕で優しく包み込んだ。息ができないんじゃないかと不安になり,ほんの少し袋を緩めて空気を入れた。



「残りの金は約束通り現金だから。わかった?」



 男は黙ったままコンビニ袋のなかで動く赤ちゃんを抱きしめた。袋越しに伝わってくる体温は,いままで目の前の女のお腹の中にいたと思うと複雑な心境になった。



「もう一人欲しかったら,契約内容は同じだから。よ・ろ・し・く・お父さん……」

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お父さん Gacy @1598

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