やめろ,触れるな近づくな!

Gacy

第1話

 細く開いた窓から優しい陽射しが射し込み,柔らかいカーテンが微かに揺れると,時間の止まってしまったこの部屋のなかを心地よい風がゆっくりと通り過ぎ,微かに時を進めた。


 八畳ほどの和室だった部屋は,床が補強され,防水仕様に改築されていた。壁には子どもの落書きのような絵がいくつも飾られ,小さな勉強机や可愛らしい花柄の箪笥の上にはぬいぐるみが所狭しと置かれていた。


 部屋の中央では,無機質な小さなモニタの中で規則正しく表示されるいくつもの数字が点滅し,カラフルな複数の線が波打つように左から右へと流れていた。



「かな子,窓を閉めようか。今日はこれから暑くなるみたいだし」



 そう言って父親が静かに窓を閉めると,静まり返った部屋のなかをベンチレータの小さな換気音とともに規則正しい機械音が響き渡った。


 澄み切った空気はどこか重く,規則正しい機械音がゆっくりと得体の知れない重みを増していくようだった。



「今日はヘルパーさんが来てくれる日だよ。偉いよな,あの人。だって,もう五十を過ぎてるのにこんな大変な仕事をしてるなんて。お父さんだったらすぐ腰を悪くしてるよ」



 大きな柵のついたベッドの中央で柔らかい羽毛布団に包み込まれ,枕の代わりに何重にも重ねられたタオルに頭を載せて口にホースが取り付けられた娘の姿を見て寂しそうに笑った。



「もう,三十年か……あっという間だったな。あいつもいなくなって,結局,この部屋が俺とお前のすべてになってしまったな……」



 ベッドの横にはモニタが置かれ,いくつものコードが常にかな子の血圧や脈拍,心拍数を表示していた。十年ほど前からは自らの力で呼吸をすることができなくなり,こうやって機械の力を借りて生き続けていた。目の前に映し出されるモニタの数値が,かな子が生きている証でもあった。



「せめて……お前の笑顔をもう一度見ることができたらなぁ……」



 壁に貼られた大きなクジラの絵とそこに書かれた「いしだかなこ」という文字を見て,元気だった頃の娘の姿を思い出した。


 かな子は落ち着きのない子だった。明るく元気に走り回り,いつも大きな笑顔で友達たちと楽しそうに遊んでいた。


 保育園でもたくさんの友達に囲まれ,少し早めにお迎えに行くと,まだ遊び足りないと帰ることを拒むほどだった。


 保育園の方針で,子供たちは一年中体操着と素足で過ごすことが決められていた。小さな水溜りのようなプールに入るときは全員裸で,保護者たちは皆,入園前の説明会でその規則を聞いたときはほんの少しだか違和感を感じた。


 しかし夏になると園児たちはなんの躊躇もなく体操着を脱ぎ捨て,十五センチメートルほどの深さのプールで悲鳴にも似た声をあげながら楽しそうにはしゃいでいた。


 園児たちがプールで遊ぶときは必ず保育士が三名以上いることが園のルールで決められていた。水も毎回使用するたびに新鮮な水を溜め,終わったら流して清掃することになっていた。


 かな子が五歳の夏,保育士たちが目を離したほんの数分間,誰もいない時間外のプールで,あるはずのない水のなかでうつ伏せのまま倒れているのが見つかった。


 家の洗面器よりも浅いプールでかな子は溺れ,心停止のまま小児救急に運ばれたが,それ以来意識を取り戻すことはなかった。


 両親は僅かばかりの希望にすがりつき,気がつけば三十年間,一度も意識が戻ることのないまま部屋の中で身体だけがいびつに成長していった。


 突然インターフォンが鳴り,現実に引き戻された。ぬいぐるみに囲まれた時計を見て,ヘルパーの来る時間を確かめた。


 もう十年近く週二回のペースで通ってもらっているが,いまだにヘルパーといえど中年男に娘の世話をしてもらわなくてはならい現状に父親として複雑な心境になった。


 途中のリビングにあるテーブルに置かれた珈琲を一口飲み,テレワークでずっと開きっぱなしだったpcを閉じ,気を取り直して玄関へと向かった。


 やけに明るい玄関のドアを開けると,真っ黒に日焼けした奥村幸一が大きな鞄を肩に掛け,体操着のような制服姿で立っていた。筋肉質な腕と肩は,五十を過ぎているようには見えなかった。



「おはようございます。本日もよろしくお願いします」



 既にこの家のことはなんでも知っている奥村は,軽く頭を下げて挨拶を済ませると,かな子の部屋へ大きな鞄を持って入っていった。


 ドアは開けたままで,手際よく鞄から荷物を取り出すと,小さな袋を持っていつも通りの手順でキッチンに行き,お湯を沸かし始めた。



「今日は,かな子ちゃんの顔色がいいですね。最近ちょっとふっくらしてきたみたいだし」



 社交辞令だとわかっていても,娘を褒められるのは父親として嬉しかった。


 他の子供よりも明らかに成長は遅く,頭だけは成人と変わらない大きさだが身体は細くて小さく,全身には筋肉がほとんどなく,骨も曲がってしまっていた。


 知らない人がかな子を見たら,きっと驚くだろうと嫌な想像をした。客観的に見ても,成人らしい大きな頭に不釣り合いな,驚くほど小さな歪んだ身体は,とても生きている人間とは思えなかった。



「かな子ちゃんって呼んでくれるのは,君と訪問看護師さんだけだよ。こんな姿になってしまった娘を名前で呼んでくれる人がいるって,やっぱりありがたいね」



「いえいえ,それにしても最近のかな子ちゃんは,ますますお母さんに似てきましたね」



「ああ……確かに,言われてみたら,そうかも知れないな。どこかあいつの面影もあるのかも知れないな……」



 妻はかな子の母親としての役目を最後まで果たすことができなかった。娘の姿を見るたびに泣き崩れ,突然子供服を大量に買ってきたかと思えば,何日も言葉を発することなく部屋から出てこなくなることがあった。


 心療内科に通い,眠れぬ夜は薬が頼りだった。感情の起伏が激しくなり,外出中に泣きだすこともあった。


 かな子の身体に安定的に酸素を送ってくれるベンチレータの導入が決まり,奥村がヘルパーとしてこの家に通うようになってから二カ月ほどして,妻は現実に耐えられなくなり自らの命を絶ってしまった。


 遺書などはなく,大量の子供服に包み込まれるようにして真っ暗な部屋で心療内科で処方されていた睡眠導入薬をアルコールとともに過剰摂取した。


 同じ家に住む妻が自ら命を絶ってから一週間後の発見だったため,腐敗した身体から出る異臭が部屋から漏れ出し家の中を充満した。父親としても夫としてもその務めを放棄して,すべてを仕事に向けていたことで,妻の親族からは激しく責められた。


 苦しみ悩み続けたであろう妻の自死を前に,いつから悩んでいたのか,いつ命を絶つことを決めたのか夫として何も気づかず,最後に妻の笑顔を見たのがいつだったかも思い出せなかった。


 なにより妻が死んだことすら気が付かないほど,夫婦としての関係はとっくに終わっていた。実際,妻の死を知ったときは,その異臭から部屋に入りたいと思えなかった。


 当時とは違い,いまでは頻繁に発令される緊急事態宣言のせいで仕事は自宅でする習慣がついた。二十四時間,常にかな子の面倒をみることができる反面,妻の苦悩も少しだけ理解できるようになった。


 こうして定期的にベンチレータのメンテナンスと簡単な世話をしに通ってくれる奥村のような存在はありがたかったが,父親としては女性のヘルパーにお願いしたいと常に思い,派遣先の会社にもそう伝えていた。


 目の前の奥村はベンチレータのチューブを手際よく交換し,かな子が生きるために必要な機械のメンテナンスを黙々と行った。


 それはまるで決められた工程を流れ作業のように無表情で淡々とこなしているようで,目の前で娘が物のように扱われているような気がして胸が張り裂けそうになった。



「な……なぁ,君はこうして定期的にかな子の面倒をみてくれるが,他にも同じような人のところにも行っているんだろ?」



「はい。自分のお手伝いの必要がある方のところを伺っています」



「そうか……その中には,かな子よりひどい人もいるのか?」



 奥村は質問に応えず,黙ったまま作業を続けた。そして一通りの作業を済ませると,ゆっくりと立ち上がりリビングを通ってキッチンに行き,使用した機材の一部をお湯で洗い綺麗にしてから,使い捨てのペーパータオルで丁寧に機材を拭いた。



「すみません。会社の規則で,よそのお話はできないんですよ。ただ,かな子ちゃんのような子は,他にもいますよ。みんな家から出ないので,世間では知られてないだけで」



 当たり前の返事ではあったが,なぜかとても驚き,世の中にはかな子と同じような人がいるという現実に胸の奥がざわついた。



「そうか……よそにもいるのか……」



「ええ……でも,かな子ちゃんは僕にとっては特別な存在ですよ……」



「え……?」



 特別な存在という奥村の言葉が理解できず,次の発言を黙って待った。僅かな時間がやけに長く感じ,喉が粘膜に張り付くように乾いていくのが感じられた。



「かな子ちゃんの絵,お父さんが飾ったんですか?」



「かな子の絵?」



 かな子の部屋に飾られた絵のことを言っているのはわかったが,その意図がわからず困惑した。もう十年もこの家に通っている奥村から初めて絵のことを聞かれたことに違和感を感じ,思わずテーブルの上の珈琲をそっと口にした。



「絵を描くのが好きだったんですね。とくにあのクジラの絵,よく描けてますよね」



 クジラの絵は,幼い頃にかな子が大好きだった絵本の内容を描いたもので,クジラの中に住む人達の物語だった。それはクジラに寄生する人間たちが宿主の死を察し,自らがどう生き抜くか,どう終わるかを可愛らしく書いた児童書とは思えない内容で,かな子は夢中になっていた。



「まぁ,お母さんは気付いていたみたいですよ……」



「ん……なにを……?」



「やっぱり父親っていうのは,どこも肝心なことは理解していない。子供のことは全部,母親に任せっぱなしなんですね。あっ,それとコーヒーカップ,洗っておきましたから」



 奥村はキッチンを綺麗に掃除しながら,ゆっくりと父親と視線を合わせた。



「いつも送迎に来られるのはお母さんでしたね。お父さんを見たことはほんの数回しかありませんでした。当時は僕もまだ二十代でしたから,こんな中年になってから再会しても気づかなくて当然ですよ」



 奥村は濡れた手をペーパータオルで拭きながら,リビングへと移動した。小さな茶色い小瓶を袋から取り出してテーブルの上に置き,父親を覗き込んだ。



「まぁ,お母さんですら,僕に気づくのに二カ月ほどかかりましたよ」



 奥村が何を言っているのか理解できないまま,ひどい吐き気と眩暈に立っていられなくなった。突然,視界がチカチカと点滅し,胃が握り締められたかのように苦しくなり,全身から汗が吹き出した。



「かな子ちゃんの笑顔といったら,園内でも本当に眩しかった……。あの時,抵抗さえしなければ,今頃はかな子ちゃんにも同じような明るいお子さんがいたかもしれない……」



 奥村がテーブルに置いた小瓶を摘み上げると,中身を確認するように,光にかざして瓶を揺らした。



「お母さんは僕に気づいた瞬間,軽いパニックを起こしましてよ。だって,かな子ちゃんがプールに倒れていたときに園にいた保育士の一人が家の中にいるんだから」



 奥村の声が遠くで聞こえたが,なにを言っているのか言葉が頭に入ってこなかった。床に転がると、胃が痙攣し,そのまま目の前が真っ白になった。


 奥村の足音が頭のなかのどこか遠くで響き渡り,その音と重なり合うように夏の陽射しが眩しく照らしているように感じた。


 頭の奥深いところで元気な子供の声が響き渡り,すぐに悲鳴のような叫び声と水を叩くような痛々しい音が鳴り響いた。



「かな子ちゃん,女の子の身体してるんだね……。可愛いね。ほら,ここ,どんな感じ?」



 遠くで幼いかな子の悲鳴が聞こえたような気がした。意識が薄れていくなかで,若い保育士の男がかな子の身体を触り,抵抗する小さくて幼い身体を浅いプールで押さえつけている光景が浮かんだ。



「やめろ! やめてくれ!」



 心の奥で叫んだが,声は出ず,胃から喉を伝わって大量の吐瀉物が床を汚した。耳の奥で鳴り続ける幼い悲鳴と,絶望のなかで意識を失う母親がフラッシュバックのように交互に目の前に現れた。


 瞼の裏に映る映像が笑顔の奥村が幼いかな子の身体を好き勝手に痛ぶり,意識を失う母親の口にチューブを挿入して大量の錠剤を料理酒で流し込んでいた。


 目が回り,耳鳴りがしたかと思うと,胃液を吐き出し,全身が痙攣した。



「やめろ……離れろ……かな子に近づくな……かな子に触れるな……やめろ……やめてくれ……」



 奥村は指の関節を鳴らしながら,父親の前でしゃがみ込むと,こじ開けるように両手で瞼を開き,焦点の合わない瞳を覗き込んだ。



「おお〜凄い,まだ意識あるんだ? お母さんはすぐに意識を失ったよ。倒れたけど呼吸のあるうちにチューブで直接胃のなかに睡眠導入薬とアルコールを入れてあげてね。もう,人形みたいにぐったりしちゃってさぁ。うつ伏せで倒れてる姿なんて,もう,かな子ちゃんとそっくりだったよ」



 目の前で眩しい光が何度も点滅しては,幼いかな子の笑顔が現れては消えた。足音が遠くなり,かな子の部屋のドアが乱暴に開けられたのが聞こえた。



「さて……かな子ちゃん。あの日の続きをしようか……。今回は先生の言うことをちゃんと聞くんだよ。あの時みたいに抵抗しちゃダメだからね」



「やめろ……これ以上……かな子に触れるな……近づくな……」



 薄れゆく意識の中で,ベッドが軋み,骨が砕ける音が響き渡たった。聞こえない娘の悲鳴が重たい空気のなかに広がり,終わりのない苦痛に飲み込まれていった。


 意識を失っているのか,朦朧としているだけなのかわからなかったが,何度も意識が飛んでは幻覚や幻聴が容赦なく襲ってきた。


 突然,一切の音が消え,静寂のなかで上半身裸の奥村が笑顔で父親の前に座りこんでいた。五十代とは思えぬ引き締まった身体が健康的で,父親は抵抗できない自分の無力さに涙が溢れ出した。



「お母さんも悪くなかったけど,やっぱりかな子ちゃんのほうがよかったね。男の子にしか興味のなかった僕を矯正してくれたことに感謝だよ。あの壊れやすい繊細な身体が,今日まで生き続けたことにも感謝だね」



「それから,ベンチレータの電源を抜いておいたから,もう酸素はいかないよ。これでかな子ちゃんもようやく永眠ねむれるね。止まった時間を僕が動かしてあげたから。あと,お父さんの代わりに,ちゃんとおやすみを言っといてあげたからね,安心して」



 痙攣していた身体から一気に力が抜けると,全身の穴という穴から汗と体液と汚物が溢れ出た。もはや視界はほとんどなく,奥村に怒りをぶつけることもできないまま,静かに心臓が止まっていくのを感じていた。



「あ……そろそろか。これから娘と奥さんに会いに行くのかも知れないけど,娘はどんな姿でお父さんを迎えてくれるんだろうね。楽しみだね」



 奥村はゆっくりと立ち上がり,汚物にまみれた父親を抱き抱え,かな子の部屋に連れて行くとベンチレータのコードを握らせた。



「あ,そうそう。かな子ちゃんが描いたあのクジラの絵,クジラのお腹のなかで家族団欒みんなで楽しく暮らしてるんだってさ。ほんと、上手に描けてるよね。ただ,先生はクジラのなかは宿主に寄生する人間の醜悪にまみれてるし,そもそも灯りなんかなくて真っ暗闇だと思うんだ」



 意識が薄れていくと,ゆっくりと一切の光が届かない世界に飲み込まれていった。誰もいない暗闇で最後に見た光景は,かな子が楽しそうに笑いながら母親に抱っこされている姿だった。



「ふふふ……お父さんも,おやすみ」



 耳元で奥村が囁いたが,涙と汚物にまみれた父親は脱力したまま反応しなかった。


 奥村は全身に残る胸のなかで骨が砕け散る感覚と下半身に残るかな子の余韻に喜びを感じながら,会社の名前とロゴが描かれた派手な軽自動車に荷物を積んだ。



「早く家に帰って余韻を楽しみたいな……。五歳かな子ちゃんも三十五歳になったかな子も,どっちもよかったな。もう,どっちにも会えないのがちょっと残念だけど」



 主人がいなくなり静まり返った家に残された何も映らないモニタの下で赤いライトが点滅していた。ライトが点滅を続ける間,ベンチレータに取り付けられた機能が作動し,何度も奥村のスマホに機械の異常を伝えるアラームを送り続けた。


 車が信号で停車すると,鳴り続ける仕事用のスマホをオフにして,自分のスマホを取り出し,全身をぐちゃぐちゃにされ目を見開いたかな子の写真を見ながら抑えきれない性欲に全身を震わせた。



「愛してるよ……愛してる……かな子ちゃん,愛してるよ……」



 何度も呟いてから,かな子が写る画面にキスをして胸ポケットにスマホを入れた。そして歪んだ笑顔のままハンドルを握りしめ,車をゆっくりと発進させた。



「先生はずっとかな子ちゃんのことが大好きだったんだよ。昔も今もずっとずっと。でも,ようやく永眠ねむれるね。かな子ちゃんは,お昼寝好きだったもんね」



 車がゆっくりと職場の駐車場に入っていくと,スタッフたちがかな子のベンチレータから届くメールを奥村に伝えようと車を取り囲んだ。


 奥村は車から降りようとはせず,ロックした車のなかで歪んだ笑顔を見せて股間を力強く握りしめた。スタッフたちが窓ガラスを叩き,必死になにかを伝えようとしていたが,奥村は静かに目を閉じて射精をした。



「おやすみ,かな子ちゃん。愛してるよ」

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